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世界中の「禁断の果実」を食べ歩く

読了。

「禁断の果実」とは法規制されているものを指す。密造酒、ポピーシードクラッカー(シンガポールでは違法)、殺菌されていない乳で作ったチーズ(米国では違法)など、ある場所では合法でも別の場所では違法なものもある。誰がどんな理由で違法と決めたのか? それは妥当な決定なのか? 違法であっても手にいれる方法はあって、著者は世界7か国で禁制品を摂取し、この本を書きあげた。

食も陶酔も、個人の自由であるべきというのが著者の考えであり、私もそう思う。ある程度の規制(年齢制限、情報提供など)は必要だけど、摂るか摂らないかを決めるのは本人であって、政府が禁止するというのは人権侵害だ。

ほとんどの人は、さまざまな嗜好品との折り合いをつけられると思う。飲み過ぎれば気分が悪くなったり、二日酔いになったりして嫌になり、次回は自然と調整するものだ(できない人もいる)。

私はかつて煙草を吸っていたけれど、ニコチン依存になることはなく、今ではまったく吸わないけれど、禁煙したわけではなくて、ただ吸っていないだけ。吸う人と会ったらもらうこともあるかもしれないけれど、だからといってそこから毎日吸うこともないだろう。
去年の秋からお酒も飲んでいない。風邪をひいてしばらく飲まずにいて、久しぶりに飲んだら美味しくなかったのでそれ以来飲んでいない。でも、誘われたら飲むこともあるだろう。

著者はさらに踏み込んで、最後の禁制品(摂取はしていない)として、安楽死に使う薬品を選び、世界中から安楽死のために人々が訪れるスイスの団体を取材している。どう生きるか、いつ終わらせるかは個人の選択だという考えから、自身も不治の病に侵されたらここで安らかに死にたい、と締めくくっていた。安楽死にはさまざまな視点からさまざまな意見があり、死を選択する権利があってもいいと思いつつ、私としてはまだ全面的に肯定できない気持ちもある。

私がいちばん納得したのはこのくだり。

どんな時代でもどんな気候の土地でも、意識を変化させてくれる植物を使用し、あがめていた。一神教の宗教は植物自体を禁止することで、古い多神教の植物の知識を排除し、自然と人類の間に新しい神を割り込ませた。そして同時に人類から、意識を変えることによって得られる自分に関する認識も排除したのだ。

意識を変容させるということは、神の領域へ踏みこむこと。一神教では許されないことだ。唯一神とただの人間が肩を並べてしまったら、神のステータスが失われ、支配できなくなってしまう。一神教は、起源は置くとして、長い歴史の中で支配のツールとなってきた。「神」の言葉とされているものは、人間が考えた人間社会のためのルールだ。意識を変容させて、肉体を持つ人間が考えて作りだした貨幣や序列は意識にとっては意味がない、と気づかれては困るのだ。


ということで大変面白い本でした。
以下は響いた言葉たち。

現在、我々は原理主義者や社会党の政治家や道徳的な企業家や医師によって違法なドラッグを禁止する理由を繰り返し言い聞かされている。それは……。(中略)
ドラッグは反社会的な行動や犯罪を促進するから。
違法なドラッグの場合、違法だということ自体が原因のような気もする。禁
止されているから、それを摂取すること自体が犯罪になるのだ。一方で、暴力のきっかけになるドラッグがあるとすればアルコールだが、アルコールは合法だ。ドラッグにまつわる犯罪のほとんどは闇市場で高いドラッグを買わなければならないから起きるのだ。(中略)すべては違法であることの副産物だ。(中略)犯罪が起こるのはドラッグを禁止したからだ。ドラッグが本当に引き起こすものは、テレビの見すぎぐらいだ。

しかし大事な点は、エクスタシーが使用されるようになってからほぼ三〇年がたったが、毎日常用するようになった者はいるとしても、少ないということだ。同じことはLSDやマジックマッシュルームにも言える。また、それほどではないにせよ、マリファナもごく少数の常用患者だけが濫用するドラッグだ。こうしたドラッグはみなカフェインよりも強力だ。たとえば幻覚剤の中には感受性の強い使用者の精神を破壊するものもある。しかしどれもアルコールやタバコほど危険ではないのだ。そしてコーヒーとは異なり、すべてを捨てた麻薬常習者以外は、毎日摂取する人はほとんどいない。それにもかかわらず、こうした依存性のない物質を所持しているところを見つかると人生を棒にふることもある。

コーヒーを飲んでいたスーフィーの修道者、サボテン(ペヨーテ)を食べていたネイティブ・アメリカン、大麻を吸っていたメキシコ人(中略) みな、にせの口実によって、最も由緒があり、最も理解されない人間の衝動を押しつぶされそうになったのだ。日々の中で、たとえほんの一瞬でも、意識を失って逃避したいという欲望を。

人類と精神を変化させる植物や菌とのつきあいは長い。大麻やケシ、タバコやコーヒーの木、コカの木、カカオの木、ぶどうとそれを発酵させたジュース、幻覚を起こすキノコ類、そしてこのほかにもまだまだ数え切れないほどあるが、こういう植物などはいかなる形の政府も組織化された宗教も生まれる前から使用されてきたのだ、脳内活性物質のほうが先輩だ。神聖なものなのだ。たくさんの宗教で、脳内活性物質は贈り物やもてなしのしるしとして与えられ、コミュニティの力を強めるための祭事で使われ、商業行為の対象外であると考えられている。これは知性的なドラッグ政策への興味深いヒントとなる。道路わきで生えている大麻から、栽培されたケシまで、植物を栽培したり、収穫したり、使用すると罰則を与えたり、投獄したり、死刑にすると脅す当局は、基本的人権を侵害しているのだ。

基本的に、脳内活性物質を含む植物と人間との崇高で長い付き合いには、どんな禁止法も勝てないはずだ。(中略)文明社会にはマリファナタバコを吸ったり、聖餐のワインを飲んだり、自殺用の毒薬を手に入れたりしたからといって人を刑務所に入れたり、罰金を取ったりする権利はないが、非常に有害な物質の売買を規制する義務はあるのだ。(中略)ほとんどすべてのケースで、禁止よりも、適応を求めるべきなのだ。ほとんどの場合、消費者に情報を与えるだけで十分だ。たとえばひき肉には強力な病原菌がいるかもしれないというラベルを貼るとか、タバコやマリファナに健康に害をもたらすという注意書きをつけるなどの手段で。

アルコールの場合、飲酒をする者のうち依存症患者は一握りしかいないのである。同じことはソフトドラッグにも言える。マリファナやコカやケシの茶やアラビアチャノキ、それから私の意見ではLSDやマジックマッシュルームのような幻覚性のドラッグもここに含まれると思う。こういう植物を原料としたドラッグは、アルコールと同じように扱うべきなのだ。原価からかけ離れていない値段で、大人なら誰でも買えるようにし、一般の商品と同様に税金をかければいい。

自分を酔わせ始めたら止めることができない人々もいて、彼らが自ら落ちぶれ、友人や家族を傷つける激しいストーリーは酔うことに関する議論の中心になってしまいがちである。しかし彼らは少数派なのだ。ほとんどの人は二日酔いや禁断症状や、頭がボーっとしたりいらいらするのを経験し、自然に濫用から遠ざけられている。

けっきょく、完全に断つことと過剰な濫用の間には中間点がある。適量というやつだ。思春期のあとの過剰にドラマティックなことを好む混沌状態を抜け出せば、適量を守ることはよりたやすくなる。そこに到達するにはある程度成熟し、自分を知ることが必要なのだ。


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