とびきりの、月下。
じゃあね、を言って背を向けた瞬間、あまりの自由さに空をも飛べるかと思った。
改札を抜けてホームへ消える彼を見送ることもなく。もう他人だから。深呼吸をした。細胞が、生まれかわって新しくなる。そんな気がした。
駅前の雑踏をすり抜けながら、そっか家まで歩けばいいんだと思い付いた。顔に当たる風は、真冬のように痛くない。コートの襟をしっかり立てて、マフラー代わりのストールを巻き直した。
バスターミナルをななめに渡って、ドラッグストアの店頭にあるカゴの中が気になって立ち止まる。でも今買うと荷物になるし。両手フリーの方が歩きやすい。
ずいぶん日が長くなったな。まだ水色がほんのり色づいてきた夕空を見上げて、あたしはもう一度深呼吸をした。
トータルで5年。最初の4年が遠恋で、最後の1年はケンカばかりした。
遠くに住んでる人との恋は、どこか実感がなくて、電話する度、会う度にこれ以上好きになれないと思ったくらい。
いつも近くの男ばっかり好きになってたから。何もかも新鮮で。
『好きなんです。付き合ってもらえませんか』
初めての一人暮らし。初めての「行きつけ」の定食屋。そこのカウンターでいつも一人で食事をしてる人。
きっかけは、いつもあたしが作ってきた。
線路沿いの細い路地には小さな店が連なっていて、いつも歩かない道だから面白かった。
立ち飲み屋から焼鳥の匂いが流れてくる。赤い顔のおっさん。いいな。今日じゃなかったら行きたいんだけど。
古本屋。店の外に本を並べてるけど店の人は姿が見えない。かと思うと奥から外を睨んでる靴屋とか。豆腐屋のおばちゃんはお客とでっかい声で話してる。
都心から割と便利な所なのに下町っぽい雰囲気があるから、そこが気に入って引っ越してきた。それに後悔はない。
そもそも後悔なんて、したことがない。
彼は勤めてる銀行の寮に住んでて、あたしが告白した日がその寮を出る前日だった。サラリーマンお定まりの異動。
リーマンが女子大生なんて相手にしてくれないと思ったから、電話番号押し付けて帰った次の日、『引っ越し終わったよ』とかけてきてくれたのはほんと嬉しかった。
名古屋なんて新幹線ですぐだよ、と彼は何でもなさそうに言ったけれど、仙台から出てきたあたしにはその距離感はわからなかった。新幹線なんてこっち来たとき乗ったくらい。
だから、三ヶ月に一度の定例会議で彼が上京してくるのが、あたしのその頃のいちばんの幸せだった。
何も知らなくて、何もわかってなかったあの頃の。
踏切がカンカン鳴るのが聞こえて、こんなとこにあるのかと初めて気がついた。
自転車にまたがった人が数人、買い物袋を下げた人、子供の手をひいたお母さん、何やら爆笑してる女子高生のグループ。
風がちょっと冷たくなってきた。空は色濃く、夜に近づいている。冬って夕方が短いんだな。
あたしは踏切を渡らずにまっすぐに進んだ。歩きだして4軒めのコンビニが、暮れゆく街のなかに存在感を出しはじめていた。
一目惚れだったから。そういうの悩みたくなかったし。
付き合ってみて考えればいいやって。いつもそうだったから。
冗談を言うタイミング。メールと電話の頻度。いちいちおやすみメールしなきゃいけないかなとか。他の男の話できるか。好きな芸能人の話とか。
目を見れば、どれが冗談でどこまで言っていいのかわかるけど。たいして親しくない人との電話は呼吸がわからない。
定食屋で観察してたから右ききでビール好きってのは知ってたけど。あとひじきとカツ定食。
『自炊しないんだね』
初めて、うちに上がった彼が最初に放った一言。
それが、戦争の開始。
コンビニの誘惑になんとか勝って、住宅街の中をずんずん進んだ。
家が密集してるとこは苦手だ。押し潰されそうな気がする。それで気を紛らわそうと懸命に話題を探してたら、
『もう少し小さい声で喋ってくれる?』
怒られた。
彼いわく、都会では他人に気を使って生きるべきなのだと。あたしにはその配慮が足りないのだと。
ねぇ、じゃあ、あたしのこの恐怖をあんたは分かちあってはくれないの?
異動でまたこっちに戻ってくるのを機に、二人で住もうよと言ったのもあたし。断られるとは思わなかった。
『どうしてそんなに俺に依存するんだ?』
付き合ってるからに決まってるだろバーカ。
でもその時は「依存」という言葉の意味が強すぎて、怖くて何も言えなかった。
彼なしで生きれない身体になってたのか。あたし。
いちど、嫌だと思ってしまったら、次々と気に障るとこばかり目につくようになって。
会えば一日十回は口論した。彼が譲らないことがわかるとあたしも絶対折れなかった。
それでも会いに行ってたのは、それでも別れるはずがない、と思ってたから。
選択肢が。見えなかったから。
ひとつの方法が提示されて、あたしの心はすとんと落ち着いた。
別れよう。
急に上り坂がきつくなってきた。電車に乗ってるとトンネルを通るところらへん。
一歩一歩を大きく、踏みしめながら進んだ。道の両側に立ち並ぶ民家に住んでる人たちは毎日こんなことしてんだ。
坂の頂上に感じのいい喫茶店があって、今度こそ入ろうかと足を向けかけたけど、それ以上どうしてもいけなかった。
あたし、人前に出られる顔じゃない。絶対。
答えが出てから彼に怒ることはなくなり、むしろ平和な毎日だった。会うこともなかったのだけれど。
そして今日。唐突に呼出しをくらう。
『近くまで来たからたまには会ってくれ』
一方的にあたしが悪者だよ。どうなのそれ。
むかついたけど、ほんのわずか、一ミリくらいは希望を持ってた。
もしかして、最近の彼の姿は偽物で、遠恋の頃の彼が何食わぬ顔で笑って会ってくれたりするのかな。あたしは、彼まっしぐらに生きてた頃の素直な笑顔で照れ臭そうにしたりするのかな。
そうだ。そこで気がついた。
あたし達、もう一年くらい笑ってないかった。
泣きそうではなかったけど、何かに憑かれた顔をしてる。このミッションが終わるまでは。
二駅弱歩いて帰るのが、あたしに与えられた使命。
今はそのことしか考えられない。
上り坂で息があがって、心臓がバクバクうるさかった。運動不足だなぁ。平らな道になったのにまだはぁはぁしてるあたしの横を、学生服の男の子がチャリですーっと追い抜いていった。あの子、坂どうしたんだろ……。
橋がある。下には線路が通っていて、ここを過ぎればあとは下り坂。急に視界が開けて、何とはなしに空を見上げた。
すっかり夜へと変わった群青色の中に、見たこともない大きさの月が浮かんでいた。
息を呑んで立ち止まる。
一緒にいて楽しくない人となんて、うまくいくはずがないんだ。
彼の姿を見たと同時に、そう思った。
だから顔なんて見なかったし、あたしの方から話しかけることはなかった。
会話の少ないスタバでの一時間を終えて、駅まで行く途中。
『じゃあ、もう連絡しないから』
『うん』
『帰り、どっちだっけ?』
もうこれ以上一緒にいたくない。
『買い物思い出した。電車先乗っていいよ』
一生あたしの前から消えて。一刻も早く。
そして、じゃあねと言った。
「すご…」
なんで満月がこんなにでかいの?
線路の上にちょうど覆いかぶさるようにして、空の低い位置にあるその様は、お日様のかわりに月がなったのかと思うくらい。
その光も、はんぱなくて。街灯が少ないところにいるから眩しいくらいで、目をしぱしぱさせた。
月の光は太陽のを反射してるだけなんだよね。なのに、これだけ明るいってどういうことなんだろう。
けれど、太陽とは違う硬い光に、ちょっと頑固者っぽい感じがして、なんだか親しみが持てた。
あたしと一緒じゃん。
ねぇお月様。後悔って、したことある?
あたしは、ないよ。
「おなかすいたぁ……」
自分で言った独り言に驚いた。今までそんなこと思ってもみなかったくせに。
月から視線を外して今歩いてきた先の道を見ると、見覚えのある銭湯の煙突が見えた。あの先が目標の我が家。
やっぱ引っ越さなくてよかったな。銭湯が歩いていけるとこってそうそうないし。気に入ってるから。一人暮らしでよかった。
早く帰って、カップラーメン作って、それで銭湯で露天風呂につかろう。
そう考えたら、ウキウキしてきた。
失恋で泣くなんて、まったくあたしらしくないからね。
*******
ブログで発表していた作品のひとつ。2007年ごろです。
月下好きやねぇ…月を見ては創作意欲がわいていた頃ですな。
戦闘的な性格がよく出ている作品です(笑)
なんかね。引いたら負けだと思っていたあの日々。何に負けるのか(笑)あ、彼氏にか。
ところでnoteってめっちゃ読みやすいですね!さすが。
ブログのデータから引っ張ってくるとき、読みづらくて。
当時読んでいただいた方々には申し訳ない&ありがたくて涙。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?