見出し画像

【小説】黄金に凪ぐ(8)

(7)はこちら

第一話とあらすじ




   八


「ここ。地中美術館って言うの。」

と妻が指し示す方には、山の上にも関わらず、土の中に埋められてしまったようなコンクリートの建物があった。温暖な四国の空気のせいか、東京ではまだそれほど感じられない花粉の気配に、鼻腔がやられている。ここまでの道程が軽い山登りだったのもあって、僕は息苦しさから逃れたい一心で建物の入口へと駆け寄った。

「ちょっと、いきなり?そんな楽しみだったんだ、睡蓮。」
「え?睡蓮…?あぁ。いや、うん。まぁ…。」

 妻にそう言われるまで、ここに睡蓮の絵があることなど全く知らなかった。そんな小さなことも覚えていてくれたことに驚くと共に、彼女の中に私の存在がしっかりと確認できたことが何より嬉しかった。

 山に埋もれた室内は、所々天井から自然光が取り入れられる仕組みになっていて、壁に反射したそれらが柔らかな光を拡散させて薄ぼんやりとした空間を作り上げていた。
 蓮池の飾られている部屋は土足禁止で、スリッパも用意されていたが、僕は靴下のまま中に入ってみた。ツルツルと丸い小石が敷き詰められた床の上を歩きながら部屋の中央まで進むと、三方を蓮池の絵で囲まれ、まるで地下の空間が池の底のように感じて、沈む直前に見た美しい景色を回想している水死体になった気分でいた。ゆっくりと腰を下ろして小石の床にそっと手で触れてみると、一粒一粒が水分を含んでいるかのように豊かな冷涼さで満たされていた。空間に反響する周りの人々の話し声や衣擦れの音が広がっていく度に、その輪郭が滲んで溶けて、もはや音の体を成していないところまで行き着いては消えていった。あぁきっと、水の中の沈黙はこうして作られていくのだろうと、そのまま一緒に沈黙に徹することで、自分の身体が水の輪郭に馴染んでいくのだろうと、そう思った。

「思ってたより、ずっと大きい。」

 胡座をかいている僕の横に立って、妻はポツリと呟いた。半分口を開けたままぐるりと周囲を見渡すと、はーんと溜め息混じりの声を出してから、ストンとしゃがみ込んだ。

「あ、座るともっと大きい。」
「なんか、底まで沈んじゃったみたいじゃない?」
「池に?」
「池に。」
「うーん。…沈む前じゃない?」

 そう言ったあと、妻は頬杖をついて首を傾げていた。

「前って?どういうこと?」

 僕の質問に、妻は何も答えなかった。逆の意味をしばらく考えてみたものの、次第に目の前の蓮池に心が浸されていくようで、いつの間にか会話のことすら忘れていった。

 滲んだようなこの絵画は、本当にただ睡蓮の浮かぶ池を切り取っただけなのだろうか。もっとなにか、心の奥底をざわつかせる仕掛けが施されているように思えてならない。しんと静まり返った明け方の空の下、耳を澄まさないと聴こえないくらいの小さな小さなメキメキという音を立てながら、誰にも気付かれずに花弁を広げる睡蓮の花々。朝露の粒に映る空の紺碧と花びらの桃色が逆さになって、それをひんやりとした風が撫でると、ぷるるっと震えて世界が歪む。自然光の下で柔らかく浮かび上がる三枚の睡蓮は、まるで昔、どこかで目撃したような、随分と前から知っていたような景色に思えて、このままずっとここに沈み込んでいたい気持ちにさせられた。深呼吸をして、あぁ、この感じはシャボン玉の中と同じだと気付いた。ここの空間は、僕を隔離して世界から浮かばせてくれる、あのシャボン玉と同じだ。

「もうちょっといる?」

 妻の声で、パタッとシャボン玉が弾けて、僕は元の場所へと戻った。先程よりも人が増えたのか、空間に反響する声の輪郭は少しはっきりと聞こえてくるようだった。

「あ、いいよ大丈夫。行こ。」

 立ち上がろうとしたとき、妻が右手を差し出してくれた。シャボン玉の外に出たはずなのに、まだ守られているような気がした。

 美術館の中にあるカフェで軽食を取ったあと他の作品も見て回ったが、睡蓮の印象が強過ぎたのか、ほとんど風景を見ているような気持ちでいた。そのまま順路の通りに進み、天井が正方形にポッカリと空いている空間に足を踏み入れると、

「あ、ここだ!」

と妻は弾んだ声を上げ、小走りに壁際のベンチに腰掛けた。

「さっき行った南寺と同じ人の作品。」

 嬉しそうに説明する妻に対して、僕は「へぁ」と間抜けな返事を返した。まだ日の高い時間なので、白藍に塗り潰された空が正方形いっぱいに広がっていた。ずっと見つめていると、次第に一枚の巨大な布のように思えて、輪郭も心無しか歪んで見えてくる。水の中から水面を見上げたら、このような感じなのだろうか。少なくとも、睡蓮の池は違うはずだ。睡蓮の葉や根の間から覗く空は、もっと濃い色のように思えた。

「ねぇ」

 妻が上を見上げながら聞いてきたので、僕も上を見続けた。

「今さ、さっきの睡蓮のこと考えてたでしょ?」
「え、なんで?」

 びっくりして横を見ると、悪戯っぽく笑いながら妻がこちらを見た。気に入った作品を一緒に見ていながら、心ここに在らずだったことを咎める様子が無かったことに少しホッとしつつ、こんな態度じゃ図星だと言っているようなものだと自分の対応力の無さを恥ずかしく思った。ここ数ヶ月の自分なら、こんな失態はしなかったはずだ。

「すごいね、そんな好きだったんだ、あれ。」
「いや、まぁ。うん。」
「私はここの方が好きかなぁ。あとちょっと、いてもいい?」

 先程、妻が僕のことをどれくらい待っていてくれたのか分からなかったが、きっと自分が思っている以上に長い時間だったのだろう。今度は自分の番だと思い、そこから妻が立ち上がるまで、一時間近く一緒に空を見上げ続けた。

 外に出ると、午後の光が薄暗さに慣れた目に突き刺さった。一瞬眉を顰めたあと、白んだ風景の色が徐々に濃さを増していく。

「結構ゆっくりしちゃったね。」

 妻は嬉しそうにそう言うと、僕よりも少し前を歩き始めた。僕の知る限り、昨日も今日も薬を飲んでいないはずだ。南寺を出たあとは、多少波が荒れそうな気配があったものの、今は落ち着いているように見える。だからといって、無駄に活動的になっている様子もないので、もしかするともしかするかもと、ここに来てからの彼女の自己統制ぶりに、その先の希望を抱かずにはいられなかった。

「いいところだったね。来るまでの坂道は、ちょっときつかったけど。」

 僕の返事にあははと大きく笑い声を上げ、妻はこちらを振り返った。春先の柔らかな光に照らされて、足並みに合わせて踊る髪が茶色に透かされる。ほとんど化粧っ気のない、そのままの色をした唇や、血色良く桃色に染まった頬。戻ってきている。僕の好きだった彼女が、戻り始めている。そう感じた瞬間、顔中の血液が外に飛び出していきそうになり、鏡で見なくてもわかるくらい紅潮しているであろう自分の頬が、嬉しさのあまり思い切り引き上がった。こうして笑い合える日がまた訪れるなんて思いもしていなかった。例え一時的だとしても、この瞬間が一度でもあるのなら、もうそれで十分だ。
 再び前を向いて歩き出す彼女を追いかけて、手を繋ごうとしたその時、

「あれ?槙野?」

 一瞬、通りすがりの人達の会話が耳に入っただけだと思っていたが、その声が自分に向けて発せられていることに気付いたとき、同時に聞き覚えのあるこの声の主を直視することに、とてつもない恐怖を覚えた。右片方だけ吊り上がった口角と、鈍色に浮かび上がる歯列、僕へと向けられた侮蔑の視線。思念体のように闇が蠢き始める薄暮の中、ポーズを取りながら、心の奥底ではずっと相手を白眼視していた事実を突きつけられて、全身を襲った自分自身への強烈な嫌悪は、今でもこの声を聴くだけで血管という血管を駆け巡る。あの日以来、その姿を背景としてしか見ていなかった自分に、穏やかな瀬戸内海の陽射しの下で、果たして拝顔することなど出来るのだろうか。そういう恐怖と同時に、折角の静謐な妻との時間をこれから崩されるであろう予感に、これ以上ないくらいの憎悪と怒りも感じていた。
 恐る恐る、でも確実に敵意を滲ませながら、その人物のほうを睨みつけた。

「やっぱり!槙野!えー、こんなとこで!すっげぇ!」

 誰なのか分からない、会ったことも見たこともない溌剌とした青年が、そこにはいた。同い年くらいだろうか。スポーツ刈りにした髪の毛は少し汗ばんでいて、揉み上げの辺りの毛束からは滴が垂れていた。Tシャツの袖から覗く健康的に焼けた腕は、僕の腕よりも太く、生命力に溢れていた。まるで久しぶりに出会した旧友を、驚きと共に見つめるようなその瞳は、周りの木々の青さを閉じ込めて煌めいていた。

 誰なんだ?お前、誰なんだよ。声にならない意思が、歯の隙間からはぁはぁという息遣いと一緒に空気に溶けていく。酸欠状態の金魚のように口を開閉するしかなかったのは、どう考えても違うはずなのに、その声と、右側の口角だけが上がった特徴的な口元が、予想していた人物そのものだったからだ。

「覚えてる?俺、高校んときちょっとだけ絡んだことある…、あ、いや覚えてねぇか。ほんと、数ヶ月とかだったから。」

 少し困りながらも、僕に会えて嬉しいという顔は崩さないまま、青年は僕の肩を軽く叩きながら言った。

「覚え、てるよ。…多田だろ?」

 名前を口にした途端、目の前の多田は実在する者になった。胸骨を響かせる低音と耳障りにも思える上擦った高音とが混在する特徴的な声が、一言ひとことを発する度に、僕の気分はひやりとする沼のようなものに沈んでいくようだった。ついさっき見たばかりの睡蓮が、あの心落ち着く冷涼な空間が、全くの偽物だったということに気付いた。蓮池の底は、今まさに感じているような気分なんだろう。表面の美しさに別れを告げ、根元に潜む重く冷たい汚泥の中へ、恐怖で冷や汗をかきながら埋もれていくんだろう。

『うーん。…沈む前じゃない?』

 妻の言葉が頭の中に響いた。僕はまだ沈み込んでいなかった、そして妻はそれに気付いていたのだろう。肺の中まで泥で満たされたみたいに、身体が重くて動けない。

「マジか…!覚えてんの?いやぁ、そっかぁ。なんか嬉しいなぁ。ははっ。」

 本当に、本当に嬉しそうな顔をしている多田を見せられれば見せられるほど、僕の中で疑念は増殖し続けた。嘘なんだろ?本当はずっと僕のことを恨んで憎んで、ちっぽけな臆病者だって、嘲ってたんだろ?

「あ、えっと…こちら奥さん?」

 そうだ、隣には妻がいたんだと、多田の言葉ではっと気付くと、蓮池の底から急浮上をしていくかのように、周りの空気が澄み始めた。あの時のように、僕は今一人で多田と対峙しているわけじゃない。そう思うと、少しずつ息を吐き出せるようになった。

「あ、あぁ。妻の、絵里。高校んときの、あー、クラスメイト…。多田ってゆう。」

 クラスメイト、間違いではない。大丈夫。友達と言ったら、きっと多田はまた僕を軽蔑の目で見るはずだ。クラスメイトで、大丈夫。いつの間に握りしめていた両手からは、じんわりと汗が滲み出ていた。

「はじめまして奥さん。」

 記憶の多田からは考えられないような爽やかな笑顔と差し出された右手に、妻は何も躊躇うことなく握り返していた。

「はじめまして。妻の絵里です。すごい、こんな所で再会なんて、ね?」
「ん?うん。」
「二人は旅行?」

 煌めき続けている瞳を左右に動かしながら、多田は尋ねてきた。初春の透明な光を全て味方につけて、僕の奥底で蠢き続けていた薄黒い泥の塊を、サーチライトで照らすかのように見つめられると、思わず目を逸らさずにはいられなかった。左手薬指に、指輪は無かった。

「そうなんです。結構久しぶりに二人で。」
「へぇ!槙野、現代アートに興味あったんだ、意外だな。」

 眺めていた左手が、再び僕の肩を叩いた。重さをずしりと感じる二回の衝撃に、少し体がよろけた。

「あ、私。私が直島行きたいって言ったんです。ね?」

 よろけた僕をさり気なく支えるように、妻は僕の右腕に両手を添えてこちらを見た。きっと笑顔でいたのだろうけど、僕はまともに顔を合わせることが出来なかった。

「そっか。面白い作品、沢山あるでしょここ!俺も好きで何度も来てるんだけど、来る度に違って見えるんだよ、作品も風景も。」
「どこっ、どこに住んでるんだ?今….」

 黙ったままでいるのも、多田にも妻にもおかしいと思われそうで、何とか質問をしてみたものの、思いの外喉に声が詰まってしまい、余計に動揺をしている感が強まってしまった。頭の中で吹き出していた汗が流れ始めて、首筋辺りが痒い。

「おう、今は岡山にいるんだよ!親父の地元でさ。高校中退した後、ばあちゃんとこに住み出して、それからずっと。」

 僕に話し掛けられた嬉しさを全力で表情に出しながら、多田が躊躇いなく中退という単語を発したものだから、僕は思わず肩をビクつかせてしまった。

「今はフリースクールっつーの?色んな事情で学校行けない奴らが集まって、一緒にどこか出掛けたり絵描いたり歌唄ったりさ、そういうとこの手伝いみたいなのやってんだよ。」
「へぇ、なんかすごい。ね?」
「あぁ、うん。偉いな、そんな、すごいよ、…ほんと。」

 きっと多田自身も、そういうところに通ったのだろう。そこでどんなことを経験したのか、どんなことを思って過ごしていたのか、このまま話が進んだら聞くことになってしまうんじゃないか?そう思うと、土踏まずの辺りがゆっくりと反り上がって、腹部の内臓がググッと上昇するのを感じた。僕のことを、どう思って過ごしていたのかを。

「いやいや、全然すごくないから!ちゃんと働いてるってわけでもないし。こうやってふらっと自分の好きなとこ行ったり、結構遊んで生きてるよ。やばいだろ?」

 やばいだろ?と言いながら、多田の眉毛が一度上に上がり、その後右の口角がニヤリと動いた。体つきや見た目がどんなに変わっていても、やはり目の前にいるこの青年は紛れもなく多田だった。些細な言動の中にかつての多田の欠片を見つける度に、体中の空気が口の中から吐き出てきそうになる。

「なぁ、そうだ!このあと時間あったりする?この先にカフェあるんだよ。良かったらほら、色々話したりさ。」

 色々?話す?何を?僕のことを?僕らのことを?僕がお前を可哀想な奴って思いながら、友達みたいな振りして一緒に下校してたことを?孤立してるクラスメイトにも声掛けたりしちゃう自分のことを、良い奴、偉い奴と思い込んで悦に入っていた卑劣で愚かで恥ずかしい僕のことを?
 自分が今、どんな表情をしているのかも、どこを見ているのかも分からなかった。ただ、妻の手が触れている右腕以外、体の隅々まで重怠く冷え切った泥で満たされているのだけはわかった。池の底は、小石の床なんて比ではないくらい、こんなにも冷たいものなのだろうか。

「すげぇオシャレなとこだから、奥さんもきっと気に入ると思うよ。平日はまだそこまで混んでないし。な?一時間とかそんくらいでもいいしさ。せっかく会えたんだし。」

 スポーツマンのようながっしりとした体格には似つかわしくない、小学生の男の子のようなはしゃぎ方をする多田は本心からそうなのか、それを訝ることすらも出来なかった。もはや多田の本心なんてどうでもよくて、とにかくもう二度と、関わりたくはなかった。

「あー、ごめんなさい。せっかくなんだけど、私達まだ見たいところがあって…。私が予定詰め込んじゃったから、結構余裕ない感じになっちゃってるんです。だから、本当せっかくなんだけど。ごめんなさい…。」

 先程よりも妻の手が僕の腕を強く掴むと、そこからじわじわと澄んだ水が流れ込むように、泥の塊が滲んでいくのを感じた。僕の代わりに断ってくれたことに感謝しながらも、まだ体は動かせずにいた。

「いや、いやいや、謝んないでいいっすよ!俺こそごめん、突然。そうだよな、旅行だもん予定立ててるよな。いやなんか、ちょっと懐かしくて嬉しくてさ。思わず。ははっ!ごめんごめん!」

 少し残念そうにしながらも、頭をぽりぽりと掻きながら、多田は笑いながら謝ってきた。傷付いている、絶対に。ダメージを最小限に抑える為に、以前の多田ならもっと卑屈な思考で回避していたはずなのに、今は笑顔で取り繕っていた。本当にこれは多田なのか?と、またしても僕は目の前の男が多田本人なのかを疑った。

「本当にごめんなさい。せっかくの再会を、私のせいで…。」
「奥さんのせいじゃないっすよ!全然!あ、じゃあ槙野、せめて連絡先!教えてくれよ、な?」

 出来ればもう関わりたくない気持ちのほうが強かったが、このまま拒否してしまうのは三十代になった大人の対応としてどうなのかとも思ったし、ほんの少しだけ、妻に断られた時の多田が可哀想にも思えて、そのままお互いのメールアドレスを交換した。

「じゃあな!連絡する!」と満面の笑みと腹から響く声を僕にぶつけながら多田は坂道を下っていった。徐々に小さくなっていく多田の後ろ姿を見送りながら、随分と浅い呼吸をしていたことに気付いた。ゆっくりと鼻から大きく息を吸うと、先程の睡蓮の空間が目の奥に広がり始めた。ゆっくりと、シャボン玉が膨らんでいく。

「ごめんね、話したかった?多田さんと。」

 妻は心配そうに僕の顔を覗き込むと、更にぎゅっと僕の腕を掴んだ。

「いや…。だって旅行に来てんだし。本当、ちょっと絡んだことあるくらいの奴だったから、そんな大して、なんか、話すこともないってゆうか…。」

 曖昧な言い訳をしながら、また歩き出そうと右足を前に出してみると、また体がよろけた。わっと小さく声を出した後、すぐに体勢を整えて、今度は普通に歩き始めることが出来た。ひんやりとしたあの泥の塊達は、いつの間にかどこかに消えていた。

「そ?なら、良かった。」

 今度は右手をぎゅっと握ると、妻も再び横に並んで歩き出した。中指の先が少し震えているように感じたが、僕が握り返すと、震えは収まった。

「なんか、芳くんのお友達に対してこんなこと言うの申し訳ないんだけどね。私、あの人ちょっと苦手、かも…。」

 俯き加減に発せられた妻の発言に、思わず足を止めた。

「え、そうなの?」
「うん、なんか…。怖いってゆうか。」

 妻の手が力強くなっていくのを上回るように、僕も強く強く握り返した。

「嘘っぽい感じがした、全部。」


(9)へ続く

食費になります。うれぴい。