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【小説】黄金に凪ぐ(5)

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第一話とあらすじ



   五

 初めて妻の異変に気付いたのは、終電帰宅連続六日目の深夜だった。
 さすがに明日は早めに帰りたい。定時とまではいかなくても、‪二時間、いや‪一時間、三十分でもいい。一本前の電車でもいいから、今日より早く家に帰りたい。そう思いながら、エレベーターの中の鏡に映る草臥れた自分の姿を見ていたとき、妻から電話が掛かってきた。

「もしもし。なに?もう着くよ。」
「ねぇ、家開けられる?」
「は?え、なに?…あぁ、鍵無くした?あるよ大丈夫。」
「…」
「もう着くよ、九階。」

 そのまま電話を切り、エレベーターの扉が開いたとき、つい今しがた交わした会話の得体の知れない気味の悪さに、全身を硬直させた。妻は残業など滅多にしない。‪十九時頃には家に帰ってきているはずだ。今は何時だ?もうそろそろ‪二時になるぞ?その間僕に連絡をすることもなく、妻は一体、何をしていたのだろう?
 エレベーターを降りて共用廊下を歩いていくと、自宅の前に妻が立っているのが見えた。携帯電話を握りしめ、鍵穴をじっと見つめていた。少し震えているようにも見えたが、それが寒さのせいなのか、それ以外の理由からくるものなのかは分からなかった。

「おい、どうしたんだよ?鍵は?失くしたの?」

 声を掛けると、しばらく僕の顔を見つめた後、はっきりとした口調で「開けられないの」と一言、それっきり俯いたままとなってしまった。
 こんな時間まで一体何してたの?と問い掛けようとして、足元に無造作に置かれているスーパーの買い物袋や、彼女の紫に変色した唇や、ケータイを握りしめる真っ白な手を見て、何してたの?という問い掛けが間違いだということに気付き、何も追求することなく、芯を抜かれたように足取りが覚束ない妻の手を引っ張り、一緒に家の中に入った。

 彼女は‪七時間、何もしていなかったのだ。


 その日から病院に行って診察を受けるまでに、一ヶ月以上掛かった。もっと早く提案をすれば良かったのかもしれないが、彼女自身が自分の変化に困惑している中で「それは病気なんじゃない?」と言ってしまうと、彼女の自尊心を傷付けてしまいそうな気もしたし、僕がそこまで大袈裟に事を荒立てるのもどうなのだろう、病院に行きたいとなれば彼女は自分から言ってくるだろうとも思った。だからその日も、お風呂上がりの彼女に、明日は会社は休んだほうがいいんじゃないかなとだけ言ってみたものの、彼女はそれを拒否して、次の日もいつも通り七時には家を出ていった。しかしそこから、毎晩家の鍵が開けられず、僕が帰宅するまでの間は、近くのファミレスで時間を潰す日々が続いた。それ以外のことに関しては、家事や身支度など卒無くこなしていたし、会社でもこれといって出来ないことは増えていない様子だった。ただ家の鍵だけが開けられない。何度も開け方を教えて、実際に見せてみたり、手を添えて鍵を持たせて一緒に開けてみたりもしたが、一人で開けることだけができなかった。始めはその変化に戸惑いながらも、一緒に家に入る度、苦しそうに申し訳なさそうに俯いている彼女が不憫で仕方なかったし、それ以外に取り立てて変わったところがなかったので、一時的なものだろうと思いながら接していた。

 しかし、二週間経った頃、僕はつい妻に対して苛立ちを露わにしてしまった。いつもなら新宿駅で降りる初老の男性が、その日は新宿に着いても席を立つ気配もなく、そのまま僕の降りる駅まで座り続けていた。なんだこいつ、いつもなら降りるのに、寝てるわけでもないしと、訝しげに見つめていると、

「おい、何見てんだよ兄ちゃん。」

と、思ったよりも重低音でこちらを見上げながら男性は言った。まさか声を掛けられると思っていなかったものだから、僕は思わず怯んだ。小さな声ですみませんとだけ言い、そのまま真っ直ぐ窓に映る自分の姿を見つめた。隣に立つ女性が、こちらをちらりと見た。後ろに立っている学生二人組が振り返って、ニヤついた顔で何かを喋っている。静寂の車内で注目を一身に集め、顔中が紅潮していった。暗闇に映る不明瞭な色彩の窓の中でも、その色ははっきりとわかってしまい、僕は自分自身を見つめることすらも恥ずかしくなってしまい強く目を閉じた。いつもなら妻に、何時着の電車に乗ったのかメッセージを送るのだが、最早スマホを見ることすら適わず、そのまま最寄り駅まで視界を切ったままでいた。

 駅に着くと、そのまま妻のいるファミレスまで歩いていった。その間も、まだ男の声が脳内に響いたままだったので、ヘッドホンを装着し椎名林檎の「弁解ドビュッシー」を選択すると、その声をかき消すかのように音量を上げた。必要以上に歪ませたギターの音と、歌詞の判別しづらい彼女の歌声が、雑音と混ざり合って僕の中を満たしていった。少しずつ苛立ちが無くなりかけたとき、ファミレスの店内でオムライスを食べながらスマホを眺める妻の姿が目に入った。今耳元で鳴り響いている轟音が、一瞬のうちに消えて無くなり、再び男の声が頭の中を支配した。

「おい、何見てんだよ兄ちゃん。」

 僕は再び赤くなった。しかし今度は、羞恥の気持ちからではなかった。
 外で立ち尽くす僕に気付くと、妻は一瞬驚いた表情を見せたあと、微笑んでこちらに手を振った。ちょうどオムライスを食べ終わったところで、コートを着て鞄を持つと、会計を済ませて外に出てきた。

「連絡なかったから、びっくりした。いきなり立ってるんだもん。ごめんね、寄ってくれて。」

 突然のことに嬉しそうな彼女の顔を見ていると、僕の怒りは益々強くなっていった。

「昨日より寒くない?帰ったら暖房入れなくちゃ。」

 ぐうぅと、胃の中で空腹の合図が鳴った。なんで、こんな。

「…?どうしたの?ねぇ…。『よしあき』?」

 歩き始めない僕に向かって、妻は不思議そうに名前を呼んだ。その瞬間、耳の中がとてつもない力に圧迫された。

 なんで、どうして、僕がこんな目に。


僕を見るな。僕の、名前を、呼ぶ、な。


「鍵くらい、自分、で開けろよ。なんで、出来ない、んだよ。」

 怒りで声が震えて、思うように喋れない。一言発する毎に、血管の中を熱いものが急激に駆け抜けていくのを感じた。夜の闇が逃げていくように、視界が白んでいき、妻の姿がぼやけ始めた。

「教っ、えたじゃん。挿して、回すだ、けだろ。何?甘えてん、の?なんで普通に、飯食ってんの?その時間、何?俺今日、今日は…。俺。」

 今日は、何なんだ?自分は一体、何が言いたいんだ?どうしてこんなにイライラするんだろう。何故怒っているんだろう。誰に?何を?

「大体さ、何なの?鍵、開けられない、って。他は全部、普通じゃん。全部今まで通り、やってんじゃん。」

 少しずつ舌が動き出すと、次々と言葉も浮かび始めた。耳元のヘッドホンは未だ轟音をかき鳴らし続けていて、それよりも大きな声を出すことに必死だった。

「大丈夫かな?って最初は心配したけど、さすがに俺もずっと優しくはできないよ。イライラだってする。今日だって色々...あって。もちろん全部が全部絵里のせいじゃないけど。つーかさ、なんで鍵開けらんないの?意味わかんねぇよ。」

 自分が何を言っているのか、何を言いたいのか、実際にどれくらいの声の大きさで喚いているのかさえも分からないまま、口が動くのに任せて捲し立てた。妻のことも、鍵のことも、電車の男性も、僕を覗き見る周りの人達も、最早全てがどうでも良くて、ただ大きな声で押し寄せる自分の感情を吐き出すことだけを考えていた。
 気付くと、妻は僕に抱き着いていた。胸の辺りに顔を埋めて、首を小刻みに横に振っていた。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」

 それまで身体中を駆け巡っていた熱いもの達が、汗となってどっと吹き出し、僕を更に不快な気持ちにさせた。同時に、妻に八つ当たりをしてしまったことへの罪悪感が猛烈な勢いで襲い掛かり、それ事振り払うように反射的に妻の肩を突き放した。

「あ、ごめっ…。」

 まるで自分の意思ではないような自然な行動に、自分自身で吃驚してしまった。よろけた妻は何とか体勢を整えると、僕とは目も合わせずにそのまま踵を返してマンションに向けてつかつかと歩き出した。
 感情を抑えられなかった自分に失望しつつ、知らぬ間に溜め込んでいたものが放出されたことに不謹慎な爽快感を得て、僕は妙な気持ちのまま妻の後を追った。ヘッドホンから流れるけたたましい音楽に気付くと、途端に耳が痛く感じて慌てて停止した。

 帰宅後、病院に行ってみようと提案してきたのは、妻の方からだった。




6月18日


仕事探せって、軽く言うなよくそババア。
もうあの人はあたしに関わらないでほしい。
またバレたらと思うと、新しい職場なんて探せない。



8月7日


コップに牛乳を入れて、飲む。
飲み干したあと、もう少し飲みたいなって思って、また注ぐ。
ちらっと視界に入る水槽の中はコケだらけで、あんなに好きだった魚達の姿は朧気にしか見えない。
もしこの牛乳を中に注いだら、あの子達はどうなってしまうんだろう。
一滴だけなら、まだ大丈夫だよね。
明日はもう一滴。


(6)へ続く


食費になります。うれぴい。