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【小説】黄金に凪ぐ(9)終

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第一話とあらすじ




   九


 夜明けとほぼ同時に目が覚めた。
 昨日は結局、多田と別れたあと二人でそのままホテルへと戻り、地下のラウンジで夕飯までの時間を潰した。お互い特に会話をするわけでもなく、珈琲を飲みながら風に揺れる不思議なオブジェをぼぅっと眺めて、僕は妻の言う多田の嘘っぽさについて考えていた。

 過去の多田を知らない妻が、現在の多田の取り繕った(ように僕には思えた)見た目や言動を感覚的に見抜いていたのだとしたら、当然僕の動揺についても見抜いていたのだろう。多田の嘘っぽさは、即ち僕と彼の関係性の歪さに繋がる。いじめっ子といじめられっ子だったり、親友だったのに絶交した過去があったり、様々な可能性が妻の中に渦巻いたのだとして、そのどれも勝手に想像してくれて構わなかった。ただ、真実には辿り着いていませんようにと、それだけを願った。友達ごっこの標的と、無意識の残酷な偽善者。その関係には、絶対に気付いてほしくなかった。気付かないのであれば、僕が多田に昔いじめられていたとか、そういった誤解を抱いてくれて結構だとさえ思った。多田をどう見たのか、どう感じたのか。嘘っぽいと感じたのはどんなところが?聞きたい気持ちよりも、恐怖の方が数倍も勝った。
 妻はそのまま何も言わず、僕に何も聞かず、夕飯の時間になると「そろそろ行く?」と聞いて席を立った。微笑みかけてくれることが、僕を余計に惨めにさせた。

 夕焼けを逆回転させているかのように、暗闇が色付き始める。何も乗り越えられていないはずなのに、また新しい一日にリセットされていくようで、昨日起きた色々が夢の中の出来事のように思えてきた。窓を細く開けて外の空気が部屋の中に糸のように入り込むと、そのまま僕の周りを取り囲み、透明な繭を作っていく。次第にそれは水のように潤いを持ち始め、いつものシャボン玉になった。大丈夫。僕は、今日も大丈夫。

「ちょっと寒いね。」

 ベッドの中でもぞもぞと動いている塊から声がした。そのままゆっくりとベッドに近付いていき、バッと掛け布団を剥いだ。きゃーっという叫びと同時にケラケラと笑い声が溢れ出る。横に寝転んで脇腹をくすぐると、更に笑い声は大きくなった。お互いにふざけ合って笑顔を重ねることが、ここからまた増えていくはずだ。そんな予感が頭を満たしていくのに、何故か喜びがひたひたのぬるま湯に溶け出ていく気がした。薄まった嬉しいという感情は、そこから波に乗って地平線を目指して流れて消えた。

「ごめん、起こしちゃった。」

 しばらくくすぐりあったあと、ボサボサになった妻の髪の毛を撫でながら、そっと抱きしめた。

「ううん、私、芳くん起きる前から起きてたよ。」
「え、そうなの?」

 なんか眠れなくてねと言う彼女の表情には、これからダウンサイドに向かう時の薄い影のようなものが見えていた。僕のせいだろうか。せっかく順調に進んでいるように思えていたのに、また振り出しに戻ってしまうのだろうか。だがもしそうなったら、また一から彼女を支えていけぱいい。やはりこんな旅行一つでは、そう簡単に心の状態は元に戻らないんだ。でも僕がしっかり傍にいてあげれば、それで二人のバランスが取れるなら、そうすればいいだけだ。また彼女の力になれるよう、彼女のことだけを思って行動しよう。この数日で少し弛み過ぎた自分自身を改めよう。そう思い始めると、ぬるま湯は足元から引いていき、もう一度自分のあらゆる感情が帰ってくるのを感じた。

「もう一回、寝る?」

 聞いた時には、既に妻はベッドから下りていた。

「ううん、いい。それよりちょっと外行かない?朝のお散歩、滅多に出来ないでしょ?今日帰っちゃうんだし。」

 こういう時はいつも、眠ることでしかリセットの方法が無かった妻からの意外な提案に、思わずまごついてしまった。気持ちを引きずったまま、眠る以外の行動を取ろうとする彼女は、やはり少しずつ快復の方向へと進んでいるのだと感じた。振り出しに戻ることなく、彼女は彼女らしさを取り戻し始めている。何気なく笑い合ったり、揺れ動く感情を上手くコントロールしながら、着実に日常の欠片を拾い集めている。その行き着く先に、また今までの穏やかな毎日が待っているはずだ。二人だけの静かで変わり映えの無い、待ち望んでいた日々がまた、戻ってくるはずだ。美しい予感がじわじわと湧き上がる。嬉しい、きっと。多分。恐らく。

「もう一回、寝ようよ。」

 感情と裏腹な言葉が小さく口を付き、再びぬるま湯が僕を飲み込んでそのまま左目から滴が零れ落ちた。
 妻に声は届かなかった。ゆっくりと体を起こし涙を拭くと、僕は着替えの支度を始めた。

 大気中のぬくもりは身を潜めたまま、放出する機会を伺っている。海風が吹く度に軽く身震いをしながら、前を歩く妻の後ろ姿を追っていた。腕を組み、少し首を竦めながら、一歩一歩前に蹴り上げるような動きでフラフラと歩いている。靴のつま先に付いていた細かな砂が一粒ずつパラパラと舞い上がり、少しゆっくりと地上に戻っていく。目を凝らすと、それぞれの色や形、大きさが異なっていて、じっと見つめているとそれぞれの主張がとても煩い気がして、自然と眉間に皺を寄せてしまった。僅かに残る妻の足跡をわざと避けながら歩いてみると、やじろべえのように上半身を左右に振られる。いつかどちらかに倒れるのなら、砂の上より海がいい。

「やっぱりちょっと、寒いね。」

 後ろを振り向かずに、妻が言った。僕は何も答えなかった。うん、海がいい。

「あ、何この石。」

 突然、妻が立ち止まりしゃがみ込んだ。後ろから覗いてみると、桜色をした小さな石を指で摘んでしげしげと眺めていた。そのまま妻の後ろに腰を下ろし、海の方を見た。遠くから聞こえるザザァという波の音は、すぐ足元ではちゃぷちゃぷと楽しげな音に変わっていた。あっちが海で、こっちは水なんだ。近付けば近付くほど、小さなもの達はその細部を明らかにしていく。木を隠すなら森の中、とはよく言ったもので、集合体の一部として紛れ込んだときの安堵感は、僕が一番好きな感覚だ。剥き出しの個性なんて必要ない。他人にも自分にも、振り回されるのではなく流れに沿いたい。やっぱり、海がいい。

「少しさ、お話してもいい?」

 妻はまだ石を見つめていた。丸まった背中と、肩に掛かる緩くうねった髪の毛を見つめながら、また僕は何も答えなかった。

「寒いねって言ったばっかだけど。」

 海の方へと体を向き直し、少し鼻に掛かった笑い声を混ぜながら妻は言った。

「冬の間の…多分、芳くんに一番迷惑掛けちゃってたときのお話。」
「うん。」

 僕は、海がいい。

「私が自分をコントロールできないときってね、九割の力が感情のほうに向かってるんだけど、一割だけ冷静でいられるところがあるの。その冷静な自分は、ただ暴走する残りの自分を見つめているだけで何もしてはくれなくて、手のつけようがない自分に対して、醜いなとか、そんなに怒ること?とか、ちょっと落ち着けばいいのにとか、そういう感想を独り言みたいにブツブツ言ってるの。その私に気づいてしまうとね、九割の感情的な私はもっとヒートアップしていっちゃう。お前なんで他人事なんだよ?!お前も私だろ!!わかったようなこと言ってんなら止めろよ!って、思っちゃうわけ。でもそんなの実際に目の前にいるわけじゃないから、言葉にしてぶつけることも出来なくて。芳くんを叩いたりしてしまうのはそういうこと。あ、別にだから許してねとか、そういうんじゃないから。」

 薄らと隆起する波の形を見つめていると、海面と大気との隙間がまるで無いことに気付く。水の中で動こうとすると、自分の皮膚にまとわりつく海水を感じることができるけど、普段の生活の中で大気の動きに意識を向けることはほとんどない。風が吹いたときや、素早く腕を動したときに「そういえば周りに空気があったんだ」と気付ける。ただじっとその場にいるだけで、ほんの少しの隙間すらもない、もっと言えば身体の中、肺の奥の奥まで空気で満たされて生きている。深呼吸をして、たっぷりと息を吸い込みながら、隙間なく鼻腔を塞いで気道を目一杯押し広げて肺の中に侵入してくる空気の塊を想像すると、地上にいるのに溺れているような気分になってくる。息苦しくて、今すぐに全て外に出してしまいたくなる。

「昔はもっと自分のこと、ちゃんとコントロールできてたような気がするの。昔、って言っても、もうものすごい昔。小学生とかそれくらい。あの頃ってまだ本当に子供で、人生経験なんて呼べるほどのものも何もない状態だったのに、何だか今よりもずっと大人びてて、てゆうか、大人に近づこうとしてたのかな。もっと相手の顔色とかちゃんと見れてたような気がする。あ、こういうこと言っちゃうと傷ついちゃうかなとか、先生は多分私にこうして欲しいんだろうなとか。学校って、周りに合わせないと生きていけないじゃない?私は特にこれといった主張なんていつも無かったし、皆が仲良くしてて、私もその中で楽しく笑ってられればそれで良かったから。なるべく空気読みながら、私の周りが平穏無事でいられるようにしてきたの。でも多分、その時から自分の中のフラストレーション?はあったんだと思う。自分の中の思いとか通したい気持ちとかが、段々と出てくるようになってきちゃって。そうやって、年取る毎にそれがどんどん出来なくなっていく感覚はあったんだけど、まだ他の人に比べたらきちんと抑制できてたと思う。それが一気に、なんか、こう…。あの子がね、死んだあとから一気に…。」

 空気に襲われて苦しんでいる僕は、妻の告白を半ば上の空で聞いていた。息がしっかりとできるように少しずつシャボン玉が膨らんでいくのを想像して、やっと僕の上半身を包み込むくらいの大きさになってきた頃、妻の言葉の端々がシャボン玉の壁を通り抜けて入ってきた。見えない空気というものを読みながら、調和を保つことだけを考えて生きてきた僕にとって、その告白は僕自身を守りぬくシャボン玉と共鳴し合って、難なく侵入をすることができた。彼女と少しずつ同化し始めている。僕は思わず靴を脱ぎ捨て、素足をゆっくりと海の中に入れてみた。熱を奪い去っていく海水に身震いをしながら、妻と僕と海とがじわじわと溶け合っていくのを感じた。

「あの子が死んだって聞いたとき、私ちょっとホッとしたの。どんなに頑張っても叶わないことがあるって、すごく辛いことでしょう?そのまま生きていくには、あの子は弱すぎたのよ。」

 風が吹くと、まだ少し肌寒い。しかし、頭上では燦々と降り注ぐ太陽が、僕らと世界を暖めながら、彼女の言葉にも光を落とし始めた。

「きっと救われたんじゃないかなって。いつも辛そうで苦しそうで、その原因は何なのかはその時分からなかったけど、私に懐いてくれていたから、少しでも楽しい世界を教えてあげられたらなって思ってた。沢山色んな話もしたし、飲みに行ったり遊びに行ったり、何かあると必ずってくらい誘ってたし、それにいつも着いてきてくれて、私ちょっとでも出来ること、あの子に対して出来ることしてるって思ってたの。でもなかなか淋しそうな顔が無くなることもなくって、やっぱり私じゃ無理なのかなって。だから、ホッとしたの。死んだって聞いて、ホッとしたの私。」

 気付くと海は凪いでいた。光を浴び続けて、その表面から少しずつ水蒸気が立ち昇っていく小さな音さえも聞こえそうなくらい、静かに、そこに佇んでいた。この海の中には、何兆億個体という生物が日々の生活を営んでいて、休まることのないその慌ただしさを思うと、この静寂は海にとってとても貴重な時間のように思えて、なるべく波を立てないように、ゆっくりと浸していた足を抜き取った。ひやりとした空気が濡れた肌を走り去った後、太陽は世界と一緒に僕の足も炙り始めた。

「そしたらね、あの子のお葬式のあと、多分一週間くらいあとかな、ノートが一冊届いたの。普通のやつね、あの、何だっけ、あ、大学ノートか。表紙に何にも書いてないし、何なんだろうって思って開いてみたら、日記だった。字を見てすぐあの子のだってわかったの、いつも右上がりのおかしな字だったから。死ぬ前の数ヶ月分くらいのものだったんだけど、会社でね、色々あったみたいで。あの子自身のことで周りから嫌なことされたりしたみたいで居づらくなって辞めたみたいなの。なんか、多分セクシャルなこと?あの日記だけだとよくわからないってゆうか、勝手に推測しちゃいけないような感じなのかなって。でもとにかく、あの子にとっては死活問題で、それを助けてくれるような人もいなかったみたいで。…あとはいつもみたいに、お母さんについて書かれていたりもして。最初は、あの子の恋愛観だとかそういうのに気持ちを着いていかせるのに必死で、読み進めていくにつれて、何であの子がこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだろうって、周りにいた人たちに対しての怒りとか、自分が救ってあげられなかった悔しさとか、本当色々な感情が湧き上がってたんだけど。最後の方のね、数週間くらいで私のことが書かれてて。…私に、会いたいって。会いたいって書いてあるのにね、恨むよって、一緒に書いてあった。」

 ちりちりと焼け焦げる音が足の皮膚から聞こえてきそうなくらい、朝日は力強くなっていた。生ぬるさが骨の辺りまで染み込んできた頃、僕はまた、今朝のぬるま湯を思い出して軽く身震いした。僕の感じる幸福と、今まで当たり前のように感じていた幸福が乖離し始めているような気がした。いつの間にかこの数ヶ月が日常に成り代わって、僕自身、元に戻ることを拒んでいる。考えてみると、妻と一緒にいる時間は以前よりも増えているし、僕の思考を彼女が占める割合は格段にその裾野を広げている。穏やかさのない瞬間ももちろんあるけれど、受け流す術を身に着け始めた今、それは大した問題には思えなかった。むしろ、この島に来てから感じる彼女の快復の兆しにこそ、圧倒的な逃れられない恐怖が潜んでいるように思えた。妻が変わっていくのと同様に、僕もそれに合わせて自らを変化させていったのだろう。或いは元々、こういう人間だったのかもしれない。周りとの調和を維持することに必死だったのも、多田と言葉を交わそうとしたのも、僕はずっと心の奥底で、誰かに必要とされたいと、誰かが自分を求めてくれるようにと強く強く願っていたからだ。昨日、南寺の暗闇で考えていたことは、まさしく僕そのものだった。人から認められて、求められて、自分の存在を確かなものにしたかった。あの時の多田と何も変わらない。僕もあいつも、他人からの承認だけを絶対視して、自分が何者なのかを決定付けようとしていた。ただそれだけだった。

 そして今、僕は妻の求め無しでは生きていけないほどにまでなっている。今更になってわかったことじゃない。気づかないふりをしていただけだ。

 僕は妻に、このままでいてほしい。

「私、すごい愚かな考えしてたんだなって。…ほんと、愚かって言い方がすっごくしっくりくる。救われたかなとか、楽しい世界を教えてあげられたらとか、お前何様のつもりだよ!って、ほんと、そんな感じ。あの子の苦しみなんて、私が想像できる範囲のものでは全然なかったし、そこに中途半端に手を出した私は、結果的にあの子の全部をむき出しにさせたまま、無責任に放置した。日記を読んで、あの子をどんどん飲み込んでいって、それが私の中で爆発しちゃったの。全部飛び散っちゃって、そのあと、私も空っぽになっちゃった。それでも、苦しい悲しい消えたいムカつく悔しい悲しい消えたいって、何度も何度も同じような感情が空っぽの私を通り抜けていくの。もう私は受け入れて抱きしめてあげることはできないのに、それが分かってないのよ、みんな。ずっとぐるぐる私のなかを通り抜けていくの。もうやめて!って叫んでも、気にしないようにしようとしても、みんな私の中に入り込もうと襲ってくる。このまま私、感情に襲われ続けながら、空っぽで生きていくことになるのかなって思ったら怖くなってきて、何でこんなこと最後の最期でやりやがったんだろうって、そこからはもう憎むことしかできなくて、でも憎み過ぎてどんどん自分が嫌な奴に思えてきて、もしかしたらあの子も内心私のことを嫌っていたのかもしれない、心の底から大嫌いで死んでほしいって思っていたから、こんなことしたのかなって。で、そう…気付いたら、家の鍵の開け方が分からなくなってたの。」

 上空をウミネコが一羽、右往左往しながらおかしな軌道を描いて飛び続けていた。悠々と見えるその動きは、きっと間近で見たら想像を超えた速さなのだろう。距離が遠い物体ほど遅く見えるし、近いものほど素早く見える。一番近くにいたはずの妻の変化が、僕には見えていなかったのかもしれない。或いはもっと近い、僕自身の変化については更に見落としているのかもしれない。

「ただ挿して回すだけなのに、どうしてもね、できなかったの。直前まではわかってるの、どうやって開けるのかもどの鍵を使うのかも。でも、いざドアの前に立つとね、駄目なの。このドアはどうしたら開くのかな?って考えてると、そもそもこのドアはどこに通じるドアなの?とか、この中に入って私、何をするつもりなの?とかどんどん考えちゃって。…そのうち思い出すの。あぁ、このドアの向こうには私の日常が待ってるんだ、そこに…あの子も。あの子のあのノートも、あるんだ、って。そうすると、もう鍵の開け方なんて思い出すつもりもなくなって、絶対この家に独りで入っちゃ駄目だってゆう気持ちだけが一杯になって。…だからね、芳くんを待ってたの。来てくれるの、待ってたの。」

 妻の言う「芳くん」が、僕は好きだ。彼女だけが使う僕の愛称が鼓膜を震わせるとき、目に見える色とりどりの映像がより鮮明になって僕に覆い被さってくる。世界のパレットの一部になった僕は、自分が何色なのかは分からないまま、しかし確実にそこにいることだけは実感できて、心底安心した。それは存在の再確認というよりも、新たな自分の創造に近かった。

 多田や、もしかすると佐竹も、この感覚と一緒のものを持っていたわけではないように思う。あいつらは自分自身を認めてくれる誰かを欲していた。自分という存在を細かく噛み砕いて、欠片の一つひとつに好き嫌いをつけながらも、その全てを否定せずに受け入れてくれる誰かを求めていたんじゃないかと思う。彼らの中にある【本当の私】を。

 ふっと、意地の悪い笑みが零れる。二人とも馬鹿だ。本当の私なんているわけないのに。むしろ、何かを取り繕ったり、外界から見られている自分だって【私自身】だ。全てが【本当の私】の一部に過ぎない。それに気付かずに他人に責任の所在を押し付けて、いるはずのない自分探しに必死になっている。周囲の人間にとっては、はた迷惑な話だ。だから僕は、自分を再構築する。周りの空気に馴染んでいく自分を、その場その場で作り上げては壊しての繰り返しだ。そして、もうそのトリガーは彼女の言葉以外には有り得なくなった。芳くん、芳くんと、彼女が僕を呼ぶたびに、僕は世界の一部になれる。そしてその世界は、彼女の世界そのものでもあった。僕だけがそこに触れられる独占的な感覚に酔いしれて、僕は僕自身を亡くしてしまっているのかもしれない。しかし、それでいい。それこそが僕の存在を確かなものにしてくれるのだ。僕の中にいる僕を押し殺すことで、僕という人間は成立するのだ。だから、もっと求めてほしかった。このままずっと、求め続けてくれればそれでよかった。

「芳くんはさ、優しいから、きっと本当に本当に沢山我慢してくれてたと思う。頼り過ぎちゃいけないよな、甘え過ぎてそのうち愛想尽かされるんじゃないかなって、いつも考えてた。でもなかなか私、一人でどうにかすることできなくて。一度だけ、芳くんすごく怒ったときあったでしょ?まだ私がちゃんと病院行く前くらい。あの時ね、心底思ったの。私は本当にこのままだと独りになっちゃうって。それで、きっとこれはあの子の呪いだって。あの子が私から芳くんを引き離す為にかけた呪いだって、思ったの。それが何だか許せなかったし、私のせいで芳くんが辛い思いをするのも嫌だった。だからどうにかして、私は私を元に戻さないといけなかったの。」

 海水でべたついた足を何となくさすりながら、僕は妻の言葉がシャボン玉の中に入ることができなくなっていることに気付いた。僕がいつ辛い思いをしたのだろう。頼り過ぎだなんてことはないし、彼女に愛想を尽かすなんてことは一生ないと断言できる。むしろ僕は、もっと望んでいる。お互いに忘れてしまった色々を抹消して、今はただ、僕を見つめて求めてくれれば、それでいい。後ろを振り向いて、僕の方へと歩み寄ってくれれば、それでいい。前に進んでいく後ろ姿なんて、見たくない。

「随分時間掛かっちゃってるんだけどね。本当、…ごめん、ね。芳くんはどんどん私に優しくなっていくし、その度に甘えそうになっちゃうんだけど、それじゃ意味ないから。自分を変えていかないと、何も意味ないから。何とかしようしようって、焦ってばっかで余計に八つ当たりが酷くなったりもしちゃって、薬も飲み忘れて振り出しに戻っちゃったりとか、そのせいで私本当駄目な人間なんだなぁって落ち込んだり。振り回されてる周りの人達のこと、何も考えられないくらい自分で精一杯で、そんな自分に更に自己嫌悪感じて。」

 その辛い記憶を中和するのは、彼女自身ではない。僕だ。僕しかいない。自分でどうにかなんてする必要はない。僕がいる。僕の存在は、その為のものなのだから。一人でどうにかしようとなんて、しないでほしい。

 言いたいことは溢れてくるのに、喉が首筋に貼り付いてしまったかのように、声帯はビクとも震えなかった。

「でもね、この何ヶ月か調子が良いの。ちょっとね、安定してるの。…実は薬ね、ほとんど飲んでないの。また戻っちゃうんじゃないかって不安にもなったんだけど、何か飲まなくても大丈夫な気がして。そしたらね、本当に波が小さいの。薬が効いてるときみたいな、平坦で、生きてるんだか死んでるんだかわからないようなフラットな状態じゃなくて、波はあるけど激しくないの。それが段々普通になってきてね。多分芳くんも、ちょっと感じてたんじゃないかなって思うんだけど…。どう、かな?」

 妻の言葉に、頷くことしか出来なかった。確かに、以前に比べたら、彼女の言動に激情を感じることは少なくなっていた。そしてそのことに、喜びよりも焦りを感じることのほうが多かった。ここに来てからは、それが顕著に現れ始めているし、僕はもう自分の気持ちを隠すつもりもなかった。僕は妻の現状を、快復していくことへの恐怖を感じている。そこに僕自身を見つけられないからだ。

「よかった…。少しずつね、できることが多くなっていってるの。ベランダにずっと出たままで枯れちゃったパキラとか、せっかく植えたのに水あげなくなっちゃった朝顔とか、見るとね、ちゃんと可哀想って思えるようになったし、私自身を責め立てる道具にはならなくなってきたの。部屋の片付けも、随分長いこと芳くんに任せたまんまだったけど、一日ひとつ、何か元の場所に戻そうって、それができたらよしって自分に言ってあげるようにしたりして。先生のアドバイスなんていつも上の空で聞いてたけど、私を元に戻すためにやらなきゃいけないこと、沢山教えてくれてたんだなって、やっと気づいたの。」

 妻が話を進めるごとに、声のトーンが上がっていくのがわかった。それは興奮とも違った、心の底から喜びに弾んでいる音の塊だった。僕の支え無しに、一人立ち上がろうとしている彼女の姿は、皮膚の奥底に潜む禁秘の部分すら透かそうとするほど、柔らかく力強い黄金色の朝日に照らされて輝いていた。同時に、僕の存在は次第に世界のパレットから垂れ落ちて、色を無くしながらその影をより濃く落とし始めていた。

「そしたらね、まだ早すぎるかなって思ったんだけど、どこか遠くに行ってみたくなって。どこが一番いいのかなって考えてたら、急にあの子の日記をもう一度開いてみようって気になったの。自殺行為みたいなものでしょ?私にしたら。でも、何かもう大丈夫だなって思えて、ちょっと開いてみたの。そしたらね、ちょうどここのことが書いてあるページだったの。タレルの、あの空が開いてるやつのことが書いてあった。多分あそこに書かれてたのは、私のことだったのかなって、すごく冷静に考えられたりして。全然襲われることもなかったの。それでちょっと安心して、そしたら、今私がこれを見たらどんな色に見えるのかなって、実際に行ってみたくなったの。」

 遠かった。妻の姿は、最早僕の目の前には存在していなかった。既にここに来るまでに、彼女の中に大きな変化が起こっていたと知って愕然とした。いや、その変化に対して、僕自身が反比例の姿勢を強めていったに過ぎないのかもしれない。そうなると、【普通】じゃなくなっているのは、僕と彼女のどちらなのだろう。

 何度も何度もシャボン玉を大きくしようと頑張ってみても、彼女の言葉が次々にぶつかって、その膜を破いていった。やめてくれ。お願いだから、壊さないで。

「部屋に入った瞬間、私あんなに優しい青空って見たことなくてびっくりした。芳くんも見たでしょ?透明な水色だったよね。私、あの空が見ている間にも少しずつ表情を変えてくのが面白くて。あの子は少し悲観的ってゆうか、本人的にはポジティブだったのかもしれないけど、ちょっと感傷的なこと書いてたのね。私にもそういうふうに見えちゃったらどうしようて、ちょっと不安だったの。でも違った。私には確かに、水色に見えたの。ちゃんと色があって、私はそれを誰かにしっかりと伝えられるって思えたの。見えるものや聞こえるもの全部、共有して喜んで分かち合えるんだって。今まではそれが芳くん一人に行っちゃって、負担になっちゃってた部分もあったと思うんだけど…。私この先、誰か一人に頼りっきりで生きていくような、弱い人間のままではいたくなかったの。もっと強くなって、今まで芳くんにもたれかかってた分も、誰かを支えられるくらいの強さに変えていきたいの。今ね、私それ、できる気がしてるの。強くならなきゃいけないんじゃくて、強くなりたいの。守れるようになりたいの。それは芳くんのことももちろんなんだけど。あの、もっと別の。その…。」

 何となく分かっていた。気付かない振りをしていたのは、何も自分についてのことだけじゃない。このところの彼女の気持ちの変化の中には、僕以外の気配があった。僕だけが彼女に影響できるはずだったのに、二人の不可侵な聖域に堂々と割り込めるほどの大きな存在が、そこにはあった。


 彼女が快方に向かう理由は、僕であってほしかった。僕が彼女を救うという構図は、崩れてはいけなかった。そうやって少しずつ、池の奥底、ひやりと佇む泥の中へと彼女を引きずり込んでいたのは、紛れもなく僕自身だったのだ。


 そしてそこから、彼女は引き上げられようとしている。僕以外の大きな、僕と彼女の間にいる、大きな。



「子供、できたの。」



 妻はすでに泣いていた。まるで自分が子供のように、これから母親になっていく自分への戸惑いと、それでも前に進むしかない現状を恨むように、喜ぶように、泣いていた。その顔が、僕の見たことのない表情で、困ったような、無垢で健気で、感情がふつふつと奥から湧き上がってくるような、野性的で原始的な、美しい女性本来の姿をしていた。

 僕の愛した人は、こんなにも強かっただろうか。もっと脆く、僕の支えなしではその姿を保てないくらい、弱く可憐で、刹那的な少女性を持った人ではなかっただろうか。

 しかし今、目の前の女性は、とても涼やかな眼をしている。戸惑いの中でも光を見失わず、僕の先、もっとずっと先にある未来を見据えて泣いている。彼女と正面から向かい合ったのはいつぶりだろう。思い出せないほど、僕らはお互いの存在を認めようとしていなかったのかもしれない。

 一つの記号の中に、膨大な意味を内包するその姿が、その表情が、僕の中の全てを揺さぶって、ほぼ無意識に涙を流しながら、その体をきつく抱きしめていた。新しく膨らみ始めていたシャボン玉は、跡形もなく弾け飛んで消えてしまった。愛おしさと、僕だけが置いてきぼりを食らってしまう恐怖心とで、僕の脳は溶け出しそうだった。

「あなたと、私の。子供。」

 震える声でそう呟いたあと、僕の髪に優しく滑らせるその手からは、最早今までの彼女の面影は感じられなかった。それはもう、母性という名の大きな膜の中から取り出した愛情のひとつに過ぎず、決して僕だけに向けられたものではなかった。密かに願い続けていた、何の変哲もない、穏やかで静謐な二人の日常。二人だけの日常。それはもう、願ったその瞬間から永遠に叶わないものだったことを、その現実を、容赦なく目の前に突き付けられた。

 溶け出した脳は熱さを増して、身体中を駆け巡る。圧倒的な孤独と恐怖を、指先まで到達した思考の潮の疼きによって、これでもかという程に思い知っていく。行かないで。傍に居て。僕のことだけを見ていて。僕をちゃんと愛し続けて。こんなにもこんなにも、求めているのだから。あんなにもあんなにも、求めてきてくれたのだから。行かないで。行かないで。置いて、行かないで。

 情けないくらい何度も心で叫びながら、まだ見ぬ新しい生命とその母体が、自分と溶け合って消えてなくなるように、何度も何度も祈りながら、力の限り抱き締め続けた。

 海は凪を崩さず、僕らを他人事のように見つめていた。


                          (了)


食費になります。うれぴい。