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【小説】黄金に凪ぐ(2)

第一話とあらすじ




  二

 東京から岡山、宇野港に着くまでは、妻に言われるがままに電車に乗り、乗車とともに眠りについてはまた起こされて移動の繰り返しだったので、どのような景色が過ぎていってここまでたどり着いたのかがわからず、ふと幼い頃のディズニーランドの帰り道を思い出した。楽しかった記憶のまま、気がつくと、父に抱えられた状態で自宅の匂いが鼻腔を通り抜けるあの瞬間。ディズニーは時空を歪めることもできるのかと驚愕し、魔法の存在を実感したと共に、夢はほんの一瞬で醒めてしまうくらい、脆く不確かなものであることも知った。ただあの時と違うのは、目覚めたあと、その楽しさをもう一度味わいたいという未来への希望がないところだ。単純に、せっかくの時間を惰眠に費やしてしまったという後悔だけが残っている。

 ボウっとした頭がまだ澄み切らないうちに、船の時刻を確認しに行った妻がベンチに戻ってきた。

「あと十五分後。飲む?」

 東京でも見慣れているパッケージのお茶を差し出され、あの頃との違いはここにもあるなと思った。ディズニーランドから自宅までタイムスリップしたような感覚も、それまでの楽しかった想い出が、まるで夢のような時間に思えたのも、現実との境目を自らで引いていたからだ。いや、もっと言うと、現実の世界が狭かったのだろう。自分の知らない世界は夢と同じで、自分の世界とは関係のない、全く未知のものだったからこそ、そこで繰り広げられる自分の感情すらも、ある種他人事のように捉えることができた。歳を重ねるにつれ、少しずつ自分の現実世界が拡張し、夢の領域が狭まってくると、見知らぬ土地でも自らの生きる現実世界との接点を見つけ出すことができるようになる。ただ生きて、経験を重ねていくだけで、魔法も夢も、いつの間にか自分で失くしていた。

「なに?険しいんだけど、顔。」

 下唇だけを注ぎ口に当て、器用にお茶を流し込む彼女の表情は、明らかに浮き立っていた。わずかに上がった口角と、そこに惹きつけられるかのように下がり気味の目尻。はしゃいでいる自分を何とか周りに悟られないようにと、時折無表情を保とうとしている様子は、以前の彼女そのものだった。今朝からずっとこのような調子だったのだろうか。もしかすると、昨夜のメールを打っていたときからだったのかもしれない。それならばやっぱりと、惰眠を貪り続けた往路を再び後悔した。

 小型船に乗り込み出発を待っていると、ちょうど地元の高校生達も一緒に乗船してきた。東京よりも更に春めいた生温さのためか、皆学ランの袖を肘辺りまで捲っている。細かな傷によって鈍い光を放つ金釦と、膝の周辺の生地のテカリ具合が、彼らの若さに由来する快活な日々を物語っていた。

「今日のたっつんの顔、あれ今年一番じゃったわ。」「ほんとこれ以上笑わせんなよ。」
「笑かすつもりねぇって。あれ素じゃ。」
「あんな小せぇ虫におうじとる奴始めて見たわ。」

 ともすると粗暴にも聞こえてしまう彼らの耳慣れない西の口調が、標準語では味わうことのできない小気味よいリズムを作って、観光客だけで作られていた他所行きの空気をすぐさま土地の色に塗り替えていった。

「なんか、いいね。」

 妻が余りにもそっと口にしたものだから、彼らの会話と船のエンジンの音に混ざり合って、その言葉に気付くまでに時間が掛かった。数秒してから慌てて彼女の顔を見ると、特に反応を気にするような素振りも見せず、ただじっと高校生達を見つめていた。先月までは僕の返事が少しでも遅くなると、まるで自分の存在を無かったことにされたような気分になるのか、喚きながら何度も叩いてくるような日も多かった。どうにか一緒にいるときは自分の全てを妻に集中させて、安心させてあげないと。そういった気構えを継続していくことに、始めは戸惑いと徒労を感じていたものの、二ヶ月もすればそれが当たり前となった。飽きるまで話を聞き、適当に聞こえないように、かと言ってわざとらしくならないように相槌を打ちながら、彼女が寝静まるのを見届ける。それから家のことや明日の仕事の準備をする。それが日常に化けるまでに、そう時間は必要ではなかった。

 だから、まずい!と思いすぐさま彼女のほうに目をやったとき、こちらを責め立てるような涙目で見つめる妻が当然いるものと思っていたから、彼女自身が全く自然に口にした言葉が、そこにある空気に溶け込んでいったのを目の当たりにして、僕一人だけが浮き上がってしまっているように感じた。妻はすでに、「地元の子供達とそれを微笑ましく見つめる観光客」という、船内に作られた偶発の日常の一部となっていた。これはもしかすると、彼女の中に戻り始めている凡下の欠片が、少しずつ形を成してきているのではないだろうか。そう思うと、このまま良い方へ良い方へと願いたくなる気持ちが膨らみ出して、時期尚早と分かっていても、この旅行から帰ったあと、また以前のような日々を送ることができるようになるかもしれないと、ニヤつくのを抑えられずにいた。お互いのことを思い合いながら、何の変哲もない、穏やかで静謐な毎日をまた二人で過ごせるようになるかもしれない。
 彼女を含めたその場の空間が一つの情景として成立している中で、この密かな想察は、僕自身をそこからより一層浮き彫りにするものだった。

 出発時刻を二分程過ぎた辺りで、船はゆっくりと前進し始めた。大小様々な島が彼方に見え始めると、エンジン音もそれに合わせて大きくなり、高校生達の会話もより活気の満ちたものとなってきた。

「そう言えば日曜どうすんの?」
「まだ海入るにゃあ冷てぇもんなぁ。」
「え、俺行かんよ。」
「は?なんで?」
「勉強するけぇ」
「うっわ!うっっわ!!出た出たこねーなのー。へー冷めたー。」
「しょうへい勉強する必要ねぇじゃろ。頭ええんじゃけ。」
「そうじゃあ、付き合えよ日曜くれーさー。」

 妻はやり取りを眺めながら、やはりニヤつく顔を取り繕い切れていなかった。同じような表情をしているだろう自分も、傍から見れば彼女と心躍る旅の始まりを共有しているように見えるのだろうか。そう思うと、少しの罪悪感が胸の奥底に深くのしかかるようで、思わず船内の景色から目を逸らした。

「おい待てよ!人のケータイ見んなって勝手に!」
「先週の写真見るだけじゃって、他は見ん見ん。」
「エロ動画保存しとっても俺ら気にせんけぇ安心しとけ。」
「っっねぇよばーか!」
「必死過ぎじゃろ。あ、これ後で送って。」

 耳から入り込む独特のテンポとその内容のくだらなさに、先々のことには目もくれずに今という時間を無意識に生き抜く未成熟な力を感じて、少し疲れ始めている自分がいた。窓から覗く瀬戸内海のさざ波が、午後の柔らかい陽射しを受けて黄金色に煌めき出すと、彼らの持つそのかけがえのない一瞬の輝きを、更に水際立たせていた。



3月4日


得意げに両手放しでチャリこいでる奴見ると、転べって心 の中で何度も念を送る。
すれ違った女が嫌いなグルマン系の香水をすごいつけてると、くせぇんだよ死ねブスって思う。
スタバの店員が笑顔で話し掛けてくると、お前私の友達? って思う。
電車で痴漢を目撃した。声を出せないでいる女子高生と、自分の左手中指に全神経を集中させて彼女の股間を弄くり回すおっさん。
私が助けるべきだったのに、「男はいいよな、そうやって女の子に触れるんだから。」ってぼんやり考えてるだけだった。

私は、自分が大嫌い。気持ち悪い。


(3)へ続く

食費になります。うれぴい。