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【小説】黄金に凪ぐ(4)

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第一話とあらすじ







   四

 いつの間に眠ってしまったのだろう。気付くと妻は隣にはおらず、外は日没を終えようとしていた。部屋の中からは聞こえないけれど、きっとザザァっと穏やかで心地よい音を響かせながら押し寄せているであろう地平線の波間を、太陽の頭の残りが赤々と照らしていた。空のほとんどはもう紺碧を通り越して漆黒に染まろうとしていて、中途半端に光が残っているものだから、夜以上にその黒の深さが強調されている。携帯の画面を確認すると、まだ18:38の表示。ここからそれなりに夜も長いのに(夕飯だってまだだ)、もう今日という日が終わっていくようで、それだけで自分が十年くらい歳を取った気分になる。それでも昼間の惰眠の後悔のようなものは無く、むしろ今度は自分の意識の無いうちに時間が刻々と過ぎていってくれたことに、安堵すら覚えていた。何も解決しているわけではないけれど、ひょっとすると、眠っている間に何かが劇的に変化しているのではないかという期待を持たずにはいられない。そして、大体その期待は裏切られ、僕はそのまま、まだ夢の中にいるのかもしれないという妄想にシフトしていく。それなら、まだ何も前進していないのも頷ける。だってまだ、夢の中にいるのだから。

 ここ最近、どうもこういった調子の寝覚めが多くなっている。昼間のあれなどは珍しくて、大体起きてもまだ夢の中のような浮遊した状態で、頭がなかなか働かない。自分の思考が遅く感じるというよりも、周りの全てが三倍速くらいの速さで動いているように思えて、着いていこうにも取っ掛りを見つけられずに途方に暮れる。まるで、世界中の中で僕一人だけがふわふわと浮かぶシャボン玉の中に隔離されて、目まぐるしく流れていく世界に戻ろうと思いながらも、この高さでシャボン玉が割れたら、真っ逆さまに落ちていって、体ごと潰れてしまうかもという恐怖で、身動きもできずにただ上から眺めているだけのような、上手く表現できないけれど、そういったような状態になってしまうのだ。今まであまりこういったことが無かったものだから、遭遇するたびに困惑もするし、何よりひどく疲れる。それでも、最初のうちは勇気を出して自らシャボン玉を割っていた。その度に下に落ちて潰れてしまいそうになっていたけれど、段々とその状態にも慣れてきて、今ではずっと、それこそ夢の中ですら、シャボン玉の中に居続けている。浮遊しっぱなしの状態も、それはそれでいいのではないかと思えるようになってきて、何か色々と忘れていっている気もするけれど、それこそこうやって、一日の沈む瞬間を安堵と共に迎えることができるのだから、悪いことばかりでもないだろう。

 そんなことを寝起きの頭で考えていると、妻が部屋に戻ってきた。どうやら外に行っていたらしく、潮風に当てられて、肩まである髪の毛がほんの少しごわついて見えた。

「電気付けるよ。暗い。」
「外出てたの?」

 明かりがつくと、部屋の中は再び日の出を迎えたように、そこかしこの輪郭をはっきりとさせた。

「ご飯の時間、七時でしょ?だから戻ってきただけ。」

 ご飯が無かったら、戻ってこなかったの?
 言い掛けてやめた。うん、と返されたら、僕は恐らく泣く気がした。


 夕飯の間、妻は明日の予定について独り言のように喋り続けていた。

「朝のうちから活動したいんだけど、問題はきちんと時間に起きられるかってこと。いつも通りの感じで寝ちゃうと、ほら、最近ずっと時間バラバラじゃない?長く眠れるときは平気で十時間とかなのに、短いと三時間くらいで起きちゃったりとか。」
「うん。」
「でも今朝はちゃんと起きられたから大丈夫かな。電車間に合うかどうか不安過ぎて、逆に眠れなかったっていうのもあるけど。むしろ不安に思うくらいのほうがちゃんと起きられていいかもしれないね。そしたら朝ごはんを七時とか、一番早い時間に設定しといて、もうそこ間に合わなかったら終了!みたいな。そうしよう。それがいい。家プロジェクトって何軒かあるから回るの大変そうだけど、朝から行けば全部回れると思うんだよね。」

 ほとんどテーブルに話しかけているような目線のまま、妻は喋り続けていた。それにも関わらず、彼女の皿の上に盛り付けられていた白身魚のムニエルは、着実にその身を減らしていた。あまりにも口を動かし続けているので、唇の端に付いた橙色のソースが徐々に下に垂れ落ちそうになっていて、僕はそれをいつ指摘しようかと様子を伺っていた。そのままソースが顎にまで達して、彼女がそれに気付いてしまい、「どうして言ってくれなかったの?」と、羞恥と憤怒の表情で僕を睨み付けてから席を立ってしまわないような、それでいて楽しく喋り続ける彼女の話のリズムを乱すことのないような、絶妙なタイミングはいつなのかを見計らっていた。

「美術館は出来ればゆっくり観たいから。あ、別に家プロジェクトがどうでもいいとかってことではなくね。むしろ美術館は天候とか気温関係なく観れるから、後回しでいいかなって。あ、それも別に美術館がどうでもいいとかってことではなくね。」
「わかってるよ、大丈夫。ねぇ、」
「地中美術館は特にゆっくり観たいの。タレルの作品あるじゃない?お空がくり抜かれたみたいなやつ。あれ夕方に観たいから、出来ればお昼ご飯のあとに入館って感じがいいな。だからそれまでに家プロジェクト制覇!ね。ちょっとハードだけど、ね。」

 妻は浮かれていた。一目見ただけで躁状態に入り始めているのがわかるくらいの変わり様だった。脳の処理と表情筋の動きが一致しないまま言いたいことが溢れているような感じで、時折噛みそうになりながらかなりの早さで話していた。昼に宇野港で見た以前と同じ彼女の姿はどこにもなく、小型船の中で膨らませた凡庸な妄想が見事に打ち砕かれた虚しさと共に、どうして中間を保っていられないのかという彼女に対する苛立ちと、そんなことでいちいち腹を立ててしまう自分自身への嫌悪と、間もなく彼女の顎の先端にまで行きそうなソースに焦りを感じて、僕はとりあえず自分の食事の手を止めた。

「そんなに焦らなくても、帰るの明後日なんだし。詰め込まなくても、大丈夫、なんじゃないかな。」

 自分を落ち着かせるように、少し間を置きながら口にしてみると、思いのほか不機嫌そうに響いてしまった。彼女もそれを察知したのか、少し表情が曇ったあと僕のほうをまっすぐに見つめた。

「…最後の日は。全部回れるとは、思ってないし、一日で…。予備日必要じゃない?焦ってるってゆうか。違うし。…違くて。なんか、最後の日はちょっと。せっかく…、島なんて来ないんだし。」

 口角と目線が徐々に下に落ちていき、カチャカチャと音を立てていたナイフとフォークの動きも止まった。失敗してしまった。もはやタイミングを見失うというレベルの話ではなくなっていた。話を遮るどころか、久しぶりに見せた彼女の楽しそうな表情まで奪ってしまい、僕は一体、何をやっているんだろう。まだ「ごめん、ソース付いてるよ。」と言って、話を中断させたほうがましだった。

「あぁ、ごめん。えっと…。」

 謝ってみて、何に対して謝ればいいのかわからなくなってしまい、すぐに言葉が止まってしまった。口の中の水分が、膝の上に広げたナプキンを握る手のひらに全て移動してしまったかのように、じわっと嫌な汗をかきながら喉が渇き切っていくのを感じた。水が飲みたい。

「最後の日は、ね、ゆっくりしたいの。私もだけど、芳くんも、ゆっくり…。疲れるでしょ?私といると。最近、ははっ。」

 自虐的とはいえ、確かに妻は笑って言った。突然のことで、僕は思わず彼女の目をのぞき込んでしまった。ただ興奮して、あれもやりたいこれもやりたいと、思いついたことをひたすら口にしているだけなのだと思っていたものだから、彼女の中に漠然とでもプランが出来ていることが、そしてその中に僕のことがしっかりと含まれていたことが驚きだった。勝手に置き去りにされたような気持ちになっていた自分に気づいて恥ずかしくもなったが、それ以上に嬉しさが勝った。また少し、以前の彼女に戻ってくれたような気もして、数分前の自分とは別人かのように、気持ちは高揚していった。

「そんな、疲れるなんて。でも、そうだね。ゆっくりできるほうがいいよね。せっかく島なんて来たんだし。」
「でしょ?あれ…、わ、やだ。ソース。」

 恥ずかしそうにナプキンで口を拭う妻の目に、僕を責める気配は微塵も感じられなかった。


 部屋に戻る前にちょっと寄りたいところがあると言われ、僕は黙って着いて行った。おもちゃのようなエメラルドグリーン色のモノレールに乗って、ゆっくりと山を昇っていくと、コンクリートで固められた無機質な壁が佇んでいた。
 有名な日本人の建築家が設計したというその建物は、各客室のドアが取り囲むように真ん中に水を湛えた不思議なものだった。まるで山頂の火口湖をコンクリートで固めたようで、自然が作り出す有機的な荘厳さとは違った、他人事のような不気味さがあった。血の通った人間が作り出したものなのだから、本来であればそこには生命を感じられるはずなのに、そこに静かに佇む抜け殻のような水溜まりは、囲われた照明の光を身体中に含んで、蠢く空の闇と必死に対峙していた。

「一泊五万くらいらしいよ、ここの部屋」

と、どこかの情報を全く興味が無さそうに口にすると、妻は奥の階段をスタスタと上がっていってしまった。僕はその後を小走りでついて行った。

 階段を上ると、先ほどの客室の上が芝生の広がる庭になっていた。静寂の水面から一転、瀬戸内海からの生温かい初春の海風が、まだ少しごわつきの取れていない妻の髪を撫でたあと、僕の頬をかすめていった。全くの暗闇の中、漁船の灯りがぽつりぽつりと浮かび、その先には岡山の港が煌々と佇んでいた。

「例えば、今日のあの船に乗り遅れたとするじゃない?本土の高校に通う子とかが。」

 妻はじっと港の光を見つめながら独り言のように小さな声で言った。

「多分、こういう島だから、船を持ってる知り合いなんて皆いそうだけどさ、そういう人付き合い出来ない家に生まれた子は、誰が迎えに行くんだろうね。」
「まぁ、高校生なら市街に出て朝まで時間潰すとか?」
「それ東京の考え」

 また少し、彼女の気持ちの中から暗雲が立ち込めていくのを感じた。

「そんで、それ、幸せな学生生活送ってきた人の考え。あのね?そういう親家族のいる環境に育った子は、繁華街で時間潰すなんて高度なことは出来ないの。このままどうなっちゃうんだろうってゆう恐怖から逃れるのだけで精一杯で、ただ島の方向を見つめるしかできないのよ。泣きたいのを必死で堪えて、誰が見てるわけでもないのに、あーぁ行っちゃったなぁなんてボソッと呟いてみたりなんかして、別にこんなの何でもないって感じを演じるのよ。」

 段々と口調が強くなり、スピードが上がる。今、彼女はその架空の人物になりきっている。今にも泣き出しそうなのを必死に堪え、何とかその恐怖や悲しみを僕に知ってもらおうと訴え掛けている。

「ごめん、想像力の欠如。」
「そうね、…想像力の欠如。」

 そう言うと、妻は少し笑ったようにも見えた。しかし、すぐに前へ進んでいき、横顔は一瞬しか捉えることが出来なかった。
 空を仰ぎ見ると、漁船の灯りよりも更に強い光を放つ月が、明日にも満月になろうと息巻いていた。僕の影をはっきりと芝の上に落とし、この場にいる事実を改めて突きつけようとしていた。小幅でせかせかと歩く妻の影は、芝の一本一本に波打ちながら、光の一切届かない闇の海原のように、不気味な行進を続けていた。

「いまも、こっちを見てる気がする。」


(5)へ続く

食費になります。うれぴい。