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右派と左派の対立を統合するための視座について――ゲーム理論の簡単な説明から、世界平和が可能な理由を考える・後編

はじめに


 さて、前回の記事において、ゲーム理論から、インセンティブ構造が変化した現代においては、世界平和が理論的に可能になっているのではないかという筆者の仮説を述べました。
 この「インセンティブ構造の変化」というキーワードは、現代社会において、なにかと対立を引き起こし、深刻な分断の原因となっている保守とリベラルの争いについても、一定の理論的理解を提供するものではないかと考えており、今回は、それについて述べたいと思います。

社会的信念は常に時代を追いかける

 インセンティブ構造が、技術や生産性、あるいは気候といった広義の環境要因により変動することは前回の記事で述べた通りですが、しかしインセンティブ構造の変化がすぐに制度の変化に結び付くわけではありません。なぜなら人々や集団の文化には、社会的に望ましい振る舞いが、信念体系として組み込まれているからです。

 もう少し、具体的に説明してみます。
 かつてアメリカの開拓地では、粗野で乱暴的な振る舞いが、「男らしさ」として尊重される文化があったそうです。
 これはアメリカ大陸が広大過ぎたために、警察機構の整備が追いつかず、人々が「自警団」のような形で、自分たちの身の安全を守っていた歴史に由来するとされています。つまり、粗野で乱暴的な振る舞いは「あなたが私に危害を加えることがあれば、私は必ず復讐する人間である」というシグナルとして働くため、悪い奴にターゲットにされるのを防ぐことができます。
 ところが、警察機構が整備され、粗野な振る舞いのインセンティブが減少した現代においても、自分の身は自分でも守る「男らしさ」の文化は存続し続けています。これは文化に組み込まれた信念体系が、技術の進歩や生産性の向上に比べて、変質するのに時間がかかるためです。そのため、従来の「粗野な振る舞い」が持っていたインセンティブが消滅していく一方で、衝動的な暴力沙汰が起きやすいという男らしさのデメリットは残り続けます。これはアメリカ社会が他の先進国に比べて犯罪が多い国であることの要因のひとつとなっています。アメリカにおける銃犯罪の事例を取り上げて考えてみると、よりイメージしやすいかもしれません。

 ここで、インセンティブ構造と信念体系の連関性を考えてみます。(※1)
 インセンティブに適性的な行動をするグループと、そうでないグループがあった場合、前者のグループの方が生き残る確率が高いため、勢力を拡大し、やがて支配的な地位を占めるようになります。この時、集団は経験知の蓄積により、インセンティブに適性的な行動を規範的行動として、自分たちの文化の信念体系に組み込みます。
 先程のアメリカ開拓地において、インセンティブ行動であった「粗野な振る舞い」が「男らしさ」として社会規範にまで高められたのを思い起こして頂ければと思います。
 ところが、繰り返しになりますが、インセンティブ構造は環境要因によって変質します。そのため、かつて集団を利した行動が、今度は集団に不利益になる事態が発生します。ところが人々の意識というのは現実そのものを規定する性質をもつため、その変容に即座に対応できません。伝統的な社会規範にまで高められた信念体系は、その共同体にとって神聖な価値を有することになるからです。「男らしさを捨てるなんて、とんでもない!」というわけです。その結果、現実のインセンティブ構造と人々の信念体系にズレが生じることとなります。
 とはいえ、このズレを埋めるために、インセンティブ構造を変化させる(「男らしさ」の文化を守るため警察を廃止しよう!)ことは非合理的ですから、漸進的に社会は信念体系のパラダイム転換を迫られることになります。
 直感的には、革命を含めた変革運動が成功する条件式のひとつが、このインセンティブ構造と信念体系のズレにあるのではないかと思っていますが、まあ余談です。

右派と左派

 ここまでで結構長くなってしまいましたが、いよいよ右派(保守)と左派(リベラル)が社会に与える機能について、考えてみます。
 まず、最初に前提条件として、筆者は父性原理と母性原理をそれぞれ「競争原理」と「生き残り原理」として捉えています。この両原理は単なる対義語にはなく、パラダイム転換を必要とする全く異なる原理性であることは再度強調したいのですが、この枠組みにおいて、右派は父性原理的、左派は母性原理的と考えています(※2)。
 さらに、父性原理は、西洋的、切断的、競争的であるというのが筆者の主張ですが、わかりやすいように図にまとめてみます。

母性原理

 図式的過ぎるきらいのある分け方ではありますが、ここでは議論をわかりやすくするため、このようなイメージで論を進めます。
(※なお、右派を競争的、左派を協力的であるとするのは、上原博明氏のnoteの連載記事↓の知見を参考にしています。)



 さて、ゲーム理論において、個人の合理的な行動が、社会的には不合理な選択となり、結果的に個人に不利益として返ってくることを、「社会的ジレンマ」と呼びます。これに対し、筆者はより積極的な意味合いから「協調的な行動は、社会全体の利益に繋がる(ことが多い)」と捉えています。(※1)
 ここで重要な意味を持ってくるのが、左派の持つ「協力的な性質」です。
 左派の進歩的な言説は、より広範囲な社会の協調行動を促すため、社会的ジレンマを克服し、新しい社会的最適解に到達する可能性を提供するからです。
 ところが、インセンティブ構造の変容のタイミングは、人間の限られた知性にとっては必ずしも明確でないため、インセンティブの伴わない信念体系の変化は、社会秩序の破壊だけを引き起こします。(※2)
 これがいかに悲惨な結果をもたらすかは、歴史的には、旧ソ連による共産主義革命という壮大な社会実験が典型的な事例といえるでしょう。また、一時期の日本で論じられた非武装中立のような意見が出ることも、こういった左派の特徴のひとつといえます。
 そこで右派の伝統的な信念体系を固辞する態度は、左派の観念的な先走りを抑制し、社会秩序を維持する機能を持ちます。

 筆者は、左派が「右派を打倒することで自己の主張を通す」という競争原理的な戦略をとることには批判的な立場です。なぜなら競争原理的な右派と異なり、生き残り原理に立脚する(と筆者が考える)左派が競争戦略を用いることは原理整合性がないからです。オードリー・ロード曰く『主人の道具で主人の家を壊すことはできない(※3)』のです。
 むしろ左派に望ましい戦略は、生き残り原理のそれだと考えます。つまり、信念体系の変革がインセンティブ構造に適性的であった場合、左派的言説を取り入れたグループは勢力が拡大します。その結果、自然淘汰的な水準から左派的な進歩的価値観が伝統社会に置換していくことになります。
 筆者は、左派の主張する社会変革は上記のような理路を目指すのが望ましいように思います。世界の最も偉大な指導者の一人であったマハトマ・ガンジーがイギリスの「力の支配」に対抗するに、「非暴力不服従」という全く別の原理を用いてインド独立を勝ち取った事例にこそ、左派がとるべき範があるのではないでしょうか。

まとめ

 まとめます。
 右派が社会に果たす役割は社会秩序の維持にあります。そのため右派は伝統社会を固辞する性質を持ちます。伝統社会とは、歴史によって繰り返し検証されたインセンティブ適性行動の経験知によって成り立っているため、社会を安定的に運用することが可能となるからです。ただし、環境(ゲームルール)そのものが変化した時には、変化に対応できず、社会が老朽化していくデメリットがあります。
 右派の基本戦略は「攻撃」です。これは、たとえるなら人体の免疫機能であり、右派は伝統社会にとっての「異物」を攻撃することで、社会の恒常性を回復させます。

 一方、左派が社会に果たす役割は社会の新陳代謝です。社会が環境の変化に直面して、既存のパターンでは不都合が生じた時、伝統的な信念体系とは異なった文脈を提示することで、新しい解決策への理路を開きます。しかし、新しいシステムの有効性は、トライ&エラーによる検証が必要なため、急進的な変化はバグが多発し、社会全体がシステム不全を起こします。
 左派の基本戦略は「増殖」です。これはウィルスの例をイメージするのが適当でしょう。左派にとって右派からの淘汰圧は、残すべき遺伝子を選別するためのシステムとして機能します。そうやって選別された左派的言説が環境に適性的であった場合、ウィルスは増殖し、免疫を凌駕します。
 この時、社会は一時的に発熱や悪寒などの症状を引き起こしますが、時間と共に新しい免疫系がウィルス情報を取り込むことで、社会はより強靭なものに作り替えられていきます。

機能

 わかりやすいということは、細部を切り捨てているということなので、必ずしもいいこととは思わないのですが、基本的な枠組みとしては、このような右派と左派の作用による循環を繰り返しながら、社会というのは少しずつ良くなってきたのではないかなーと、僕なんかは考えています。お読み頂きありがとうございました。

参考

※1 今回の記事は以下の記事も参考にしていただけるとわかりやすいかと思います。

※2 同文

※3 Wikipediaより引用

なお、前後の文章は
「私たちの中で社会が女性だと受け入れた輪の外側に存在する人たち、差異というるつぼに纏められた人たち、貧しくい人、レズビアンである人、黒人である人、年配である人、そんな私たちは生存のための力が学力なんかではないことを知っている。それは差異を力に変えること。主人の道具が主人の家を壊すことはないのだから。主人の道具は、彼らを彼らの土俵で倒すことを一時的には許すかもしれない。でもそれらは私たちに真の変革をもたらすことはない。そしてこの事実が脅かすのは、主人の家こそが自らの土台だと考えている女性だけである」

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