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ヒカリ(短編小話)

こんなところで何してるんだろう。
地下鉄のホームは人であふれかえっていて、来た電車に乗り込むと後ろからどんどん押された。すでに車内もそうとうの人が乗っていたから身動きはまったく取れない。
やだなぁ。だから残業すると帰宅ラッシュにぶつかるから早く帰りたかったのに。
いつもだったら定時で出られる仕事。今日は午後3時に課長に来客があって、そこのお茶出しでミスをしたから、その後こってりと課長にしぼられた。君はだいたい甘いんだよ、会社で働くってどんなことかわかってないんだよ。とかなんとか。課長は話が長いから、解放されたときには、定時のちょっと前だった。私だって今日中にやらなきゃいけない仕事くらいある。それをやってたら遅くなってしまった。
甘いのは知ってるしこんなところにずっといたいわけじゃない。だから何も言わなかった。黙って神妙な顔をして反省をしてる振りをして聞いてあげた。ほとんどの話は右から入って左へ抜けていったのだけれど。
次の駅に停車する。混んでいる車内から人を押しのけて降りていく人がいる。目の前の若い男の子が、それで押されてあからさまにむっとした顔をしているから、キレるのかもしれないと少し怖くなった。でも後ろにはバーコード頭のくたびれたオヤジが立っているからそっち側には逃げられない。仕方なく、男の子と視線が合わないように顔をずらして、頭上の広告をわけもなく見つめることにした。
あぁ。どうして私こんなところにいるんだろう。
メーカーの営業事務の仕事は、嫌いじゃないけど好きでもなかった。営業の人たちは生活にくたびれてはいたけれどそれなりに愉快な人達で、つまらなくはなかったけれど、生き甲斐になるはずもなかった。でも、彼氏なんていなくても、そこそこ楽しい人生だと思っていたのに。
会社のメールに小夜子から「結婚することになった」と入ってきたのは朝イチの作業がひと段落した頃。高校からの友人の小夜子には同じくその頃から一緒の彼氏がいて、いつか二人が結婚することは何年も前から目に見えていた。そんなことずっと前からわかってたのに。
どうしてかわからないけれど、気分が晴れない。今日も課長の来客までは仕事らしい仕事がほとんどなくて、メールを何度も読み返して、返事は当たり障りのないことを書いておいた。実際会ったら笑顔で祝福してあげられる。そこまでは子どもじゃない。
ただ無性に、寂しいだけなの。
どこからともなく涼しい風が入ってきて、電車が地上へ出たことに気がついた。この路線は都心では地下を走っているけれど、郊外では地上に出る。人混みでむっとしていた中に冷たい空気が流れ込んできて、呼吸もしやすくなった。やっと携帯の電波が入ってきたから、メールの着信を確認しようと携帯を取り出してふと窓の外を見ると。
大きな満月があった。
高架の線路の下に広がる、夜の河原は真っ暗で車内の明かりのせいで何も見えなかった。空も同じように暗い中にひとつだけ、真っ白い円が浮かんでいる。
それを見たら、涙が出そうになった。
青白く冷たい光は、地上を照らすほどの強さはなく、それでも毎日、姿を変えながら空にのぼってくる。
何があっても。
こんなところで腐っていても始まらない。顔を上げれば、お月様以外に何か素敵なものが見えるかも。
帰りがけ、近所のスーパーでビールを買って、ひとりで小夜子のお祝いをしよう。そう思った。

2009年頃、専門学校の課題で書いた話。
そのころ私が住んでいた沿線は、都心が地下鉄で、うちの近所は地上を走っていました。
満月って、どうしてこう涙が出そうになるのでしょう。
携帯のメールでやり取りしているのが当たり前で、そして地下鉄で電波が入らないのも当たり前で。電車が地上に出ると、みんながセンター問い合わせをしていた。そのころの話です。

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