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『しゃべるピアノ』

急に目の前が暗くなり、綾子はピアノの上に倒れた。薄れていく意識の中で、恐れていたことが起こってしまった、と思った。足に動脈瘤があり、肺梗塞に注意するよう言われていたのだ。これまでの一生が頭の中を駆け巡る。ピアノと生きた人生だった。幼稚園の時に始め、音楽学校に入り、ピアノの教師をした。結婚はせずにピアノが恋人。ピアノを弾ければ、幸せだった。

講師の仕事を辞め、父と母の介護をして二人を看取った後もピアノを続けた。今のピアノは講師の仕事をしているときに買ったものだ。手入れをしながら、私とずっと一緒にいてね、と声をかけることがあった。

ショパンの「別れの曲」が脳裏で流れ始めた。こんな人生で良かったのだろうか。ふとそう思った。子供もいなくて、一人で寂しく死んでいく人生。「ありがとうございました。綾子さんと一緒にいられて幸せでした」そんな声がふと聞こえた。

翌日彼女は訪問看護のスタッフに発見された。安らかな死顔だったそうだ。

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