見出し画像

田んぼでカニを捕獲した日

子供の頃に住んでいたところは、目の前に広大な田んぼがあって、蝶々やトンボやボウフラやよくわからない野鳥などが行き交う素敵なアニマル天国だったのですが、なんと甲殻類がやってきたこともあります。

その甲殻類とは……、蟹です。

ある日のこと。田んぼの溝を蟹が歩いていました。ザリガニではない。サワガニでもない。……たぶん食用として出されるタイプのカニ(ザリガニやサワガニも食べられないわけではないらしいけど)。

かに道楽の看板と同じ形状の生物だったのでそれは間違いないのですが、モクズガニだったのかイソガニだったのかあるいはよくわからない亜種だったのか、今となっては確かめる術がありません。 

クッソ汚い用水路を、そいつはフツーに歩いていました。泥まみれになりながら。ザリガニは汚染された水の中でもわりと平気だそうですが、それでも環境の悪いところにずっといると死んでしまうことも多いそうです。

ザリガニよりも水質を選びそうだし、そもそも海中生物であるモクズガニだかイソガニだか(あるいは未知のなにか)が、いったい何をどうして海からはるか遠いこんなところまで来たのかは謎ですが、とりあえずとてつもない生命力を持っていたことは間違いありません。

それを見た近所の子どもたちはその生命の輝きに感動し、急いでお母さんたちに田んぼのカニの存在を伝え……、ただちに捕獲しました。そして、満面の笑顔で誰かが言いました。「こいつ食おう」と。

―食うか食われるか、そこには上も下もなく、ただひたすらに食は生の特権―というのは漫画『ダンジョン飯』第1話からの引用ですが、子どもたち(とお母さんたち)はカニを見るやいなや、共生ではなく支配を選んだのです。

カニを洗面器に入れてグツグツと洗い、当時は誰もスマホなんざ持っていないので野生のカニをゲットした際の対処法をググる術もなく、テレビ番組『料理の鉄人』で視た道場六三郎氏の包丁さばきの記憶だけを頼りに、調理法についてあれこれ語らう時間を過ごしました。

誰が何を根拠に言ったかはよく覚えていませんが、カニはすぐには食べずに今晩はとりあえず置いておこうということに。カレーみたいに、しばらく寝かせたら美味しくなるという判断だったのでしょうか。

ずっと洗面器に漬けられていたカニは非常におとなしく、特に逃げる素振りも見せませんでした。

食うことしか考えていない残酷な頭ではわかりませんでしたが、だいぶ弱っていたのだと思います。そもそも武器であるハサミをほとんど動かしませんでしたから。


翌朝、洗面器はからっぽになり、カニが落としていった泥だけが残っていました。夜中のあいだに抜け出したのでしょう。

食われることなく無事に旅を続けることができたあのカニが、その後どこまで行ったのかは永久に謎です。本当は弱っていたというより、海からの長旅で疲れたからしばらく休んでいただけなのかもしれません。

田んぼそのものが減っていっている地元で、偶然カニを見つけるなんてことはもう二度とないでしょう。

今でもスーパーなんかでカニを見つけると、あの頃の思い出が蘇るとともに、美味そうだなあという気持ちになります。めったに買えないけど。

サウナはたのしい。