見出し画像

一人でいること

コロナ感染者になってみて改めて感じたことがある。

私は幸いして軽症(酸素吸入なし)だったので、県が用意した療養施設に移動した。
朝、昼、夕と検温して、午前中と午後に担当の看護師さんに体調を報告する。ほぼ入院と変わらない。

ひとつ違うのは個室、という所だろうか。
テレビも置いてあって、WiFiも設置されているので自由に利用できる。

普段それほどテレビを見ない私でさえ、テレビを見てしまっているところがある。ニュースはコロナの話題がひっきりなしに報じられる。1日の感染者数や、街に出てのインタビュー様子など。どこの局も丁寧に報道をして欲しいと願う。また、その情報をどう受け取るかいうこともまた重要な事と感じる。

療養施設を利用しているのは私のように1人でいる方や、小さいお子さん連れの方も中にはいて、少し切ない気持ちやら、「1人ではない」ことに対する羨ましさを感じている私がいた。やはり家族は一緒にいることが重要なのだろう。

看護師さんの差は多少はあれど、話を聞いてくれる看護師さんはありがたい存在だなと感じた。

私はコミュニティに属するのが割と苦手で、でもそれでも生きていくには必要なものということもわかってきた。
その1つに、まずは家族というコミュニティがある。
これは、生まれてから初めてのコミュニティとも言える。
居心地がいい家族というものを求めたい。

私の家族はというと父しかない。
だがしかし、80を目前にしているし、今更頼りにもできない。
私みたいな人、日本にどれくらいいるのだろう?
これも、ひとつの社会問題なのかもしれない。
やはり、人は1人では生きていけないのだ。

属するところ、という意味でいうと、オンラインサロンなんかもそれに値するのでは、とも思う。色々とお誘いやお声をかけてくれるというのもありがたい。
活発に活動しているかといわれたらそうでもないけど、いつか私も何か役にたちたいと思う。

趣味でやっている吹奏楽も、細々ではあるが活動していく上で少しは居場所、になっているのかもしれない。しかし、やるにしても家族の協力なくしてはできないもの、とも言える部分がある。
自立することもやっていくことの条件、のような部分もある。
しかし今回、演奏会がキャンセルになったりして、私がこの地で演奏をする意味、ということも考えるようになった。これはこれで、とても重要なことだなと感じるようになった。
街として機能する1つの要因にも繋がる。芸術を大事にする街は栄える。そんな事を考えるようになった。

1人で生きていくにも誰かに迷惑をかけないといけない。
迷惑、という言葉もあまりいい言葉ではない。
昔、ある親戚から「迷惑をかけてる」と言われたことがあり、かなりのトラウマになっている。
具体的にどういうことが迷惑だったのか、今更知る由もないが、家族同士で話すことが不十分だったことは確かな事実である。

これから私は、どのように生きていくのか、また改めて考えて行動しなければならない。
私だからこそできることを模索しながら見つけたい。

やはり今の状況を考えると父を支えることは無理だと感じる。これは実際に父にも伝えたことがあるのだけど、1人で父を送るということはしんどい。
家族とは?私のテーマである。家族を通して生きるとは、死ぬとはを考えていきたいと改めて思う。

何かいいものを食べます。生きます。