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『ヴィジル』に感じる違和感

単刀直入ですが、タイトルにもある『ヴィジル(Vigil)』という活動をご存知でしょうか?

屠殺場に運ばれる
動物たちを乗せたトラックを止めて
お水と愛の言葉をあげる活動をvigilと言います 🕊🌱☀️

(上記リンク、活動家Annaさんの投稿より)

罪なき命の犠牲を守るためにヴィーガンを実践している方々ヴィーガンに関心がある方々が、畜産業の実態を知るためにも、よく足を運んでらっしゃる印象のこの活動。

この活動の存在を知ったのは去年の夏。

知った直後の印象は、
「今まで人からの愛を受けたことのない動物たちへの素敵なアクションだ!」と思ったのですが、よくよく考えてみると、命の重さへの捉え方にすごく違和感を覚えたのです。

確かにヴィジルの活動自体は、表面上は優しさを知らずに生きてきた者たちに手を差し伸べてあげる愛のある行動なのだけど、
なんだか動物の立場になると、死ぬ間際の一瞬だけ優しくされて、ちょっとでも生きる希望を見出した数分後には殺されて精肉にされる。って優しさを知らずに死ぬより残酷に思えて来るのです。(´・ω・`)

それにヴィジルに参加した方々の投稿を見てると、畜産現場の悲惨さがひしひしと伝わって来て(まあそれを伝える活動だからそうなんだけど)、その場でその家畜達を育てている人間たちが悪人に見えてしまう。

その人達も個々の生活があって、その場で働いているのに。

もちろん今の工業型畜産は、動物の命のいただき方としては崩壊してるし、あってはならない姿だと心から思いますが、
愛の与え方や、過剰な生産者の描写は気をつけないと、活動家の皆さんが変えたいことは平和的に変えれない、と感じるのです。

この前 "Seaspiracy" を見た時に感じたことでもあるけど、買わないという消費者の意思表示で動物たちの命を守ると共に、その産業で生きている人間たちの命も守ることも考えないと、結局命の重さの差が出てしまって、争いが起きてしまうと思うから。

そんな違和感を1度感じてしまったら、ヴィジルに行ってみたいと思わなくなった。
行けば何か違うものを感じることが出来るかも、とも思ったが、人間が人間以外の弱者に優しさを与えたところで、それは結局自己満足なのではないかと。

(わー活動家の皆様から怒られそうなことばっか書いてる💦)

まあ実際、ヴィジルが盛んな北米では、コロナ禍の健康志向も相まって、豆腐などの大豆食品やフェイクミートの売れ行きが好調でゆるベジ的な食生活が今までより広まりつつあるっても言うし、この現実に対して声を上げることで確かに変わることはありそうだ。

だからヴィジル自体もヴィジルに行く人達も否定はしないんだけど、(個人的に腑に落ちないところがあるってだけで)

同時にその動物たちと直で関わってきた人たちの生き方がどう変わったかも、知れるといいな。

(調べようとしたけど、畜産業が与える悪影響しか出てこなかった… 私やっぱり検索下手なんかな…)

私達は人間として生きている以上、人のためを想うのは自然なことだよね。
今まで人間以外の生命体に与えてきた残酷なことは正さないといけないけども、そこに関わってきた人間も守らないと意味がない。

と、いち消費者、いち人間としてそう思います。

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