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アウシュヴィッツ強制収容所①

2019年8月、アウシュビッツ強制収容所へ行ってきたときの話です。今後行こうか迷われてる方、もしくは行く予定はないけれど興味があるという方、是非読んでみて下さい。

想像できますか?
世界196ヵ国あるうちの一つの国、その中の小さな町の、更に小さな一角。そこへ世界中から100万人を超える人々が運ばれ、残酷な形で生涯を終わらせられたこと。
私は想像できませんでした。
昔、「100人の死より一人の英雄の死」という言葉を聞いたことがあるけれど、想像を膨らませるには100万人という数字はあまりにも大きすぎて。

ここはポーランドのオシフィエンチムにあるアウシュヴィッツ強制収容所。ポーランドより遥か遠く離れた日本に住む私たちですら、よく名前を知っているこの場所。沢山の人が殺され、沢山の人の人間らしさが一瞬で奪われた忌むべき場所。今回、ポーランドに行こうと決めたとき、ここも立ち寄るべきなのか凄く悩みました。

行くべきだ。そんなこと分かってる。

分かっているのに、どうしてこんなにも気が進まないんだろう。昔、「夜と霧」を読んで、その衝撃が忘れられないから?一人旅の思い出に、暗い闇を落としたくなかったから?理由は自分でもよく分からなかったけど、一人でこの場所を訪れる勇気がなかなか出なくて、結局行こうと決断できたのはポーランドに着いてから三日目のこと。急遽日本語ツアーの予約を入れて、翌朝予約完了のメールが届いた時、
「あぁ。私、本当に行くんだな。」
なんて、ようやく覚悟が出来たくらい。決して、観光気分で訪れる場所ではない。かといって神妙な心持ちでいるのもどこか違和感がある。自分の中の心の整理がいまいち出来ないまま、ツアー当日の朝を迎えたのです。

クラクフの街からバスで約一時間半。どこまでも続く田園風景を眺めながら、私はガイドさんの話に耳を傾けていた。何故アウシュヴィッツ強制収容所が出来たのか。アウシュヴィッツという地名はポーランドの言葉ではないこと。高校の世界史の授業で一回はアウシュヴィッツに関して習っているはずなのに、どれも初めて聞く話ばかりだった。そんな自分がやけに嫌になって、少しだけ気落ちしたことを覚えてる。

ポーランドではなかなか会うことのなかった日本人に囲まれながら辿り着いた、アウシュヴィッツ第一収容所。世界中から観光客が訪れることもあって、A4サイズ以上の荷物を持込できなかったり、荷物検査は手作業とはいえかなり緻密。人が多すぎてガイドさんの声が聞こえない可能性もあるので、グループに一個、ヘッドマイクが割り当てられたりと、予想に反して現代的な施設だったのが印象的だった。

荷物検査を終わらせて足を踏み出す。もうすぐ、あのアウシュヴィッツ強制収容所と御対面だ。怖いような、現実味がないような。足がすくむような恐怖はなくても、どこか抵抗感はあって。結局、自分から「さぁ、行くぞ!」という気持ちにはなれなくて、半ばガイドさんに連られるような形で最初の一歩を踏み出しました。

この写真で真っ先に目につくのは、ドクロが描かれた看板と有刺鉄線かもしれないけど。

ここへ足を踏み入れて最初に抱いた感想は、
「空が綺麗だなぁ。」
だった。あんまりにも的外れな感想だろうか?でも、本当なんだ。外は身が引き締まりそうなくらい冷え切っていて、吸い込んだ空気は澄み切っていて、高層マンションなんて勿論ないから、どこまでも遠くを見渡すことが出来て。

どんなに言葉を尽くしても伝えきれないこの語彙力が恨めしいけど、空気はとても澄んでいたんだ。だからこそ、より一層目の前に広がる有刺鉄線や髑髏の看板が不気味に見えた。例えば写真の真ん中に建っている小屋みたいな建物、これは収容所から脱走する人がいないか随時見張っていて、いたら射殺するための建物だったらしい。しかも、その見張っている人だって元は同じ収容者。

何でこんなことになってしまったんだろう。この空間に足を踏み入れて、自然の美しさにびっくりした私が次に抱いた感情は、無力感だった。

「Arbeit macht frei」
日本語で「働けば自由になれる」という意味。

当然だけど、このゲートは決して部外者が作ったものではない。この収容所で暮らし、明日の命すら保証されてない収容者が作ったものだ。彼らは一体、どんな思いでこのゲートを作ったんだろう。私にはとてもじゃないけど想像がつかない。でも、
「もし本当に自由になれるのであれば」
「もしこの収容所から出ることが出来たのなら」
そんな希望だって、込められてたはずなんだ。例え僅かであったとしても。そんな希望が容赦なく打ち砕かれたのだと思うと、このゲートがやけに重く、空虚に見えた。

施設の中に入ってみると、びっくりするほど人に埋め尽くされていた。まぁ、そうですよね。世界的な施設ですものね、ここは。朝9時の山手線並に人が来館されていて、身動きを取る隙間がほとんどなかった。ただでさえ身長がそこまで高くない私は、ゆっくり感傷浸る暇すらなく、ガイドさんに置いていかれないよう前へ前へと進んでいくのに必死だった。道中置かれている写真にだって、よくよく目を凝らす時間はあんまりなかったけど、それでも折角ガイドツアーをお願いしたのだからと、ガイドさんの話には必死に耳を傾けていた。すると聞こえてくる、悲惨な話の数々。

「ここから出ようとした人は、全員射殺された。」
「毒ガスを吸った人は、全身から液体を吹き出して苦しみながら死んでいった。」
「あまりに列車内の環境が酷くて、ここに到着する前に死んでいった人も沢山いる。」

ガイドさんの言葉には、感情がなかった。きっとあえてそうされてるんだろう。感情的に語るには、あまりに悲惨すぎる。そしてなにより、ガイドさんが淡々と話してくれるおかげで、私も自分で話を受け止めるゆとりが出来た。こういう話って、どうしても話し手の感情に私も引っ張られがちになってしまうから、ガイドツアー中はずっと、自分だけの感情でこの収容所と向き合うことが出来たような気がします。

ガイドさんの話の中で何回も何回も登場したフレーズがありました。
「この場所で死んだ」
「ここで殺された」
日常ではあまり聞き馴染みのない、「死」というフレーズ。それでも不思議なことに恐怖感はなかったのです。
この場所で?
そんな惨劇が起こってたの?
そんな馬鹿な。
どんなに写真を眺めたって、どんなに遺物を眺めたって、なかなか実感が湧かなくて、自分の感性が鈍ってるのかと不安になるほどでした。そんな私が、思わず100万人の死の重さを痛感した出来事がありました。

それは、マンションの一階スペースくらいある敷地一面に投げ捨てられた、靴を紹介した時のガイドさんの一言。

「この一足一足が、ここで失われていった命の数」

この「一足」の中には、普通のスニーカーは勿論、子供用の小さな靴だったり義足だったりも含まれているわけで。それだけで、いかにいろんな人が犠牲になったか思い知りました。

「この靴を履いてきた人は、どんな気持ちでここまで運ばれてきたんだろう?」とか
「この義足を履いてきた人は、それこそ必死の思いでここまで辿り着いたんだろうな。」とか

この靴を履いて、ここで生活をしようと覚悟を決めて来た人たちの、行き場のない悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。靴は自分の意志で喋ることが出来ないけど、御主人様の思いは確かにそこに存在してた。そんな悲痛な叫びが、逃げ場がない中あちらこちらから聞こえてくるのだ。あまりにも異質な空間。100万の重さを、ようやく思い知ったのです。 

⇒②へ続く