見出し画像

だってかわいいの

この冬休み、懸念していたことがひとつあった。
それは私の末っ子への溺愛ぶりが明るみに出るかもしれない、ということ。
普段の平日、昼間は末っ子と私の二人で過ごしており、誰も見ていないのをいいことに私はここぞとばかりに末っ子を溺愛している。

三人育てているとたびたび「いわゆる一番かわいい時期っていつなの?」と訊かれるのだけど、私はいつも「一歳半から二歳半」と答えている。
皆さんそれぞれ思うところがあると思うけれど、私に関して言えば一歳半から二歳半がゴールデンゾーンなのだ。
ひとり歩きが達者になり、意思の疎通もできるようになる。彼らなりの生きる知恵と努力のようなものがありありとみえるのだ。その愛しさがすごい。
人間というのはこうやって生存戦争に勝ち残ってきたのだなぁ、そして君もこの家族という集団の中で生きることを考えているのだなぁ、大丈夫、全然がんばったりしなくてもちゃんとこの集団の中で生きられるし守ってあげるよ、みかんを抱え込まなくてもまだあるよ、と母性が大爆発してしまう。
また、言葉が日毎に増えるので喜びや驚きのアップデートも盛んなのだ。

末っ子は今まさにそのゴールデンゾーンを生きている。
かわいい。
とてつもなくかわいい。
末っ子を愛でる歌を歌い、踊り、歓声を上げ、拍手を鳴らし、とにかくもてはやして暮らしている。
一日に200回くらいかわいいと(結構強めで)言っている。

これが上の二人にばれたらまずいのでは、と心配していたのだ。
いつもなにかと我慢している長女が拗ねるかもしれない。
まだまだ甘えん坊の息子がやきもちを焼いて末っ子にきつく当たるかもしれない。
余計な心配をするくらいなら愛で方を考えればいいし、セーブすればいいだけのことなのだけど、これがどういうわけかできない。
抑制が効かないかわいさなのだ。
立っている脚がかわいいし、テレビを観る横顔がかわいい。
こちらを向いて笑えば当然かわいいし、ふざけて無視をしてもかわいい。
つたない言葉で何かを発すればやはりかわいいし、怒ってもかわいい。
寝ていてもかわいいし、寝起きもかわいい。
かわいくない瞬間が無いのだ。すべての瞬間がきらめいてかわいい。

六歳と四歳ももちろんかわいいのだけど、さすがにもう、息をしているだけでかわいい、とは言えない。
人間らしい強欲さでつまらない喧嘩をしたりもするし、理不尽なわがままが叶わないという理不尽な怒りをこちらにむけてきたりもする。
かわいいとばかりは言っていられない。

大切さは三人ともおなじだ。
みんな等しく、とってもとっても大切だ。
けれどかわいさという点ではゴールデンゾーンを生きている末っ子にはかなわないのだ。
もちろん彼らにもゴールデンゾーンはあった。
彼らは覚えていないだろうけれど、私に愛でる歌を歌われて、歓声や拍手を送られていたのだ。うなじや頬や耳のあたりに鼻を押し付けられ、四六時中すんすん匂いを嗅がれていたのだ。

冬休みの初めのほうは、なるべくセーブした愛でを意識した。悶絶しそうなのをぐっと堪えて、「かわいいね」と落ち着いた声音で言うようにした。

けれど次第にぼろが出る。

「世界の宝!!!」とか、
「宇宙の希望!!!」とか、
「天使!!!まじ天使!!!」とか、
「いのち!!!いのちの子!!!」とか、もはや何を言ってるのか誰もよく分かっていなかったかもしれなかったけど、叫びまくっていた。
だってかわいいのだ。

すると、次第に上の二人に変化が訪れた。
もともと、末っ子は姉兄から少々過保護に扱われていたのだけど、なんとそれに拍車がかかるようになった。

長女は同性ゆえか末っ子にライバル心のようなものがあったのだけど、この冬休みで「かわいい♡」と言うことがかなり増えた。
末っ子のつたない言葉や仕草を喜ぶこともすごく増えた。
そして息子。末っ子が産まれたその時からシスコンぶりを発揮していたのだけど、さらに加速した。もはや何をされても許していた。何かをきっかけに怒った末っ子が思いっきり息子の頬を叩いたのだけど、それさえも嬉しいようで声を出してうへへと笑っていた。
私が愛でまくったことで彼らのかわいいまでもが底上げされてしまったらしい。

自分がまいた種だとはよくよく分かっているけれど、末っ子のお姫様化が勢いよく進んでいる。
まともな大人にならなかったらどうしよう、と思うだけの親心と理性はもちろんある。
わがまま放題なイヤイヤ期がやってくるかもしれないし、好き放題できない幼稚園生活をボイコットするかもしれない。きゅうくつな小学校なんてやってられないと不登校を決め込むなんてことになったらどうしましょう。

といくら考えたってやっぱりどうしてもかわいいのだ。溺愛は止まらないよね。
仕方ないよね。
仕方ないって言って。

また読みにきてくれたらそれでもう。