近況

SNSの投稿頻度を減らした。
最初は意識的に投稿しないようにしていたが、次第に投稿する気も起きなくなった。正直に話すと殆どミュートしている。果たしてやっている意味はあるのだろうか?以前としておすすめはミュートを貫通してくる。そんなワケでストレスがゼロではない

noteは尖った変人の巣窟という漠然としたイメージがあり始めたのだが、最近どうやらそうでもないと思うようになった。単純にDigが浅いのと周りの人が偶然そうだっただけな気がする。たまに流れてきた記事を読むことがあるんだけど、これがカスみたいな内容だった。そんな記事に限っていいねが多い。なるほど、ここにも居場所はないようだと感じた

最近は自分よりずっと年上の人と話す機会が多い。
その影響なのか周りの発言や投稿がダサいと思う頻度が明らかに増えた。これは自分にとっていい流れである。むしろずっと望んでいたことだった。この前、久々に褒められた。自分は自信がある時とない時の差が激しい。ある人には理想が高すぎるだけで基本的なクオリティは高いと言われたことがある。後輩とは前に自分が納得することが出来たライブがないよねという話で盛り上がった。理想が高いこと自体は悪いことではないしそこに辿り着こうと努力することはいい。ただ理想が高すぎると自信が持てない。+性格的な部分も合わさってこの自己肯定感の無さだったのかと思った

最近はYouTubeで昭和〜平成のドキュメンタリーをよく見てる。統合失調症、日本を離れる若者、派遣切り、ホームレス、ひきこもりなど。思うこと多々アリ。後は地面を掘って家とかプール作ってる動画とか森で家とか料理を作る動画とか。前に投稿した記事にそういうのばかり見る理由は都会の喧騒とか社会の閉塞感から逃れたいということなんじゃないか?みたいなこと書いた記憶があるんだけど、DNAに刻まれた本能だと思った。どうしようもなく海を見たくなるのもそれ。ホームシックみたいなもの。
それとmidwest emoのリフばっか見てるな

昨日、夢を見た。しばらく会ってない年下の女の子が自殺する夢だった。携帯を確認するとその子から最後のメッセージが送られてきていた。いざ死ぬ時にメッセージを送る相手、その中に自分が入ってたことに安堵した。メッセージの内容は忘れた。多分というか絶対、寝る前に夏目漱石のこころを読んだからだと思う。後はその子と連絡が自然と途絶えたことが心に引っかかっていたんだろう。起きた瞬間悲しいという感情と懐かしいという感情が混ざった不思議な感覚だった。この感覚が堪らなく好きだ。連絡が取れないといえば、アイツは無事だろうか?
ひとつ言えるのは後悔も怒りも一切ない。向こうはどうなのか全くわからないけど。それがあって連絡が出来ずにいる。生きてさえいればまた会えるって思った飲み会の帰り道

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