【小説】黄金に凪ぐ(7)
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第一話とあらすじ
七
佐竹が死んだと知ったのは、十月に入ったばかりの頃だった。やっと少し涼しくなり始めたと思ったのも束の間、再び暑さのぶり返した日の息苦しい夕方で、羽織っていたカーディガンの袖が腕の汗で湿り気を帯び始めているのが気持ち悪くて仕方がなかった。下に着ているのが半袖のティーシャツだったので、さすがに十月で半袖はどうなのだろうかと思いながらも、我慢出来ずに脱ごうとした瞬間、
「やばっ、まだ半袖着てんだけどあの人。」
という声が聞こえて、全身が痺れて動けなくなった。そっと振り返ると、大学生くらいのカップルが半袖シャツ一枚のおじさんを見ながら「さすがにもう十月なんだしさー」などと話していた。自分に対してではなかったことに安堵しつつ、自分の体温調節をすることにすら周囲の視線を気にしている自分というのは一体何なのだろう、いくらなんでも気にし過ぎなんじゃないか?と、とつおいつ考えながら、結局袖を軽く捲ることで妥協した。暦と視線に負けた。
「…ん?あ、ごめんちょっと。悠馬くんからだ。」
一緒に歩いていた妻が立ち止まり、もしもし?と電話に出た。僕に起こったこの数分の間の挫折劇には、何も気づいていない様子だった。
しばらく電話が終わるのを横で待っていると、電話先の相手に頷く度に、妻の表情が曇っていった。わかった、ありがとう、と言って電話を切ると、しばらくどこともない場所に視線を落としたまま、その場に立ち尽くした。明らかに浮かない表情ではあったが、何故か少し清々しい気配も漂わせていたように思う。
初めて佐竹の話をされたのは、大学一年の三月だった。春休みに入り授業も無くなっていたが、バイトのある日や彼女の所属する写真サークルの集まりが無いときは、ほとんど毎日のように会っていた。大学のラウンジで昼食を一緒に食べた後、お互いに行きたい場所の候補を出し合った。いい案が出ない時は、とりあえず新宿や渋谷をブラブラ歩いた後、そのまま何となく、ラブホテルへ行くのがパターンだった。
「そうだ、四月からさ、高校ん時に仲良かった後輩がうちの大学来んの。」
うつ伏せで頬杖をつきながら、彼女は嬉しそうに僕に教えてくれた。まだ射精後の脱力感で腑抜けていた僕は、空返事をしながら天井を見つめていた。つららのようにキラキラとしたビーズの装飾が何本も垂れ下がっている大仰なシャンデリアが、一定の感覚で微妙に揺れている。上の階の振動か、それとも横の部屋の振動か、どちらにしろ、今この瞬間も腰を振っているカップルが隣接する部屋にいるというのが何だか可笑しくて、だらしなく開いた口の隙間から自然と息が漏れた。
「ん?なに?」
「いや、なんでも。その後輩、男?」
「仲良かったって言ったじゃん。女の子だよ。」
クルッと身体の向きを変えて、うつ伏せになってみた。頬杖をついている彼女の顔が少し上の方に見える。まだ少し紅潮している頬が、彼女の瑞々しい肌の透明感を際立たせていた。化粧を落としたこの顔が、僕は一番好きだ。手ぐしだけでささっと整えられた髪の毛も、いつもよりハッキリとした鋭さの無くなった優しい眼も、余計な艶のないそのままの唇も、全部が好きだった。
「今度紹介するね。多分芳くん、嫌われると思うけど。」
「なんでだよ。会ったこともないのに。」
思い出し笑いのようにクスクスと笑いながら、ぬるま湯のような彼女の身体が僕に抱きついてきた。二の腕から感じる彼女の胸の膨らみに再びドキッとしながら、そこから伝わる心臓の鼓動と僕のそれとが少しずつ折り重なって、まるで一つの物体に融合していくように感じた。このまま一緒に混ざり合えれば、彼女の見る、彼女の感じる全てを、自分のものにすることが出来るだろうか。僕だけが彼女の全てを包み込んで、受け入れることが出来るだろうか。
「あの子、私のこと大好きだから。」
彼女の方に向きを変え、そのまま一緒に溶け合ってしまうようにと抱き締めた。萎えていたはずの自身は、力を取り戻していた。
彼女の予想通り、佐竹は僕のことを少なからず好意的には見ていなかったようで、紹介の場は尽くキャンセルされていった。それでも、彼女は何とか僕と佐竹を会わせたかったようで、何度もセッティングを試みていた。嫌がってるならやめれば?と言ってみても、
「そんな。私の付き合ってる人だもん、あの子にも知ってほしいし、あなたも私の仲良い子のこと知ってた方が、色々心配しなくて済むでしょ?」
と言って、取り合おうとしなかった。何故そこまで躍起になるのか分からなかったが、さすがにこう何度も会ったことのない人間から敵意を示されると、僕も良い気はしなかった。
結局その後、僕は遺影越しに佐竹と初対面を果たすこととなった。
何の関係も持ったことのない人間の葬式に出るというのは初めての経験で、どこにいても、どこを見ていても、とても心許なく居心地が悪かった。
居た堪れない気持ちでいる中、以前テレビのドキュメンタリーで見た、聖地エルサレムの映像を思い出した。それぞれの宗教信者達が、思い思いに聖地巡礼に対する心の充足を感じている映像が映し出される中、嘆きの壁に向かってひたすら祈りを捧げる黒装束のユダヤ教徒達の後ろを、明らかに観光客と見える白人の青年がカメラを構えてニヤニヤしながら歩いていた。目の覚めるようなスカイブルーのティーシャツが祈りの集団の中に於いては異彩を放っていて、取材目的ではなさそうな締まりのないニヤついた顔は、不謹慎という言葉そのもののように見えた。恐らく無料で配られているだろう白いキッパを被っていたが、それがより彼の場違い感を強調していた。
あんな風に自分も見えていないかどうかが気になって、なるべく神妙な面持ちを保とうと必死だった。悲しみやら何やらといった感情は当然湧き上がってこないので、俯き加減のまま無表情で佇む妻の横で、なるべく釣り合いの取れるような表情をする為に、少し眉間に力を込めて前列の参列者の踵辺りを見つめていた。
焼香の番になり、妻と二人で並んで祭壇の前に立つと、こちらを見つめて静かに微笑む若い女性の遺影があった。ショートボブの真っ黒な髪の毛は艶やかで、綺麗に天使の輪が掛かっていた。遠慮がちに上げた口角と、照れ臭さが滲んでいる細めた眼の間に、少し紅潮した頬が緩やかに盛り上がり、恐らく撮影されたときの実年齢よりも若く幼く見えた。その写真の彼女が横たわっている棺桶の前で、僕は見様見真似のお焼香をして、小さく「はじめまして」と呟いてみた。返事は無かった。当たり前だろと、心の中で自分に突っ込んだ後、やはり僕がここにいることは不謹慎だと改めて感じた。軽く頭を下げ、祭壇の横に立つ佐竹の母親と目が合った瞬間、その不謹慎さは頂点に達した。
未だ肉親を失ったことのない僕にとって、その心情は計り知れなかった。どんなに苦しくどんなに辛いことなのか、共感出来る要素を微塵も持ち合わせていないからこそ、憔悴し切った人間の虚ろな眼差しは、およそ尋常とは言えない狂気を内包しているように見えた。本来なら、可哀想だとかお気の毒にとか、そういう感情を持たなければならないはずなのに、ただただ恐ろしいとしか思えず、その感情自体がやはりとても不謹慎だった。
佐竹の母親は僕から目線を移動させると、まだ頭を下げたままの妻の方をじっと見つめていた。彼女が顔を上げたとき、「あっ」と小さく声を出し、手に握っていたハンカチの間から、くしゃくしゃになった一枚の写真を取り出して、今度はそれをじっと見つめていた。何だろう?と気になっている僕をよそに、妻はそそくさと元の席へと歩き始めていた。
「ねぇ、さっきさ、お焼香のとき、お母さんなんか写真みたいなの出してなかった?」
葬儀所を出てから妻に聞いてみると、少し不機嫌そうな顔で彼女は答えた。
「多分、私達の写真じゃない?ディズニー行ったときのだと思う。」
何かに怒っているとき、彼女は歩幅が広くなる。
「厳しかったのよ、お母さん。ああいうとこ行くのは時間の無駄だって。だから一度も行ったことないって。」
それ程高さのない礼服用の黒のパンプスが、コツコツと音を鳴らしてテンポを速めていく。
「高校卒業の時に、一緒に連れていったの。でも何日かしたらお母さんにバレて、私が現像して渡した写真、全部捨てられたって。多分、その中の一枚。」
語気を強めながら、歩くスピードと比例して早口になる彼女は、明らかに憤っていた。頬と耳が赤みを帯びているのは、秋にしては温暖な今日の天気のせいだけではなかった。
「二人で耳つけて撮ったやつだったもん。ちらっと見え」
ひっ、という小さな叫び声と共に、彼女が立ち止まった。突然だったので、追いかけるように並んで歩いていた僕も、前につんのめった。
「あの、ごめんなさいね、突然。」
佐竹の母親は、妻と僕の顔を交互に覗き見たあと、薄っすらと愛想笑いを浮かべた。どことなく佐竹の遺影に似ているように見えた。
「えっと、お名前…。仲本、さん?で、合ってるかしら?美優子の、高校の先輩、の。」
探るような聞き方に何となく嫌味を覚えて、僕はすぐにこの人と関わりたくないと思った。まだ元気だった頃の祖母が、母の一挙手一投足に対して物申す時にとても似ていて、お名前だの、かしら?だの、普段は使っていないだろう口調も、わざとらしくプツプツと途切れたような喋り方も、そっくりだった。言われるたびに小さく肩を丸めて下を見つめる母の惨めな姿が思い出されて、思わず妻の方へと体を寄せた。
「はい、そうです。仲本絵里です。この度は本当に、ご愁傷様でした。」
それでも妻は、まるで気にしていないかのように、訪ねられたことに無表情で答えて、やや深めに頭を下げた。
「わざわざ来て下さって、ねぇ、本当にありがとう。あの子、あの子もね、きっと、喜んでるはず。」
愛想笑いを崩さないまま、佐竹の母親は妻に声をかけると、今度は僕の方を見つめてきた。その目が先程と変わらぬ狂気を孕んでいて、思わず目を逸らしてしまった後、慌てて取って付けたかのように「ご愁傷様でした。」と言いながら頭を下げた。
「あの、こちらは、仲本さんの恋人?さんかしら、ね。美優子とも、親しくして下さっていたの?」
訳もなく親指と中指を擦り合わせながら、手汗がじわじわと溢れ出てくるのを感じていた。背中からも汗が吹き出してきて、自分の体温が一気に上がっていくのがわかった。どう答えようか。まさか今日初めて顔を見ただなんて言えない。
「彼は、夫です。美優子さんとは何度か面識があったので。あの、ごめんなさい、仲本は旧姓なんです。今は槙野といいます。先にお伝えすれば良かったですね。」
慌てる様子もなく妻が嘘を盛り込んだ助け舟を出してくれたので、開けかけた口をゆっくりと閉じて一つ唾を飲み込んだ。襟元の隙間から入り込む秋風で汗が冷やされて、軽く身震いをした。
「あら、ご結婚されてたのね。それは、ねぇ、おめでとう。そうだったのね…。うん。」
何かを思い出しながら、佐竹の母親はうんうんと頷いていた。妻はまだ無表情のままでいたが、僕には彼女の敵意が見えていたので、それが佐竹の母親に伝わってしまうのではないかと気を揉んでいた。
「失礼だけど、そしたら、お子さんは」
「まだです。」
被さるように妻が答えると、少しの間を置いた後、佐竹の母親は震える声で話し始めた。
「そう、なの。そしたら…あなたも、ね。覚えておいてね。子供なんて、すぐに死んじゃうの。ね?ちょっと目を離してる間に、こうやって母親なんて残して、一人で遠くに、行っちゃうの。」
思いがけない言葉の数々に、僕たちは面食らってしまった。子を亡くした親というのは、これほどなのだろうか。僕も妻も、どう答えていいのかわからず、ただ俯き加減に話を聞くしかなかった。
「でも、それが一番幸せなのかもしれない。生きてることが、ね、苦しいってこともあるでしょ?死んだ方が、楽って。だから私、私ね、いま幸せよ?あなたには感謝してるの。あの子、あなたには、心、開いていたんでしょ?」
先程のくしゃくしゃの写真をポケットから取り出すと、妻の手に強く握らせた。一瞬ビクッと体を動かした妻を見つめながら、佐竹の母親は目を細めて続けた。
「恨んでなんて、いないからね?」
数日後、妻のサークル仲間から、心不全となっていた彼女の本当の死因について聞かされた。出血性ショック死。リストカットによる自殺だった。
8月24日
8月30日
9月20日
(8)へ続く
食費になります。うれぴい。