推し方談義

好きな人の全てが好きな訳じゃない。
好きなとこ、あんまり好きじゃないところ、相手だって人間だから、両方あるのが当たり前だって思っている。

好きな人の活動全てを追っかけられる訳じゃないし、ましてその全てを均等に愛せる訳じゃない。
歌っているところは好きだけど踊っているところはそうでもないとか、こういう企画の動画は好きだけどこういうゲームの動画は別に好きじゃないとか、オタク(私)にだって好みがある。
好みに沿って観たいもの、お金をかけたいところを選び取っている。

好きな人(推し)の全部を愛したいのに愛せなくて、無理をして苦しそうにしている人をたまに見る。苦しそうなだけならまだしも、自分が愛せないところを指さして「直せ!」と好きな人(推し)に訴える人もたまに見る。
私はそういう人たちの心理を理解してあげられなくて、どうして彼らがそうなってしまうのかが分からなくて、でも傍からその様子を見るだけでも苦しかったり時には不愉快だったりして、結局もやもやする。

推しとオタクは特別な絆で結ばれている、なんて思わない。
推しが自分のファンを、オタクが自分の推しを、それぞれ大切に思ってそれを言葉や行動で示すことは本当に素敵で大切なことだとは思っている。
けれど、互いに大切に思うことと、互いに妙な義務感を背負うことは違うと思う。「(人として)やっちゃいけないこと」は義務としてあっても、ファンだからこうしなきゃいけないとか、全部肯定して応援しなきゃいけないとか、そういうのは違うんじゃないかと思う。推しは自分が好きで大切にしたいことだけを守っていてくれれば良いし、オタクは自分の好みにもう合わないと思ったら離れればいいし。どっちかがどっちかのために変わらなきゃいけないのはフェアじゃないから、好みじゃない、と思うならただ離れればいいの。今の世界、エンタメはその推し以外にも星の数ほど溢れているから、ちょっと周りを見渡せば自分を満たしてくれるものが他にもあるよ、とか思う。


多分だけどこういう考え方は特殊なんだろうな。
好きなものが多い私だから思うことなのかもしれない。でも、わたしのいち意見だけれど、好きなものはたくさんあった方が安全だと思うの。ひとつしか持ってなかったら、それがもし何らかの理由で楽しめなくなったときに困ってしまうと思うから。頼る先は多いほうがいい、と私は思う。

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