生き方を変える「覚悟と決意」
自己理解を深めると本当にやりたいことが見えてくる
★★★★★
創造を止めない
NOTEに感謝します。
2024年2月16日にこのNOTEの作製をはじめました。
約3ヶ月
(現在2024.6.8この記事の投稿が完全なる覚悟となる実感があり、今日まで投稿できませんでした)
めまぐるしく変化するクリエイティビティを実感しています。
その振り返りと新たな決意・覚悟を書き上げます。
少々長くなるかもしれません。
私は社会福祉士、精神保健福祉士として15年近く仕事していました。
何度、燃え尽きかける想いを回復させ奮い立たせたか分かりません。
この仕事に誇りと信念をもち挑んでいました。
2021年バーンアウトしました。
過労死直前
「あなた死にますよ。診断書を書くので明日から仕事に行ってはいけません」
当時、にしうめだこころとからだのクリニックの西澤医師が必死の形相で伝えてくれました。
あの事件のあの時間、私はクリニックにいる予定でした。
2週間に1度、金曜日の10時台に通っていました。
分けたのは、「自分を変えたい」という前向きな想いで行動したこと。
でした。
あの日から私は一度たりとも、自分の生きている意味を考えなかった日はありません。
そして、あれから自分なりにもがいてもがいて、ようやく1つの答えに繋がりました。
問い
なぜ同じ「人」なのに、人生に大きな違いが生まれるのか
なぜ同じ「人」なのに、生きづらい人、生きにくい人、ただ生きている人、もがきながら生きている人、ギリギリで生きている人、使命をもって生きる人、幸福に生きている人、お金はあるが幸福ではない人、お金がないが幸福である人。
どうしてこんなにも違いがあるのか。
何が正しい間違っているではなく、この差異は何なのか。
9歳で「消えたい!」という感情を感じていた私は、
幼いながらにずっとずっと考え続けていました。
そのため社会福祉士を取得後すぐに選んだ職場は、「生活保護の面談員」でした。
少し私の話をさせてください。
14歳のころ、私は学校が終わると、夕食を作り、食べることもなく仕事に出かけていました。
そして、夜中0時に1時間30分ほど歩いて家路を辿り、家に着いた頃には玄関の鍵が閉められ隣のマンションの囲いにあるライトで暖をとり駐車場で一夜を過ごすなどは、日常茶飯事でした。
自宅の床が抜けている、雨漏り、ごきぶり、むかで、不衛生な環境は当たり前の日常でした。
16歳で家を出るまでも、友人宅を転々とし、時に公園や河川で野宿し、家を出たあとも結局、同じような暮らしをしていました。
当たり前に家があり、当たり前に家族がほがらかで、当たり前に食事が用意されている。
それが、当たり前だと知ったのは、今の旦那と出会ってからだと思います。
そのため、「生活保護の面談員」を選んだのは、通信教育大学で「生活保護」が福祉の最後のセーフティネットと学んだからです。
福祉の世界で生きていくと決めたからには、最後の砦の現実をまず知らなければ何も知らないのと同じだ!という想いからです。
そして知りました。
最後の砦で暮らす人々は、当時の私なんかよりはるかに幸せそうでした。
「家」がある。
「家族」「友人」「知人」がいる。
「食事」が摂れている。
ことだけではない、明らかに違う「幸福感」をもつ人、もたない人。
そして「幸福感」をもつ人は、最期も誇り高くおられました。
私はその仕事柄、クライアントの最期やご○体と対面することも多かったです。
明らかに、「最期」はその方の歩んできた生き方、在り方で全く別のものになります。
なぜ、幸せな最期とそうでない最期があるのか。
それを考え続けていて、今たどり着いている「差異」の答えは、
「プライド(尊厳)(誇り)」
「人格(品格)(品性)」
その土台となるものは、
「想い」
「理念」
「倫理」
「思想」
「哲学」
「価値感」
「信念」
そして何よりも、自分らしく、自分らしさを気高く生きたかどうか。
私がバーンアウトした理由を突き詰めると、自分の価値にそぐわないことを仕事としていたからであることが分かりました。
私は、生命あるものが全て大切です。
生命在るもの全てが、幸福に生きるために産まれてきていると本気で信じています。
生命の可能性を世界で一番信じている。
可能性を発揮し、自分らしく本物の笑顔で人生を生ききる。
なのに、私のしていることは、忖度のために時間を割く。こと。
事業の継続のためにクライアントとの大切な時間を削ること。
そして、クライアントとの時間を守りたいがために1ヶ月で30時間以上サービス残業していました。
この数字は、タイムカードを押した時間です。
押していないサービス残業時間は、80時間は超えるんじゃないでしょうか。
今考えれば、何そこまで無理をしていたのか、その理由は
・「この仕事しかできない」
この仕事すらまともに出来ていないという自信のなさ。
・「地位」
地位があがると顔がきく世界でした。顔がきくようになれば、信頼が産まれ、忖度の時間が減る。クライアントとの時間を作れるのではないかという考えでした。
・「クライアントが好き」
離れたくない。
何よりも、
・「何者かである」
ことが分かりやすい。
これが一番でかかったかもしれないです。
社会福祉士であることに私は誇りをもち、守りたいと思っていました。
これでしか、私の理想とする世界は達成できない、そう考えていました。
私の覚悟と決意
最後になりました。
私は、これまでとは全く別のアプローチで、人の生き方(在り方)をサポートする道を選択します。
根底にある「人は幸福になるために産まれてきたんだ」という想い、身体と心に染みついた社会福祉士、精神保健福祉士の理念、行動規範は何よりも大切に、アプローチを変えて人の在り方(生き方)に関わっていきます。
今 を全力で駆け抜けます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
あとがき的感想
私がこれまで出会ったクライエントの方々は、おそらく数千人になります。
少なくとも1日1名、多い時は10名以上の方の人生に寄り添います。
少ない1名で考えても、✕15年
少なく見積もって月20日と考えても、
20名✕12ヶ月✕15年=3600名
少なくとも3600名の方の人生に寄り添いながら生きていました。
この3600名の方がたの素晴らしい生き方に尊敬の意を込め、新たなステージに想いを継承していきます。
「笑顔は世界を救う」
この世界が、笑顔で溢れる人達でたくさんになりますように。
笑顔でみんな生きられますように。
ずっとずっと。
藤井千恵
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