共通恩恵が日本宣教において持つ価値

東京基督教大学大学院での「日本の諸宗教とキリスト教」という授業の中で出てきた質問に対して、私が提示した論点です

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本日の休憩時間に出た、「共通恩恵」は、救いを中心に据えてきた方々にとって、すんなりと受け入れることが可能な概念だろうか、という質問に関して、以下、私の提示できる論点をお出しいたします。
「共通恩恵に基づくノンクリスチャンとの関わりと言ったって、まずは魂の救いだ!と言われてしまう」という議論は、私が現在行っている研究会でも出ました。

3つの論点から、「共通恩恵」を考えると、「まずは魂の救い?」という問いに対して、どう考えるかが見えてくると思っています。

何故この概念が必要とされたのか、
どのような根拠をもつ概念なのか、
日本宣教においてどのような意味を持つのか。

1) 共通恩恵という概念が生まれた背景


(ア) 何故、この概念が提示されたのか?

この概念は、19世紀後半のオランダでカイパーによって、提唱をされた、言葉としては新しい概念です。オランダ改革派。
以下、ヨーロッパにおいて
①       宗教改革以前は、「領主権・王権」を上回る教皇権(政治的権力はともかく、概念としては)が存在し、教会は、領邦よりも範囲の広い存在でした。
②       宗教改革を通じて、カトリックの存在が揺らぎ、ウェストファリア条約によって近代国家という概念が成立し(無茶苦茶に重要だけど、何故、TCUの授業では誰も触れない?)国家=国教会という概念に整理をし直されました。
③       しかし、その体制から300年経過し、近代科学の勃興、啓蒙主義の進展により、「教会に主体的にいかない人々」が生まれ、教会は国家よりも小さな存在となっていきました。また、アジアとの接触頻度が上がるに伴い、新たな非キリスト教国をどう捉えるのか、という論点も生まれました。
④       この状況において、キリスト教徒であるとは、どういったことなのか?今(その時に)起きていることは、キリスト教の考えから、どう捉えるべきものなのか?ノンクリスチャンとは、どのように対話をすればいいのか、という問いを考えなければいけない状況になりました。これが国家と教会がずれた時、と本日、私が述べた事柄になります。
⑤       それに対して、カイパーが唱えたのが、共通恩恵という概念です。
⑥       従って、当初からクリスチャンが、ノンクリスチャンおよび従来のキリスト教概念からははみ出てしまう事象(近代科学、資本主義、啓蒙思想)に対して、どのような対話を行うことが出来るのか、という概念です。

まとめると、キリスト教徒の世界の中だけでは、必ずしも共通恩恵までを深く考えなくても、コミュニケーションが出来たが、ノンクリスチャンに対してのコミュニケーションを考えた時に、必要とされた理解です。


2) 共通恩恵は、神学上は、どのように位置づけられる概念なのか?

(ア)共通恩恵は摂理論の一部


一方で、共通恩恵は、創世記にその殆どの基盤を置く概念です。救済論に関わる概念ではなく、摂理論(世界の創造)に基盤を置く概念です。
創造、摂理、永遠の命を含む聖定論の中でも、摂理に焦点を当てた概念です。
①       従って、本日の授業で出たヘブライ的な概念、イエス様というよりも神に関わる概念、という理解です。
②       原罪・堕落に伴うものとして神が摂理された恩恵である、という概念です。

(イ)カトリックとの対比


この摂理論の一部である、という理解は、カトリックの概念と比較をすると、理解しやすいです。Common Good 対 Common Grace

①       カトリックは、一見、同じように見える概念を「共通善Common Good」と表現します。この共通善という概念は、カトリックらしく、ギリシアに、その根っこを持つ概念です。政治社会全体に共通する「善」をさします。この「善」は共通利益とも表現されます(ここで述べる利益は、商売上の儲けじゃありません、政治社会哲学上の「利益」です)。従って、クリスチャン・ノンクリスチャン関係なく理解が出来るものになります。

②       一方で、共通恩恵Common Graceは、摂理論に基づく概念です。つまり、神から、此の世を支配する(これも最近、支配の意味が理解が変わりましたね、環境問題へのアプローチなどを通じて)、祭司となる民、として選ばれた者が理解を出来る恩恵です。実は、決して、クリスチャン・ノンクリスチャンに等しい恩恵ではないです。キリスト教の世界観・倫理観における「善」なのです。つまり、一般啓示と特別恩恵は、全く異なるものです。
③       従って、共通恩恵に基づく対話とは、キリスト教の世界観・倫理観・思想を根底に置きながら、取捨選択して対話を行っていくといいう事になります。
 1.        ここで、宗教多元主義・宗教包括主義・宗教排他主義の議論が絡みます。長くなるので割愛をしますが、当該論点において、カトリックと改革派の立場が全くことなるものになる理論的根拠の一つに共通善と共通恩恵という考え方の違いからも導き出せます。
 2.        また、近代科学・資本主義に対して、カトリックの新トマス主義的な「我は○○を認める、××は言うなよ」(ビックバン宇宙論に絡んでホーキング博士に法皇が言った言葉が有名ですね)という表明ではなく、キリスト教の価値観・世界観・倫理観から、○○は××である、という事を言える。

(ウ)救済論とは独立して議論できる論点である


摂理論に関わる概念ですので、救済論を優先すべきではないかとならずに、その前段階として議論が出来る位置づけです。


3) 日本宣教において、どのような意味を持つのか?

 二つの論点を提示します。
①       現在の日本宣教は失敗をしている
②       日本社会は、セキュラー(世俗)の時代を終えつつあり、ポストセキュラー(世俗化後)に移行した

(ア) 現在の日本宣教は失敗をしている


①       恐らく、福音主義の教会教職・教団教派の方々が、表立っては認めない事だと理解をしています。

②       でも、日本宣教は、現状においては失敗なのです。
  洗礼を受けた人のうち、どれだけが教会に通い続けているのでしょうか?三分の一でしょうか?
今の延長線上で、教会に通う人の数はどうなるのでしょうか?福音派も減ります。今、私は数字でのシュミレーションをやろうとしています。
 社会の中で、キリスト教とは、福音とは、という事に対する理解はどの程度、存在しているでしょうか?

③       では、何故、失敗したのか、何を変えなければいけないのか、の議論が必要です。我々は、福音の多様な側面を、本当に伝えきっていたのでしょうか?この時に海外の成功事例に学ぶだけでは不十分です。おかれている状況が全く異なる、という理解から始めなくてはいけません。
 (ア) 解放の神学→フェミニズム神学→下からの神学(韓国)といった一連の神学は、一定以上の存在感を持ったキリスト教集団が、社会の中で、まとまり、自分達の考え方を表明ていく手法としては有効でした。
 (イ) 存在感をもった塊が、戦い、勝ち取っていく、というあり方です。
しかし、日本のキリスト教は、そんな大きな塊ではありません。小さな小さな存在です。
 (ア) 従って戦って勝ち取っていくというだけの力がありません。
 (イ) まず最初に必要なのは、自分達の事を理解してもらう(それは福音を伝えるということなのです)、自分達の姿を見せる、ということです。
 (ウ) ここで、対話の基盤としての共通恩恵が意味を持ちます。

(イ) 日本社会は、ポストセキュラーに移行した


①       戦後、「宗教」というのは各個人の私事である、という理解で日本が進んでいしまったのは、戦前からの残滓である。これは、信仰の自由が保障されているもと、各人がそれぞれの信じるところに基づいて選んでよい、という事でした。
 でも、同時に見落としてはいけないことがあります。この講座の前半で書籍を読みながら浮き彫りにされてきた事を思い出しましょう。神道は宗教ではない、という明治から第二次世界大戦までの社会政策の元、道徳・倫理・価値観は国家神道あるいは国体、宗教は個人の問題とされました。実は、その区分は、戦後も残っているのです。むしろ国体という概念が何となく霧消したことで、日本は道徳や倫理が無いと言われるまま、宗教は私事というのだけが残ったのです。
 宗教は、信仰は決して私事ではありません。福音書、使徒行伝、パウロ書簡を、一つずつ振り返るまでもなく、信仰共同体、そしてそこから生まれる価値観・倫理観というのは信仰に付随をするものです。聖書は、各個人の内面の話に尽きる、なんて聖書には書いていないというのが私の理解です。
本来は、日本におけるキリスト教は、その共同体としての在り方も提示をすべきでした。ただ、戦前からの共同体の価値観・道徳・倫理は国体、宗教は私事という区分に、日本のキリスト教の大勢は、屈服をし続けただけです。

②       この宗教は私事という風潮をさらに助長したのが、ポストモダンの考え方でした。
 様々な価値観を相対化しないと知的に誠実ではない。各個人をありのまま認めよう。
 社会全体に通底する大きな物語というのは虚構でしかない。

③       しかし、ポストセキュラーに移行することで、日本社会も変わりました。
  ポストセキュラー(世俗化後)は、ムスリムのヨーロッパにおける存在感の上昇(2015年シャルリー・エブドを頂点)、アメリカにおける福音主義の政治的伸長などに代表される「宗教の復権」です。世俗の時代は終わりつつあります。思想・建築・芸術面において、ポストモダンが終わってしまったように。
 日本の宗教学者の間では、「宗教の復権」なのかに関しては意見が分かれるようです。私は、日本においても復権しつつあると考えています。
 「無宗教」という長く使われてきた言葉の持つ意味の変化、統計における無宗教層の現象、各種の新興宗教の衰えない教勢をもとに私の意見があります。
 余談になりますが、私の後輩で有名な漫画のプロデューサーがいます。彼が、去年、日蓮を題材にした漫画をプロデュースしました。
「何で?」と聞いたら「時代は宗教じゃないですか」と言われました。優秀なプロデューサーからは、日本の人が「信仰を探している」と見えたのでしょうね。正直、私は悔しかったです。なぜ、キリスト教の中から、例えば「パウロ伝」を漫画にして大ヒットさせようという人が生まれないんだろう、と。そうしていたら、最相葉月さんが本を出して、またやられたーと思いました。

④       この社会認識のもとで、我々は、何を福音宣教の観点から行うべきか、行えるのかを考えないといけません。
1.        この柱の一つに「社会の通過儀礼」において、親密圏である教会が何を担うか、というのは大きな論点です。
 (ア) ここは、長くなるので割愛をします。
 (イ) ただ、カトリックが提示する「世俗化前における教会の、ほぼ形を変えないままでの復権」という立場は私はとりません。ポストセキュラーにおける教会は、世俗化前とは明らかに別の立場なのです。
 どこかで、四セクター論と、公共圏における教会の役割の歴史的変遷を絡めて説明をします。

まとめ


1) 日本という教会が社会とずれている(ノンクリスチャンが多くいる)環境において
2) 共通恩恵という、聖書の物語の中で、摂理論に絡む極めて最初の方に位置する概念を
3) ポストセキュラー下の日本において福音宣教の観点から考える
という事は重要である。
キリスト教葬儀という通過儀礼を、教会が積極的に担い、その神学的な整理も提示することは極めて重要である、という考え方になります。

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