混沌と夏休み
夏休みと書いて怒涛と読むと世の母たちは言うよね。言う。言ってる。
もう、怒涛。
数年前までは怒涛なんてそんなぬるいものですらなくて、なんていうか、毎日がSASUKEファイナルステージで、毎日が容赦ない袋叩きで、毎日が「千と千尋の神隠し」で千が外壁に沿わせてあるパイプみたいなやつが崩れつつある上を駆け抜けるあの瞬間そのもの、という感じだった。
怒涛、と二文字で表現できるようになっただけまだ人間らしい暮らしをしているとは思う。とは言え怒涛。
少し前までは生かしているだけで花丸ですね、というムード一色だったのだけど、彼らがそれぞれ大きくなってきて「夏休みのご家庭のマネジメントに大期待」みたいな案件がちらほら噴出している。
彼ら自身が管理できる部分も大いにあるけれど、そこをお母さんいっちょサポートしてあげてよね、というさ、なんかしらの圧みたいなものもあるじゃないですか。
そのことに関しては今週のコノビーさんに詳しく書いたのでぜひ読んでいただければ。
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夏休み前の面談で長女の学習面に関して「このあたり夏休みにまたご家庭でも見てあげてください」と言われた部分があって、ほうほうとお話を聞いた。
苦手な部分があるのは仕方ないよね人間だものどーれどれどれ、と夏休みの宿題を丸付けしながら、ああこれはと思った。
小学校4年生と言えばそれなりに学習も難しいことが増えて、本人にもある程度その自覚があったりもして、へへへと苦笑いされるとお母さん何らかの形で頑張るね、と思うものだったりする。
とりあえず、私の仕事の都合がつくときは小学生組の宿題をなるべく見ている。
長女の現状を見ていると、「ああ、2年生のあのあたりでまあいいかと眼をつぶったツケがこんなところで出てくるんだなあ」と思うことがあったりもして、学習とは地続きなり、義務教育はちゃんと順序だてててきちんとプログラムされているんだね、と実感する。義務教育すごいね。
というわけで、ついでに長男の学びに関しても夏休みは目が届く範囲で見ておこう、と思っている。と言うのも、私は睡眠至上主義なので、学校がある平日はとにかく早く寝てほしい一心で生きていて、なんならいっそ宿題よりも寝るのが大事、という方針で暮らしている。学校がある日はなんだかんだと夕方が慌ただしく過ぎていくのでそんな感じになるでしょ?なるじゃん。
寝て心身ともに健やかに明日を迎えてほしい。
夏休みでもないと宿題は日々に押されて雑にこなされていく側面が無きにしも非ず。
そんなの虐待じゃないですか!毎日きちんと宿題を見てあげてください!お子さんがかわいそうです!!!!とどこからか叫ばれてしまうかもしれないんだけど、え、どうしよう叫ばれたら。とても嫌だな。世の中みんな怒りすぎだよね。ほかに怒るところないんだろうか。私なんて日々、言うべきお小言がたくさんあるからよそに怒ってる暇なんてないんですよ。畳のお部屋でウエハースを食べない!とかの優先順位高すぎるよ。
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と言うわけで、お勉強を見ている日々なのだけど、見なきゃ気にならないことも見れば気になるのが人間なわけで。
おやおやこれはいかに、と絶句してしまう側面がやはりあって、かみ砕いて解説をする。それでも首をかしげられたりするので、さらにかみ砕いて解説する。そして、その場で理解したつもりになっていても「ではどういうことかな」と問うたら、とんちんかんなことを言ったりもするから油断ならない。
学びとは、と考え出すときりがない。きりがないけれど、きりがないことを考えるのって果てがなくて楽しいものだからいくらでも考えられる。にょきにょきと思考のつるをいろんな方向に伸ばしては引っ込めてみる。
ふと、今はやりのタブレット学習端末っていったいなんであんなに普及しちゃってるんだろう、と思考のつるがそっちへ伸びた。
やはりメリットもあるからこれだけあっちこっちで見るんだろうね、と調べてみれば瞬く間にネット広告がタブレット学習端末になる。お行儀よくお背中を延ばした少年少女がタブレットとタッチペンを持って微笑んでいる広告はとても治安がいいのでこれはこれで悪くないです。
ただ、私は家の中に燃えないものが増えることに抵抗が強めなので、躊躇するし踏み切れない。別に燃えなくても不要になれば解約の上、返却ができるからいいんだけど、なぜだろう、自分の手でうまく処分できなさそうなほとんどすべてのものへのハードルが高い。
紙のドリルが増えることはさほど抵抗がないのに、タブレットが増えるというのはなんだかドキドキしてしまう。
燃やせるということはなにかあっても自分で終える(しまえる)ということでもあるので、そのことが私を安心させるんだろう。終いが見えないものって不安じゃないですか。
さらに言うと、小学生の時にセーラームーンで亜美ちゃんが超スーパーな塾に通っていた時に、みんながパソコンで先進的な学習をしている中で「やっぱり手で書くほうが覚えるわ」と言って、ひとりだけペン(セーラーマーキュリーのあのペン)を使ってお勉強をして、その塾で亜美ちゃんだけがモニター越しに学生たちを侵食する悪い奴らの魔の手から逃れたのを覚えている。
このお話によって、私の中で「手で書くほうが覚えるわ」がかなり神格化している部分がとてもある。
家にiPadもあるし、スマートフォンもある。
少しの学習アプリも入っているし、断固拒絶!というほどの強いものは全然ちっともないんだけど、あの亜美ちゃんの横顔が今も脳裏に張り付いているので子どものころの記憶って恐ろしいものだね、とは思う。
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とは言え、現代社会を生きる私が並行して存在しているから、そちらの私がなにを選ぶかは未知。紙とペンを信仰していたって、こうして私はパソコンで今も文字を打っているわけだし。
そんなふうにいろんな私がまだら模様に合わさっているなんてことは、わざわざ説明するまでもないことだけど、それでもやっぱりこうして書いたり発信したりしていると時々あるひとつの側面で、あなたはこうですねと判断されることってたまーにだけどやっぱりあるし、私だってしているかもしれない。のでやっぱり時々説明してもいいのかもしれない。けどあんまり言うとSNS慣れしてる感が出てしまって悪くはないけど粋ではないよね。
三重県の就職氷河期支援アカウントで今年もエッセイを書きました。
2003年、私の就職活動のお話。読んでね。
また読みにきてくれたらそれでもう。