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カニに無関心なこと、わかってほしい。

だんだんカニの季節が近づいてきた。

毎年10月後半を過ぎたあたりから、一度は「カニでも食べようか」という話が出る。

例えば、
「カニをもらったから、遊びにおいでよ」とか、
「みんな集まったし、カニでも食べにいっちゃう?」とか。

この間、ふるさと納税のお礼品選びに悩んでいると話したら、
「カニは?うちは毎年カニもらってるよ〜」
と、満面の笑みで勧められた。
付き合いがそろそろ20年になろうという友人である。

どのお誘いもお勧めも本当にありがたい。
だが私は、みなに一度はこう伝えているはずだ。

「カニには興味がないんだよね」、と。


別にカニを嫌ってなどいない。
ただ、私にはカニの美味しさがわからないし、自分から食べたいと思ったことは、生まれてから一度もないだけなのだ。


信じてもらえないかもしれないが、「カニに興味がない」という気持ちは、びっくりするほど伝わらない。
私の発言が彼らの記憶に残ることもない。

カニを愛する人々は「このような美味しいものは、好きで当然」と、固く信じておられるようだ。

そこには信仰に似た純粋さがあり、異分子は自動的に排除される。

だから私はもう、カニについて何も語らない。
親戚や友人の半数がカニを求めたら、黙ってついていく。

そりゃ私にも、カニへの興味のなさを伝えようと試みた時代があった。
するとカニを愛する人々の95%は、軽く首を振ってこう言う。

「ああ、おいしいカニを食べたことがないんだね」


いや、あるよ。
カニの有名店にも行ってますよ。
松葉ガニもタラバガニも、食べてるよ。
北海道や金沢でも食べたさ。

ただあの労力に値するほどの、特別な「甘み」や「旨味」を感じなかったと言っているつもりなんだ、こちらとしては。


そう。私がカニと対面したくない理由の一つに、「労力」がある。

割ったり掘ったり、割ったり掘ったり、ものすっごく面倒くさい。
足なんてどんなに頑張っても、絶対に身が残る。
一体いつまで掘れば、すべての身が取り終えられるというのか。

すると誰かが言う。
「切れ目が入ってるから、簡単に割れるよ!」

果たしてそうだろうか?
簡単かつきれいに割れた経験など一度もない。
「バキョッ」っという音と共に、変な形に割れる。
そのかけらは、しばしば私の指を切りつける。

こちらが愛を持って接さないと、カニ側も拒絶する仕組みか?

そうして苦労の末に得たカニの身を、今度はカニ酢につけるわけだが、その味も特に・・・
しかも入れた直後にバラける場合もある。
それを箸でちまちま食べていると、「ウワーッ!」って叫びたくなる。
叫ばないけど。

「カニ雑炊がまた、おいしいんだよね」

そんな声も聞く。とにかく味が染みてコクがあると皆が言う。

しかし私にはカニ雑炊の良さもわからない。いや、雑炊は好きだから普通においしいですよ。でも・・・

なんていうか、淡くない?
パンチなくない?
鳥雑炊で良くない?

でも、みんなの幸せそうな笑顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
なんか自分が、ものすごい天邪鬼のような気がして、居た堪れなくなる。
あるいは良い舌を持たぬ、哀れな味オンチのような気が・・・

そのうち

「ああ、私にカニ様はもったいないさ。なのに私の人生にもカニが配分されちゃって、まったくすいませんね、どうも!!!」

という、投げやりな気持ちに襲われるのがお決まりのコースだ。

私の人生の「カニ分配」を、カニファンの人々に分けられたら良かったのだが。

人生は、ままならないものである。


さて私が語らないはずのカニ事情について、こうも長々書いたにはもちろん理由がある。

令和4年の夏、骨折で入院していた父が退院し、快気祝いをすることになった。
そこで父に何が食べたいかを聞くと、彼はこう言った。

「カニだな! みんな好きだし、ちょうど良いだろ」



その声は「俺、良いアイディア出しただろ?」と言う自信と喜びに満ちていた。
そして家族の全員が、大喜びで賛成した。

やはり「カニに興味がない人」の存在は忘れ去られるようだ。

それが例え親子であっても。
幼い頃から何十回と、カニに興味が無い旨を告げていたとしても・・・。




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