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コーピング

「コーピング」という言葉をご存知だろうか。
私は、Dialogue for peopleの動画を通じてこの言葉を知った。


ここのところ、気づいたことがある。
と、いうか改めて感じた。

私は、昔からお風呂に入ることが好きである。
幼い頃、親に連れられていった銭湯の思い出が最初だ。

それが、時にお風呂に長くつかったとしても台無しになってしまうということがある。

私は、家族であろうが「他人」だと思うところがある。

何か起こった時に傍にもいてくれない、ということがあったり、「しんどい」と言っても聞いてくれない、という事があった。

その日も、「他人」ということを言わざるを得ない話を聞いた。

私は久しぶりに深い闇に堕ちた。

改めて心身を温めに再び温泉に、大きいお風呂に、私は温かさに包まれに行った。
ジャグジーにあたったり、縁に座って足だけつかったり、寝そべるところでゆっくりした。
冬の寒さもあって、暖かいということが私に必要な事だったのだと感じた。
これは、私にとってのコーピングだったのだ。

お風呂に入る時、よく考え事をする。
私が考える家族は正直まだよくわからない。正解を探している、といってもいいだろうか。
でも、温かみのある、包み込んでくれるような人と家族になれたらいいなという考えにいたった。


「家族って何?」自分でテーマにしていることである。

同じ苗字、同じ家で生活していなくとも、家族は存在する。

話を聞いてくれるだけでも、それで家族なのかもしれない。

例えば、「助けて」と手を伸ばして、どれだけの人が差し伸べてくれるのか、ということだったり、ホームレスの人が家で生活できるようにする、みたいなことにも通じるようにも思う。

1人の力は本当にちっぽけだということを感じる。
高卒の女ができることは本当に限られる。

私は一体誰に「助けて」と言ったらいいのだろうか。

何かいいものを食べます。生きます。