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小さな彼9

 彼は、めったにお金を使いません。ただし仕事の機材や楽器や、勉強のためにはキチンとお金をかけます。後、体にいい食べ物に対しても。
 その彼が私に指輪を買ってくれたのは付き合って3か月ぐらいでした。真冬の町田の古着屋さんにいたとき、ふっと手にした小さく華奢な可愛い指輪がスッと指に入り、笑顔で「可愛い」と振り返ったとき、仕方ないなあという顔つきをして買ってくれました。何度も陽にかざして、似合うか聞いてしまいました。
 その頃わたしは気付かないうちに、精神的に病んでしまって、なにを食べても美味しくなく、怖くて一人でいられない病気になっていました。体重が急に減り、今まで合わなかった号数の小さなハートの石が入ったピンクゴールドの指輪が、スッと指に入ったのはそのせいでした。
 その数日は仕事でホテルにひとりで泊まっていたのですが、とにかくホテルから出るのも怖くて、かといって、一人で泊まるのも怖く、Zoom会議も震えるほど耐えられなくなって、どうやって、その大切な仕事の数日を熟そうか、秘かに考えあぐねていました。始めは遊びに来て、休憩時間にギターを弾いていた彼が、一つ会議が終わるたび、安心と開放感で泣いている私を見て、静かにおかしいと感じたのか、家でやるべき事がいっぱいあるから、帰ると言っていたのに、なぜか泊まり続けました。心の余裕がなかったので、彼が帰らず、ギターを弾いて傍にいるのがおかしいな?と感じていましたが、深く考えが及ばなくなっていました。
 毎日、仕事が終わるとホテルから連れ出して、ご飯を買い出しに行ったり、バッティングセンターでバットを振るように言ったり、古本屋さんに行ったりしました。どうしても出られなくなった時は、彼が食事を買ってきてくれていました。指輪を買ってくれたのはそんな町田の日々の中でした。
 今日炊事をしたり、運転をしたりして過ごした後、ふと指を陽にかざすと3つのピンクの石で出来ているハートの1つの石が無くなっていました。夜のアルバイトに行っている彼に欠けた指輪をした指の写真を送ったのですが、猫のスタンプが1つ返ってきただけでした。なんていう意味に捕らえたらいいのか、少しの間考えましたが、明日、彼が帰ってきてから聞いてみようと思います。

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