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【小説】黄金に凪ぐ(1)


あらすじ


精神を病んでしまった妻・絵里のことを支えようとしていた芳明は、自身が気付かぬ間に日々少しずつ不安定さを増していった。
そんな中、絵里から瀬戸内海の直島への旅行を提案される。
気が進まないながらも、これをきっかけに現状が好転するのではと、淡い期待を抱きつつ二人は直島へと向かった。

島に点在するアート作品や風景を通して、普通とは何か、夫婦の愛の形とは何かを探していく物語。







  子供は僅かな時間でもすぐに死ぬ。ほんの少し
  ちょっとだからと目を離したその隙に、死神の
  鎌は彼らの首に掛かっている。あと一ミリメー
  トル、寸でのところでかわせたなら、それは奇
  跡として、とても良い事として扱われる。良か
  ったね、ごめんねと、親は子の無事を喜び抱き
  しめる。自分の不注意を後悔し、助けて下さっ
  た神に感謝し(どの神様に対してなんだろう)
  この子の魂は救われたと信じて疑わなくなる。
  行方不明だった子供が、七日目に発見されたと
  ニュースで知った。父親がカメラに向かって頭
  を下げていた。お騒がせして申し訳ありません
  でしたと、謝っていた。無事で良かったと、生
  きていてくれて本当に良かったと、泣いていた。

  生きること以上の苦しみなんて無いと思うけど。





  一


 ビルを出ると、力を削がれた冬の名残りが首筋を駆け抜けた。一瞬身震いをするものの、僅かに感じ取れる昼間の暖かさと、冬にはいなかった生温かい水の匂いが、既に支配的になり始めている春の気配を確実なものにしていく。まだダウンコートを羽織った人もいれば、少し寒そうにしているスプリングコートのOL。ゴアテックス製の黒いコートの下に、薄手のダウンを羽織っていた僕は、それでもまだ身震いをしてしまう程度に寒さに弱い。何とか首筋の空間を埋めようと、鞄の中からマフラーを取り出して、乱暴に首に巻き付けた。季節の移ろう瞬間を、僕はいつも見逃してしまう。何とか見極めようとしても、こうして変わってしまった後になってようやく気付くものだから、あんなに嫌いだった冬のつれなさにすら、何かとても大切な宝物を失くした時のような、空っぽな気持ちを抱いてしまう。きっとそんな移り気な態度だから、季節は僕なんかには目もくれず、ただ黙って過ぎていこうとするのだろう。
 妻からのメッセージを確認して、一つ小さな溜め息を吐いてみた。まだ薄ぼんやりとした白いもやが眼前を覆うのを確認すると、「帰ったら荷造りよろしく」の文字も一緒に滲んで、少し憂鬱さが和らいだ。

 二人で旅行に行くのは何年ぶりだろう。明日から、そう、どこに行くんだったっけ?四国方面だったのは覚えているが、あまり興味のない場所だったから、全く記憶にない。まだやらなければらない仕事も残っているし、何より僕は旅行が嫌いだ。出掛ける前の準備ほど面倒なものはないと思うし、興味のない場所なら尚更だ。躁状態のときの衝動的な提案には、なるべく慎重にと医者からも言われていた。でも、「ねぇ、旅行とか、どう?」と言われたとき、僕はそのまま、ほぼ無意識に頷いていた。
 そのまま妻の状態が快復すればいいだなんて、そんな希望的観測があったわけではない。ただ、いつものような跳ね上がった思い付きとは違って、少しぼんやりと、でも何か強い意志を伴って発せられたアイデアのように感じられ、このまま曖昧に返事をして機会を逃してしまったら、恐らく一生、彼女の空白は埋まらないままになってしまうのではないか。そう思ったのだ。
 そしてそれは、自分自身にも当てはまることのように思えた。この数ヶ月、妻の病気が発症してからというもの、初めてのことだらけで心身ともに休まる暇はなかった。周りの知り合いに精神を患った経験のある人など皆無だったし、そもそも妻がそういう状況になっていることを、他人に知られたくはなかった。結局わかったことといえば、インターネットの情報は当てにならないということだけだった。何を話しかけても反応しないとき、突然調子が良くなり、今までみたこともないくらいの活発さを見せるとき、その対策や適切な対応について記載されていても、必ずと言っていいほどそれに対する否定の意見がどこかに書かれている。その情報を打ち消す新たな情報を探しては、それをさらに否定され、その繰り返しだった。くだらないシーソーゲームによって、恐怖心を煽るだけ煽ってくるその各情報の元を辿ると、名前も顔も知らない、画面やケーブルの向こう側にいる誰かに行き当たる。それに気づいてから、振り回されるのが何だか馬鹿らしく思えてしまい、医者の言うことを素直に聞いて、彼女のそばからできる限り離れないで暮らすように心掛けることにした。それでも、仕事と両立させることには限界があったし、自分自身も妻の病状に飲み込まれてしまうような感覚に陥ってしまい、次回の診療時、一緒にカウンセリングを受けようかと考えてしまうほどだった。
 妻の提案は、だから、我々にとってとても有効なものに思えた。きっと彼女もどこかで現状の打破を望んでいるのだろう。そう思うと、理解出来ないことだらけだったこの数ヶ月の、彼女との間で深まり続けた溝が少し埋まったように感じられて、安堵した。二つ返事で旅行を快諾したのは、そんな気持ちからだった。

 深呼吸をして、返信を打とうとしたとき、電車は御茶ノ水駅に着いた。乗り換えるはずの電車が既に到着していて、いつもより多くの人がホームでスマホをいじっている。青白い光に照らされた表情は、皆一様に険しく苛立ちに満ちていた。

「只今新宿駅にて非常停止ボタンが押されたため、中央線快速電車はしばらくの間当駅にて停車いたします。運転再開見込みは」

 予感を確信へと変えるアナウンスに、またひとつ、僕は白い溜め息を吐いた。今度のそれは、深く、長かった。




2月13日

くっそ寒い。あたしの嫌いな季節。本格的に嫌いになってく月。二月。
何なの?どういうつもりでこの季節ってこういう気温なの?こういう空気なの?
ただでさえ古いアパートだから足先から冷えていくっていうのに、これじゃまるでシベリア収容所。捕虜の気分。
誰に捕らえられてるんだろうって考えると、嫌な奴の顔がものすごい勢いで脳内を駆け巡っていくから、もう考えないようにしよう。
日記書いたし、歯磨いて寝ようって思った矢先、嫌な奴、もとい母からのメール。
あの人はいつもそう。あたしが嫌がることしかしない。
何が「お誕生日、おめでとう」だよ。
めでたいもんか。勝手に産んだくせに。



(2)へ続く


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九話(最終回)

食費になります。うれぴい。