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「何故、日本はアジアのリーダーになれなかったのか?」という100年後の未来からの問いかけ

 人間の思考は、常に時代性の制約に縛られているため、完全に自由な立場で物事を考えることは不可能です。
 たとえば、これは思考的な遊びの一種としていうのですが、現代という時間軸を世界史的視点から俯瞰的に眺めた場合、「何故、日本はアジアのリーダーになれなかったのか?」という問いかけは、100年後には切実な意味を持ちうるのではないでしょうか。

 80年代の日本は、アジアにおける、ほとんど唯一無二の絶対的パワーを誇る超大国でした。
 もし未来人が当時の日本のデータだけを見るならば、この時期以後に日本がアジア社会のイニシアティブをとれなかった未来を予測する方が困難であると感じるかもしれません。

 この問いに対し、おそらく未来における左寄りの識者は

「金儲け第一の拝金主義に陥った日本は、アジア諸国から尊敬されるだけの精神的価値を持ちえなかったからだ」

 と主張するでしょう。

 一方で、右寄りの識者は

「反日国家の存在がそれを妨げた」

 と主張するかもしれません。


 しかし、これらは裏を返せば、「たとえ反日国家であっても共有できるだけの魅力ある理念を、日本が提示することができれば、アジアのリーダーになれた」という同一の可能性を、それぞれ別の言い方で主張しているように思えます。
 なんとなれば、リーダーの資質とは、己の旗印を高々と掲げ、敵味方の党派性を超越する力にあるといえます。
 
 筆者は、「人間の徳性に期待することなく、経済的合理性の積み重ねによって世界平和を実現するためのマガジン」をnoteで不定期に更新しています。
 世界平和という理念は、決して理想主義的な妄言ではなく、真剣に国益を追求したからこそ出てくる発想です。

 このままいけば、日本の相対的な国力は低下する一方ですが、もし100年後の未来からみて、やり直せる過去があるのだとすれば、それは今かもしれません。
 別に、それが世界平和である必要はないとも思いますが、欧米由来でない日本独自の理念をいかに掲げていくかというのは、喫緊の課題であるように思えるのですが、どうでしょうか。

4/21補足記事を更新



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