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【小説】黄金に凪ぐ(6)

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第一話とあらすじ





   六


 結局、朝早くから行動をするという予定は、妻の寝坊により全て白紙となった。宿泊客が少なかったお陰か、時間を過ぎてはいたが何とか朝食にはありつけたものの、その後部屋に戻ってから、妻はしばらくベッドにうつ伏せになったまま動かなかった。きっと自己嫌悪に陥っているのだろう。僕は特に声を掛けることなく、窓際の椅子に腰掛けて海を眺めながら、もしかしたら今日はこのまま一日終わるかもなと、ある程度覚悟をして気持ちを落ち着かせていた。東京にいる時の休日ではよくあることだったので、もう憤ったり呆れたりするようなことも無くなった。気分に左右され、振り回されて一番辛い思いをしているのは彼女自身だ。そこに追い討ちをかけるかのように、僕の感情をぶつけても仕方がない。揺らめく波に呼吸を合わせて、ゆっくりと瞼を閉じた。

「ごめんね…。」

 枕に埋もれてくぐもった声が後ろから聞こえた。席を立って、横たわる妻の傍に腰を下ろしそっと頭を撫でると、涙で濡れた目をこちらに向けてきた。

「予定、変更していい?」
「うん。大丈夫。…もうしてる。」

 僕の冗談にふふっと微笑んだ彼女の顔は、純粋無垢そのものだった。その表情は、僕の庇護欲を増大させながら、何度も出会いたいと思わせる。もしこの病が治ったら、二度と会えなくなるのだろうか。


 南寺と呼ばれるその黒々とした巨大な平屋の中は、自由に入ることが出来ない。数人のグループがRPGのパーティさながら、先頭を歩く案内の女性の後をゾロゾロと着いて行く。角を曲がるところで彼女が止まると、全員着いてきているかを確認し、また次のポイントまで歩いて行く。大の大人が大勢でスパイごっこをしているようで、ふふっと笑いが零れたりもしたが、徐々に暗さが増していく中で、自分の息が上がってきているのを感じて焦っていた。僕は暗いところが苦手だ。中に進むにつれ、明らかに歩幅が狭くなり始めているのがわかる。進みたくない。でも、他の観覧客が後ろからゾロゾロと続いているのを想像すると(すでに人影すらも肉眼では見えないくらいになっていた)、進まないわけにはいかなかった。

「壁に沿ってコの字型に椅子がありますので、なるべく奥まで進んで腰を下ろしてください。」

と案内の女性が言うと、後ろからピタッと着いてくる妻が、僕の服の裾をしきりにつんつんと引っ張るので、何?と聞くと、

「何でも。お散歩みたいで楽しくなっちゃっただけ。暗闇散歩。」

と呑気なことを言うものだから、完全な暗闇の中で冷や汗をかいていた僕は少し絆された。

 しばらくそのままでとの指示が出ると、何も見えない空間の中で、それぞれの小さな話し声がざわめきとなって空間に満ちていった。入る前に見た外観と反響音からして、比較的大きな空間のようだけど、一体このあと何が起こるのか、或いは何も起こらないのか。作品名やその他、特に情報を仕入れずに来てしまったものだから、全く想像が出来ず、ただひたすら座りながら次の出来事を待つしかなかった。

「ねぇ」
「何?」

 妻の返事はこちらに飛んで来なかった。きっと前を向いたまま答えたのだろう。

「これってこのあとどうなるの?」
「あとちょっとでわかることなのに、聞く必要ある?」

 不機嫌さはなかったものの、当たり前のことを聞かれて少し呆れたニュアンスの声に聞こえたので、その後は何も質問をしなかった。視覚が奪われた分、聴覚がいつも以上に鋭くなっているのだろうか。ちょっとした声のトーンで相手の顔や気分を過剰に想像してしまうようで、これ以上会話をするのが怖くなった。

 そもそも、僕はいつも話す相手の顔や仕草や声を気にしている。この話題は興味が無いんだなとか、ここがこの人の笑いのツボだとか、今少しイラッとしたなとか、他のこと考えてるなとか、相手から発信される色々な要素を僕の中で咀嚼して、次に話すことや僕自身の声色などを考え直す。だから、人と話をした後はどっと疲れるし、明らかに周囲が引いているのに、自分の話したいように話し続ける人を見ると、その場の空気が淀み始めるのがわかってハラハラしてしまう。何とか元に戻そうと、話題を変えたり、わざとらしくならないようにアクシデントを起こしてみたりする(酔ったフリをしてコップを倒すのが得意技だ)。話している本人からは睨まれたりもするが、僕にとってはそいつの心情よりも周りの空気の方が何倍も大切で、大多数の人間から好かれる方を毎回選ぶ。波風の立たぬように、元の空気に戻れるように自分がその場をコントロール出来たときなどは、心の底から安心する。同時に、自分が今ここで最も必要とされていた人間に思えて、何か一つ大きなプロジェクトを任されてそつなく完遂したような、軽い爽快感も伴う。きっと、無意識に芽生えている承認欲求の表れなのだろう。そう考えると、場の空気関係無しに自分の主張を貫こうとする彼らと、根本は同じなのかもしれない。ただ、僕のそれは秘密裏に行われる悦楽であって、彼らの押し付けがましい自分勝手な欲望の叶え方とは異なる。少なくとも、迷惑を掛けていないという点で、僕のやり方のほうが崇高だ。

…崇高?なんだ、それ。まるで相手を見下すような、自分が格上のような表現。今考えていたのは、僕か?僕なのか?僕が僕自身を崇高だなんだって、考えたのか?そんな思い上がった高慢な考えを、持っていたのか?

「え、なんか白くない?」

 数メートル先に座っている女性の声が耳に入ってきて、我に返った。もちろん未だ暗闇の中に身を置いているので、思考の渦の中と景色は大差なかったが、遠のく意識を少し引き戻すことが出来た。それでも、心臓はスピードを緩めることはなかった。

「ね、見える?ポヤァって、白いの。」

 妻が僕の腕をとんとんと肘で突くと、鼓動とシンクロして鼓膜を直接キックされているような衝撃を受けた。暗闇の中で顔中が火照っていくのを感じながら、この切迫した恐怖から何とか逃れようと、辺りに目を凝らした。注意深く首を左右に回すと、左側に映画のスクリーンのような長方形の白い物体がぼんやりと見えるような気がした。まるで亡霊のようなその朧気な光が、果たして本当にそこに実在するものなのか認識できなかった。周りが見えると言うから、自分も見えていることにしている、ある種幻覚のようなものなのかもしれない。その可能性は充分にある。僕がいつも気にして、何とか読もうとしている空気というものだって、そもそもそんなものは存在していなくて、ただ僕が勝手にあるものとして作り出してしまっているのかもしれない。気付かないうちに、僕はずっと、存在しないものを勝手に作り出してはそれに怯えて、振り回されている。皆があると言えばあると言い、無いと言えば無いと言う。だとすると、僕は一体、この目に何を映して生きているのだろう。

「ちょっと映画館のさ、感じしない?」
「え、あぁ、本当。スクリーンみたいなやつ、だよね?」
「うん。」

 妻の一言で、疑念が溶けていった。良かった、自分の見えていたものは確かに存在していた。しっかり自分で見ることが出来ている。おかしな幻覚に囚われているわけではなかった。大丈夫。僕は、大丈夫。
 見えるとか見えないとか、しばらくざわついていた薄闇の中で、先程の案内の女性の声がした。皆恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと光の方へと進んでいくと、スクリーンのような光に人の形の影がのそのそと蠢いて見えて、より光の存在を確かなものにした。

「実はこの見えている光は、皆さんがここに入ったときからずっと光っていました。とても仄かに光っているので、個人差はありますが、暗闇に目が慣れてくると見えるようになります。」

 女性が話している間にも、徐々に色々なものが見え始めていた。横を向くと、妻の横顔のラインが何となくわかるようになっていた。真っ直ぐに光を見つめているその姿は、一瞬今まで出会ったことのない女性のように見えて、僕は再び自分の見えているものの存在を疑わしく思ったが、声を掛けて確かめることはしなかった。

 入り組んだ道を歩いていくと、次第に辺りの物体が光を照り返し始めた。出口まで辿り着いた頃には、焼き尽くされてしまうのではないかと思うくらいの強烈な太陽光を浴びて、瞬間世界が白く蕩けた。

「眩しいっ!最早痛い。」

 両手で瞼を覆いながら、妻は少しふらついていた。駆け寄って腕を支えると、

「大丈夫、やめて。」

と少し強めの口調で返された。咄嗟に手を引っ込めて、僕はそのまま硬直した。僕が思いもよらない思考を目の当たりにして人知れず吃驚していたように、きっと彼女も、何かしらの思考を巡らせていたのだろう。無理矢理にその詳細を探ろうとすると、妻はまたどんどんと沈んでいってしまう。

 ふと後ろから笑い声が聞こえてきたので振り向くと、高校生くらいの男の子が四人、自転車を漕ぎながら笑い合っているのが目に映った。春めいた瀬戸内海の気候とはいえまだ少し肌寒いにも関わらず、皆半袖のTシャツ一枚という出で立ちで、周囲の目などまるで気にしていない様子だった。この距離では会話の内容は聞き取れなかったが、きっと彼ら自身も何がそんなに面白いのか分からないくらい、中身のない、しかし大切なやり取りをしているのだろう。行きの小型船に居合わせた高校生達と同様、彼らもまたそこに展開される光景の掛け替えの無さをこれっぽっちも理解しないまま、瞬間を閃光のごとく駆け抜けていた。その姿が、まるで宇宙の中を突き進んでいく星の光のように思えた。何万光年も先から届くはるか昔の光を、僕達は今この時点から見つめることしかできない。猛烈な速さで過ぎ去っていく光を、自分も昔、持っていたのだろうか。懐かしさと羨ましさと、色々な感情を綯い交ぜながら、まだ闇から覚め切れていない茫洋とした視界に広がるそれらの光は、強烈な輝きを僕に向けて放っていた。

 浮かない心持ちのまま、手に持っていたパンフレットに目を落とすと、「ジェームズ・タレル Backside of the Moon 1999年」と書いてあった。僕はまだ、裏側に隠された暗闇の中を彷徨っている。何が道標になるのかも、その一筋の光がいま目の前にあることも、知っている。

 荒天の予感に怯えながらも、何故かそこには安寧が待っているような気がして、次の目的地が何処なのかも知らぬまま、導かれるように妻の後を追った。





8月18日


かなり久しぶりにえりぽん先輩。夢だけど。
昔と変わらず、あたしに笑顔で話し掛けてきてくれた。なんて言われたのかはよく覚えてないけど、きっと今までだって会話の内容なんてどうでもよくて、あの人と話せることだけで嬉しくて嬉しくて。
えりぽん先輩、なんであたしなんかによくしてくれたんだろう。
嬉しいのに苦しいって、わかる?この気持ち、わかる?絶対自分のものにはなってくれないのに、そこを諦めないと関係を続けていけないってゆう、この虚しい気持ち、わかる?一年離れてたら、いつの間にか隣にはいつもあのボケっとした男が横にいて、でもそいつに向かって、あたしと話すときよりももっともっと可愛い笑顔見せてるえりぽん先輩を影から見つめる気持ち、わかる?惨めで惨めで悔しくて、でも誰にも言えないあたしの気持ち、わかる?
会いたいよ。

(7)へ続く


食費になります。うれぴい。