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ウイスキー界の「イチロー」

国産ウイスキー「イチローズモルト」の製造・販売を行う企業、株式会社ベンチャーウイスキーは埼玉県秩父市に蒸溜所を構えています。
その蒸溜所に世界のウイスキー業界で話題の日本人が居ます。
その人の名は「イチロー」
貴方はウイスキー界のイチローを知ってますか?

ウイスキー界のイチローこと創業者であり社長である「肥土伊知郎」(あくといちろう)氏の名を冠したウイスキーブランド「イチローズモルト」
今や、肥土伊知郎氏が立ち上げたイチローズモルトというブランドは正に飛ぶ鳥を落とす勢いで、年々評価を上げています。
しかし、立ち上げ当初イチローのウイスキーは無名な上、あまりにも個性的であったため、簡単には売れませんでした。
しかし、ベンチャー企業として隙間戦略に特化し、大手では到底真似が出来ない手法を次々と繰り出し、見事に成果を挙げていった彼の戦略戦術は、後に続くことになる中小蒸溜所の多くの経営者たちから注目を浴びています。

今や新興蒸溜所の旗頭として先陣を切るウイスキー界のイチローと彼が造り上げた「イチローズモルト」は何もないところから、どのようにして成長し、世界的評価を得て、ここまでたどり着いたのでしょうか?
その成り立ちから現在までを追っていきたいと思います。

日本のウイスキー技術者であり実業家でもあるイチローこと「肥土 伊知郎」は、1965年に埼玉県秩父市にて江戸時代から続く日本酒の蔵元の21代目として誕生しました。
(生家は現在の埼玉県秩父市に相当する地で1625年[寛永2年]に東亜酒造の前身となる肥土酒造本家を創業。)
その肥土酒造本家は祖父の肥土伊惣二の代で秩父鉄道開通を機に埼玉県秩父市から羽生(はにゅう)市へ移転。
祖父は日本酒、焼酎、合成清酒、ウイスキーなどを製造・販売していた東亜酒造の設立者で、羽生(はにゅう)蒸溜所を運営していた埼玉県における酒造界の雄でもありました。
1946年(昭和21年)にはウイスキー製造免許を取得後、1959年に東亜酒造と社名を変更し、祖父が陣頭指揮を執り蒸溜酒の製造設備を整備して、羽生蒸溜所として本格的に稼働を始めることになります。
イチローの祖父は以前より戦後に洋酒の需要が増えると見込んで日本酒以外の洋酒の生産を考えていて、その選択肢の一つがウイスキー事業でした。
ただ、ウイスキーを売り出したといっても、時代背景的に考えると十分な熟成を待たずにカラメルなどで着色したイミテーションウイスキーのようなものだったのではないかと言われています。
祖父はそのウイスキーに「ゴールデンホース」と命名し発売しましたが、日本国内でのネーミングを巡ってホワイホース社とガチンコの裁判沙汰になって勝利したというなかなか香ばしいエピソードが残っていて、現在も継続的に販売され続けています。
なお、イチロー生誕の1965年時点で羽生蒸溜所は既に存在していましたが、羽生工場が本格的なポットスチル(蒸溜器)を設置して、本場スコットランドと同じ製法でウイスキー造りを始めたのは1980年以降だった様です。
1980年代前半にかけて手頃な輸入ウイスキーで国内のウイスキー熱が高まり、東亜酒造は地ウイスキーブームの先駆けとなる本格的な自社蒸溜ウイスキーの製造に着手していき、当初は順調な売り上げを堅持します。
しかし、高度経済成長期を経て1980年代中盤以降の焼酎ブームや洋酒でもワインやカクテルなど消費者の好みが拡散したことで洋酒と言えばウイスキーという時代は次第に終焉を告げ始め、東亜酒造におけるウイスキーの売れ行きは年々下降線を辿ることとなりました。
その結果、祖父や父の代で樽詰めされた羽生蒸溜所のウイスキー原酒たちは熟成庫でその出番を待つことになりますが、祖父や父が手塩に掛けた熟成原酒たちは、後に数奇な運命を辿ることとなります。

イチローは少年時代、実家が酒蔵だったからこそ蔵の片隅で遊び、酒造りの現場を肌で感じ、間近で見て育つことで、無意識のうちにモノづくりに強い想いを抱くようになりました。
しかし、当のイチロー自身は家業の「東亜酒造」を継ぐという意識は無かったと後に断言しています。
その後、大学受験を迎えたイチローは第1志望の大学を不合格となり、父の薦めで酒造関係の多くの子弟が通う東京農業大学農学部醸造学科を受験し、進学することになります。
イチロー自身、心の片隅に家業は意識していましたが、大学生になっても「後継者」とは思っておらず、単に浪人するのが嫌で東京農業大学にも合格したから行こうという程度だったそうです。
そして1988年、大学卒業後はイチローの父と当時サントリーの社長であった佐治敬三氏が知り合いだったという縁でサントリーに入社を果たします。
その時の志望理由をイチローは「佐治敬三社長はマスコミによく登場していたし、事業家としても広く認知されていたことと、ものづくりに興味があったので山崎蒸溜所に行きたかったから」と後に述懐しています。
最初から実家を継ぐための修業でサントリーに入ったわけではなく、父と話をしてサントリーに「骨を埋める」覚悟での入社でした。

しかし、既にウイスキーで国内トップシェアを誇っていた当時のサントリーでは、蒸溜所に配属されるためには大学院課程を修了していなければならなかったため、希望は叶えられず、販売企画部門への配属が決まりました。
サントリーの酒造部門へ入れなかったイチローの心に残念な思いはありましたが、頭の切り替えも早く営業職という仕事自体はとても充実して取り組めたそうです。
しかし、心の奥底で“ものをつくりたい”という気持ちは燻り続けていました。

イチローがサントリーに入社して7年ほど経ったある日、父から思いがけない提案を受けることになります。

『東亜酒造の経営が思わしくないので手伝ってほしい』

サントリーでの仕事は順調で楽しかったイチローでしたが、希望した山崎蒸溜所の製造部門に入れずに断念した酒造りへの情熱が高まっていたイチローにとって父の提案は渡りに船でした。
“酒造りが出来る”とにかく“ものづくりがしたい”という気持ちに誘引され、イチローはサントリーを離れ、東亜酒造へと入社します。
『なんとか立て直せるかな?』程度の甘い考えで舞い戻ったイチローを待っていたのは想像を絶する経営難でした。

東亜酒造の業績はイチローの想像以上に悪くなっていました。
イチローに与えられた仕事は生産の現場だけではなく、少しでも売上を伸ばすために量販店を回って紙パック入りの廉価な経済酒を売ることでした。
何とか売上を伸ばして危機を脱却しようと駆け回ったが赤字は増えるばかり。
その経営危機の最中、イチローは東亜酒造の倉庫に保存してあったウイスキーの原酒に目をつけていました。
そこにはイギリスから輸入したウイスキー原酒と自社で蒸溜したウイスキー原酒が樽詰めされ、しっかりと保存されていました。
羽生蒸溜所で造った原酒はクセが強くて売りにくいというのが東亜酒造社内での評判でしたが『クセが強いことが本当に駄目なのか!?本当は個性的な良い原酒なのではないだろうか?』といった自身の疑問点を確認すべく、昼の仕事が終わると、夜な夜なバー回りをすることにしたイチロー。

「中身を客観的かつ正当に評価してくれるのはバーテンダーさんたちだ!」

と考え、原酒を小瓶に詰めて首都圏のバーでテイスティングしてもらったのです。
バーテンダーたちは個性的で面白い味だと羽生蒸溜所の原酒を評価し、一定の支持を得ることとなります。
そしてイチローは自身が抱いていた羽生蒸溜所の原酒のポテンシャルの高さと可能性に確信を持ちました。
当時、イチローのバー巡りは「会社が大変な時期にバカ息子が夜遊びしている!」と噂されることになりましたが、後々この「バカ息子のバー巡り」が大きな力となって帰ってくることとなります。

さて、本筋に話を戻すと、赤字経営下で「東亜酒造における父と子という関係」は意思疎通を阻害し、意見が合わないことばかりで親子仲は急速に冷え込んでいくことになります。
当時、イチローが父に事業戦略の見直しを提案しても、理解してもらえない日が続き、イチローには父が業績不振を景気のせいにして諦観している様に見えていました。
その一方で父が主導していた東京での小料理屋出店や日本酒事業への投資の失敗によって、既に経営はガタガタで、東亜酒造は2000年に民事再生法を申請し、事実上倒産してしまいます。

ここで父と子に決定的な亀裂が入る事件が起こります。

イチローと父が車で債権者に説明に向かう途中で父が下血し、そのまま入院。
結果、債権者会議には社長である父ではなく若輩者のイチロー自身が矢面に立って経営に関する説明責任を背負わざるを得ませんでした。

イチロー自身、大事なときに居ない父に対する否定的な思いや、実家に戻ったことを人生最大の間違いだったと自身の判断の甘さを恨んだ時期があったと、後に当時の心情を吐露しています。

恨んだり憎んだりといった気持ちが入り混じる中、イチローは体調を崩した父から経営権を譲り受けましたが、時すでに遅く会社を立て直すほどの余力がその時の東亜酒造には残っていませんでした。
イチローはそれでも全力で奔走しましたが、一度落ちた取引先からの信用は戻らず、業績も回復することなく、2003年に「日の出みりん」の製造元として知られる、日の出通商(現、日の出ホールディングス)への営業譲渡を決定することとなりました。
東亜酒造の自主再建を断念して他の酒造会社に譲渡することで、東亜酒造という金看板を残し、従業員の雇用は継続維持を確保できました。
しかし、その自己犠牲は肥土酒造本家から続く東亜酒造が完全に肥土家の手を離れて人手に渡るという苦渋の決断であり、イチローにとって譲渡が完了するまでの間、非常に辛い時間を過ごすこととなりました。

そして人生どん底のイチローに更なる試練が課されることとなります。

東亜酒造の新しいオーナー企業である日の出通商はウイスキー事業に興味が無く、元々の出自が造り酒屋系ということもあり、日本酒や焼酎、ワインにリキュール、スピリッツには興味があるが、ウイスキーの様な時間がかかるビジネスは不要とウイスキー事業からの撤退を早々に決断。
2000年代初頭のウイスキー業界の不況は深刻化していて、新しいオーナー企業の日の出通商は赤字部門のウイスキー事業を早々に見切り、切り捨てに動きます。
その時点で東亜酒造の羽生蒸溜所内にあったウイスキー原酒は400樽以上に及び、それらは全て期限内に引き取り手が見つからなければ廃棄すると日の出通商サイドから通告を受けます。
廃棄予定の原酒の中には祖父や父が造り、イチローが引き継いで3世代に渡って20年以上熟成された羽生蒸溜所の長期熟成原酒なども含まれいて、それらの樽は祖父と父から受け継いだ大切な宝であり、イチローにとっては「自分の子供のような原酒」たちでした。
ウイスキーは今日造って明日売れるほど単純なお酒ではないものです。
その貴重な原酒たち全てが同列で何もかも関係無く期限を決めて廃棄をするという決定をされてしまいます。

イチローにとって「廃棄は到底我慢できることではなかった。」

イチローは使命感を胸に、原酒の貯蔵場所を提供してくれる企業を探すために立ち上がりますが、そこに法律の壁が立ちふさがります。
「ウイスキーの原酒を預かってもらうには、ウイスキー製造の免許を持つ会社の倉庫でなければならない」という決まりごとが大前提としてありました。
※詳細は「酒税法 第一章 総則 第六条」参照

原酒を蒸溜した場所から移動させるだけでも酒税がかかるので、保税倉庫のような場所が必要ですが、そもそも当時の日本においてウイスキー製造をしている会社が極めて少なかった現実に直面することになります。
イチローが籍を置いていた古巣のサントリーを筆頭にウイスキー製造をしている酒造メーカーへ「原酒の樽をどうか預かって欲しい。熟成されたウイスキー原酒を廃棄処分から何とか救いたい!」と、熱意を持って交渉しましたが「人様の原酒を預かるなんて到底できない。」という回答がほとんどでした。
一般的に考えれば至極当然の企業判断で、当時の日本はウイスキー暗黒期と言われるほどの需要低迷時代。
どの酒造メーカーも「時代遅れの酒」として人気が低迷しているウイスキー原酒の在庫を極力減らしたい時勢
に、わざわざ貯蔵場所を提供して他社の原酒を預かる企業が簡単に見つかるはずがありませんでした。
色良い返事がもらえる手応えがない日々が続きました。

そんな深い闇の中に居たイチローに一筋の光明が射し込みます。

福島県郡山市に本社がある笹の川酒造の山口哲司(現在は襲名により哲蔵)社長から「ウチ(笹の川酒造)で預かってあげる。」と、申し出があり、協力を得ることに成功します。
山口社長は当時のイチローについて「ウイスキーがどん底の時代に肥土さんは本当に熱く語っていた。その熱意に押された!それなら、うちの倉庫を使いなさいと協力を申し出た。」と振り返っています。

その時、山口社長は「長い時間をかけて熟成させた原酒を捨てるのは"いちメーカーだけでなくて業界の損失"そして"酒の文化に対する反逆"であり"時間の損失"である!」と憤慨されていたそうです。
この山口社長の英断によって笹の川酒造の貯蔵庫を間借りさせてもらえることになり、貴重な原酒たちは廃棄を免れたのですが、その裏で笹の川酒造社内では他社の原酒を預かることに対して少なからず異論があったようです。
山口社長は反対する蔵人や社員に対し「ウイスキーは年を重ねるもので、一朝一夕にできるものではない。誰かがいつかどこかで飲むその時に旨いと言って飲んでくれる人がいればいい。廃棄というのは、そういう人と機会を奪うということなんだ。」と語り、説得に努めたそうです。

この時、山口社長とイチローが交わした約束がひとつだけありました。
それは「先代から受け継いだ原酒をベースにウイスキーを造り上げ、自分で売り切ること。」
この時、既にイチローの覚悟は決まっていました。
「私が独立してイチローズモルトと言うブランドを立ち上げます。」
そしてイチローは「羽生蒸溜所の子供たちを世に送り出すことが使命」の一念で、本格的にウイスキー事業へと参入することとなります。

そして2004年、東亜酒造は日の出通商グループ入りし、営業権を譲渡したイチローは同社を離れることになりました。
これまで進学する大学や実家に戻る時など、自分の意志と言うより単に流れに乗っていただけのイチローでしたが、東亜酒造を離籍して独立を決意してからのイチローは完全に自分に責任を持って自身の選択を信じて動き出します。
オーナー企業から東亜酒造に残ることを打診されても、家族から末席でも残った方が良いと言われても、独立を決断したイチローはどん底の中で覚醒の時を迎えたのです。

東亜酒造離籍後の同年9月、羽生蒸留所の原酒や自前で蒸溜した原酒を使用するウイスキー「イチローズモルト」の製造・販売やウイスキーの企画・技術指導を行う会社として「ベンチャーウイスキー」を設立し、動き始めます。
そしてイチローは再出発となる蒸溜所の建設場所に肥土家が元々日本酒を造っていた秩父の地を選びました。
その理由として、自らの故郷であり支援してくれる人々がいたことを筆頭に、秩父には荒川上流のおいしい水があり、寒暖差もあり、ウイスキー造りの条件が揃っていたこと。
それらに加え、肥土家が秩父で受け継いできた「何か」をウイスキーとして形にしたいとの想いが、イチローの胸にありました。

しかし、巨額の債務の連帯保証人になっていたイチローには会社の代表になる資格はありませんでした。

そこへ、また新たな救世主が現れます。

秩父市で書店を経営していた、はとこの宮前恵一氏が会長に就任してくれた上、資本金も出資してくれたのです。
宮前の先祖は秩父事件(1884年の困民党による大規模な蜂起事件)の頃に早くも書店を開業していた開明家で、秩父の文化の一翼を担ってきた有力者でもありました。
時を同じくして地元銀行の支店長も、再起を図るイチローの誠実で真面目な人柄に惚れて応援してくれるようになりました。
しかし親戚筋も銀行も当時人気の焼酎やワインではなく、斜陽のウイスキーを造ることに当然の如く懸念を示しました。

イチローは当時を振り返り、こう述べています。
「当時、ウイスキーの総量自体は減っていましたが、それは低価格帯の安価なウイスキー需要が焼酎に流れているだけであって、シングルモルトやプレミアムブレンデッドといわれる高級ウイスキーの売上は落ちるどころか伸びていました。事実、足で回ったバー巡りで確実な情報を得ていましたからデータを示して関係者を説得しました。」

2005年5月、廃棄を免れた羽生蒸留所の原酒を使用した、ベンチャーウイスキー最初の商品である「イチローズモルト ヴィンテージシングルモルト1988」が笹の川酒造にてワインボトル600本に瓶詰めされ、納品されました。
設立当初の資金に乏しいベンチャーウイスキーではウイスキー瓶を購入する余裕さえなかったため、笹の川酒造から譲ってもらったワインボトルで代用したのです。
しかし、まだ販売免許が無かったイチロー、製造・販売元は笹の川酒造、企画はイチローズ・モルトとして最初のスタートを切ることになりました。
ボトルの価格は税抜きで1本13500円という強気な価格設定とし、当時まだ無名だった銘柄のウイスキーと考えれば、かなり高価なものでした。
イチローは高額な自社ボトルを売るには、ブランドではなく味で評価をしてくれるバーで扱ってもらう必要がある考え、そこでおよそ2000軒のバーに営業を行い、約2年かけて見事600本を売り切ることに成功します。
そうして地道に取り組んだ販路開拓は、後に取扱い店舗の拡大へと繋がっていくこととなります。
ただ、残った羽生蒸溜所の原酒を売るだけではいずれ何も無くなってしまうので、自分自身が新規に蒸溜所を立ち上げて、生産者として自らの手で製造しなければならないと決意しましたが、イチローはサントリーでも東亜酒造でも生産の現場に深く携わっていなかったことで、肝心の製造に関する知識と経験が乏しかったため、逆境にあっても酒造りの情熱を失わなかったイチローに製造現場の経験値不足という更なる壁が立ちはだかることになります。

しかし、ここでもイチローに更なる救いの手を差し伸べる人が現れます。

それは当時、メルシャン軽井沢蒸溜所の責任者だった内堀修省(うちぼりおさみ)氏でした。
軽井沢蒸溜所でもウイスキー需要の低下に伴い、生産は2000年12月31日を以って終了していました。
メルシャン側の好意で2006年のひと夏、内堀氏は保全休眠中の蒸溜所設備を再稼働させ、イチローにウイスキーの仕込みから樽詰めまで一連の流れを体験させる2ヶ月間の研修を行いました。
翌2007年には本場スコットランド・スペイサイドにある「ベンリアック蒸溜所」にて製造の実地研修を受けることも出来ました。

どちらも「研修中に仕込んだウイスキーは全量、イチローが買い取るという約束」で行われ、この時の研修で蒸溜された原酒は現在(2021年時点)も秩父蒸溜所の貯蔵庫に収められているそうです。

イチローは製造ノウハウの実地体験や新商品の開発を進めながら2007年にベンチャーウイスキー初の自前の蒸溜所となる秩父蒸留所を完成させます。
チーフ・ディスティラーにはメルシャンの軽井沢蒸溜所でお世話になった内堀氏を招聘し、2008年2月にウイスキーの製造免許を取得して秩父蒸溜所での蒸溜を開始しました。
日本でウイスキーの製造免許が交付されたのは実に35年ぶりのことでした。

イチローが東亜酒造を離籍後、多忙の中で数々の困難を退け、秩父蒸留所を完成させる頃、その裏ではとんでもない事が起きていました。

それが後年、伝説となる「カードシリーズ」というボトルの製品化でした。

2005年から2014年まで9年かけて54種類をリリースした「カードシリーズ」は1985年から2000年までに羽生蒸溜所で蒸溜され、ホグスヘッド樽で貯蔵していたモルト原酒を4種類の異なる樽でフィニッシュし、シングルカスクでボトリングした商品です。
その全てがシングルカスク、カスクストレングス(無加水)、ノンチルフィルタード(無冷却濾過)、ノンカラー(無着色)であり、各数百本の限定出荷でした。
同じウイスキー原酒でも、樽によって大きな違いがあるということをシリーズコンセプトにしていたウイスキーで「4種類の樽に対してトランプの絵柄も4種類(スペード・クラブ・ダイヤ・ハート)だからラベルも分かりやすくてキャッチーで分かりやすい!」というデザイナーとの話から製品化されたウイスキーです。
当時はバーに並ぶお酒のラベルに派手で分かりやすいものは少なかったので「あのトランプは何なの!?」と興味を持つ人は多かった様です。
ただし、値段は高かったので、発売当初(2005年)はそれほど売れませんでした。

しかし、その「カードシリーズ」が、突如として脚光を浴びることとなります。
2006年6月「ウイスキー・マガジン」誌上コンテストにて、カードシリーズの「キング・オブ・ダイヤモンズ」が最高得点を獲得し、最高賞をとってしまったのです。
そこから世界中のウイスキー愛好家たちの間で「イチローズモルトって何だ?」と話題になり、世に知れ渡ることとなります。
更に追い風の中、2007年には「トゥー・オブ・クラブス」がWWAの熟成年別ベストジャパニーズ・シングルモルトを獲得。

それは過日の東亜酒造社内で「クセが強くて売りにくい」と言われ、日の出通商グループからは見切られ、廃棄の危機にあった羽生蒸溜所の原酒たちの逆転劇でした。
イチローが蒸溜所建設に奔走する中で、多忙の合間を縫ってイチローが世に送り出した羽生蒸溜所のウイスキーたちは、次々に著名なウイスキーコンテストで賞を獲得していたのです。

前述の受賞などもあり、2008年2月にウイスキーの製造免許を取得して秩父蒸溜所での蒸溜を開始する頃には既に「イチローズモルト」の注目度と期待度はかなり大きなものになっていました。
3年以上熟成させないとウイスキーとは言えない時期のニューメイク(ニューボーン)ですら「非常にクオリティが高い」とウイスキー愛好家やプロが評価し、目をつけていました。
イチローは「この方向で造れば間違いないかもしれない!」と思い、それが確信に変わったのは2011年10月、秩父産の原酒のみで造られ、秩父で熟成された3年物のウイスキーが発売された時です。
秩父発、最初の3年物のモルトウイスキー「秩父 ザ・ファースト」リリース時、イチローは「ことのほかすごいものが出来たかもしれない」と率直に思ったそうです。
イチローは当初、記念品として数百本程度出荷しようと考えていましたが、「この品質ならもっと本格的に発売しても大丈夫だ!」と判断し、何と7400本ボトリングしましたが、その注目度は高く、発売日までに国内・海外問わず予約で完売するほどの過熱と狂騒だったという逸話が残っています。

イチローは立地的にも予算的にも大きなものを入れる余裕はなかったという事情はありますが、良い原酒を造るために基本にとことん忠実で、細部にこだわり、常に少しでも良いものを造る積み重ねを信条とし、自身が目指す「飲みごたえのあるウイスキー」造りに邁進します。
イチローは語る「企業規模で大手メーカーと張りあうつもりはありません。だけど、品質では負けないものを提供したい。カネや名誉より、ウイスキー職人として独立独歩、うまい酒をつくることができたら本望です。」

「秩父 ザ・ファースト」の成功はこういったイチローの職人気質な努力が結実した結果なのかもしれません。

その後もイチローズモルトは破竹の勢いで業績を伸ばし、2010年代中盤には年間20万本を生産するほどにまで成長を遂げていました。

そんな或る日のこと、東亜酒造の事実上の倒産から16年、2016年の元旦にイチローの父の姿は秩父蒸溜所にありました。
既に秩父蒸溜所が完成した2007年から数えて9年弱が経過し、ベンチャーウイスキー社の成功は東亜酒造の倒産以来、長らく冷えこんでいたイチローと父の関係にも変化をもたらしました。

イチローは2016年の元旦の雪どけをこう振り返ります。
「正月などに会っても、過去のわだかまりもあり、あまり会話はありませんでした。でも、自分も会社を経営して、父の大変さが分かるようになりました。父を恨んだり憎んだりといった気持ちが収まってきて『そういえば親父、蒸溜所を見てないんだよな!?』と気付いて、連れて行きました。相変わらず無口で『樽がいっぱいあってすごいな!!』とか、他愛のない事しか口にしませんでしたが、別れ際に『本当に良いものを見せてもらった。』と言ってくれたのが印象に残りました。」

そこには時間をかけて熟成したウイスキーの様に、時と共に成熟し成長したイチローの姿がありました。

2019年8月16日に香港のオークションで「カードシリーズ」全54本(クラブ・ダイヤ・ハート・スペード各13種+ジョーカー2種)が揃った1セットが約1億円で落札され話題となった。
同時点でシリーズ全54種が揃ったセットは世界で僅か4セットしか確認されていないという。
なお、社長のイチローこと肥土伊知郎氏は、その超
高額落札に対して率直に以下の様に述べています。
「仰天した」
「高い評価はありがたい」としつつも、
「飲み物の値段ではなくなっているように感じました」
「飲んでもらえるかどうかが心配」
「プレミアムを見込んだ転売目的で購入される方が増え、私たちのウイスキーを楽しみながら味わいたいと思っている人たちがご購入しづらい状況になっていることに、複雑な思いを抱いております」と語り、複雑な心境を吐露した。
(引用:日本経済新聞. (2019年8月18日) 2020年3月26日)

2019年10月には第二蒸溜所が稼働を開始。
今も道半ばのイチローの夢は「30年ものの秩父のウイスキーを皆さんと一緒に酌み交わすこと」

そしてイチローは語る「提供しているものはウイスキーそのものというより『ウイスキーを飲む体験』です。ウイスキーを飲みながら一日の疲れを癒したり、気の置けない人たちと特別な日を過ごしたり、という体験の中に参加させてもらっているのがウイスキーという存在だと思っています。そんな時間をみなさんで愉しんでいただくことが私たちの願いです。」

私の座右の銘は「時は命なり」なんですよ。
そして、弊社の社是が「時とともに成長する」です。

イチローの挑戦は終わらない。