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恥ずかしながら今更「人間失格」を読んだ話
・大学の学費は4年間分の自由時間を買うためのもの
持論である。
その4年間をかけてしたいことが学部の勉強ならばそれに骨を埋めればいいし、そうでない人は人生が頓挫しないために最低限の勉強はしておいたほうがいい、ぐらいの感覚。大学生の本分だと言われがちな「大学の勉強」も個人的には「自由時間」の内側に包摂されている認識がある。
陳腐な言説にはなるのだが、大富豪から浮浪者まで等しく持っているもの……それが時間。
365日×4=1460日。こんな膨大な時間をたかだか数百万円で買わせていただいている(もちろん親には頭が上がらないので、親孝行はしないといけないなあ)。イーロン・マスクが何十億円を積み、孫正義が「1460日」という文字のシルエットを掲出して来年はこいつが獲りたいです、と宣言したとしても手に入らないお宝である。
実際にこの4年間でやりたいことには糸目をつけず臨んできたつもりだし、自分の中ではそれだけで学費へのお釣りが有り余るぐらいの感覚ではある。
ただ一点だけ「もしかしたら損をしている……?」と卒業前に気付かされたこと。
そう、案外図書館を使っていなかった。大学の図書館というだけあって学術書や伝統的な書籍の類が多く、娯楽小説は顔を見せない。ライトノベルなんて論外。「〜件」という題名の書籍を今出川図書館の棚に置いた者は地下牢に投獄されるらしい。そこにウォルトディズニーの亡骸も冷凍保存されてるらしい。
読書こそ人よりすれ、固い本は読まないなあ
と、勝手ながら敬遠しているフシがあった。
けど、学費を払っている以上無料で読み放題であるにも関わらず読まない本は、金を払ってまで絶対に読まないだろ。と至極当たり前の事実が脳裏をよぎった。卒業まであと数十日。
焦燥感と衝動に駆られ、図書館に駆け込む。純文学と哲学書を物色。ここで何年も泰然自若と埃を被ってきた本たちには「なんか人間が焦ってら」「僕たちとは真逆だね」とせせら笑われていたことだろう。許せ。焦っていることは認めてやろう。私には社会という食品加工工場に出荷されるまでの時間がない。
読書好きを標榜しておきながら、まるで過去の名著に触れてこなかった。4年間糸目をつけずにやりたいことに挑戦してきたんちゃうんかい。糸目って凧が勝手に飛んでいかないようにつける糸のことらしい。お前縛られまくりやん。チャーシューやん。縛られるのはええわ、勝手に太らさんといてくれ。これは見取り図のサンプリング。
「太宰治を読んだか?」
いいえ、読んでおりません。ダメだ、これじゃNMB48にも笑われる。551の豚まんがあるとき、の山本望叶の絶妙な表情すらも爆笑に変えてしまう。
閑話休題。
漠然とした、恐らく世間一般の共通認識として「人間失格」には自堕落で酒とタバコと女とシャブに浸かって精神を蝕まれていった太宰治の自伝的小説、というイメージがあると思う。実際自分はそうだった。だから「人間失格」だよねってこと。最近の若者言葉で言うところの「限界大学生」みたいなもの。人としての救いようがない、終わり!ってことを伝えたいのかと解釈してた。
確かに「限界大学生」にはその一義的な側面しかないだろう。でも「人間失格」は少々訳が違っていて。
太宰が人一倍、いや何十倍も他人の目を気にしてしまうセンチメンタルな気質を持っていて、幼少期は道化として本当の自分を隠しつつ他人を楽しませ褒められるというウィンウィン的な壁のつくり方に徹して精神の安寧を保っていたのに対し、成長につれ太宰は度重なる試練で精神を病みそういったギルティに逃げていく。
ただ一貫しているのは他人に迷惑をかけていないということ。
最後の最後、第三者が作中の主人公について語るという描写がある。
そこで彼女は語る。「彼は神様みたいないい子でした。」と。太宰は、どこまでも他人の目が気になる人だった。その過剰な神経質さは事実として普通の人間離れをしているのだが、それゆえの「人間失格」ということなのではないか?
少なくとも私には太宰治に自堕落ダメ人間の烙印を押して、はい失格です、と言うことは出来なかった。
それを後押しする材料として岩波文庫版に同時収録されている「如是我聞(にょぜがもん)」という評論に「心づくし」という単語が出てくる。ここにも、太宰の、人のためにという精神が垣間見える。
太宰治の小説は人を面白がらせる娯楽色が強すぎる、という批判に対しては、墨絵のとの対比で「光琳の極彩色は芸術ではないと思っているのだろうか」と反論。
ゆえに作品のオチが読める、という批判に対しては「芸術は試合ではなく、読むものを傷つけない奉仕である」と表現。
まさに読者ファーストの太宰治なりの優しさの賜物ではなかろうか。
人と馴染めないからこそ、自分がイヤになる。
そしてそんな自分の弱さを自認する。
少なからず私自身にも当てはまるところがあるな、などと思った。多少なりとも救われもした。というか弱っている人間や現代社会という奇妙なフィールドに生きづらさを感じる人が太宰を読んだらば、きっとみんなが「自分のことを代弁してくれてる」と舞い上がることであろう。
だからこそ太宰治は歴史に名を遺した。芸術やエンタメ作品の神格化は、おおよそ「これは自分のためだけに特注された作品だ!(実際はそんなわけがない)」と全ての人に錯覚させる力によって始まると思う。
……という、レポートとして提出しても良さそうな所感を、何の単位にもならないのに書いてしまった。
であるが、こちらの執筆は私の限りある「自由時間」を投資するに値するほどやりたいことだったのである。やりたいことは全部やれ、大学生活。
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