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行列流儀

私はほんとうに気がきかない。
周りの人がくるくると動いているのを見て、でくの棒のように突っ立って感心するだけの情けない体たらくだ。
来客があってもお茶のひとつもまともに用意ができない。
出すタイミングやら適切な温度やら、茶葉の種類やら私なりに悩んでそれらしく振舞うのだけどどうにも的外れらしく、うまくやれないのだ。
真夏なのに氷を作るのを忘れてぬるい麦茶を出してしまったり、お子さんがいらっしゃるというのに麦茶もジュースも用意していなかったり、それどころか、そもそもお茶を出すことさえ忘れていたりする。

そろそろ誤魔化しようもなく大人になってしまったからいい加減大人らしく振舞えるようにならなくてはと思うのだけど、いつもしょうもないことがぼやぼやと頭の中を渦巻いていて、脊髄反射的に機転を利かすことができないのだ。そうだ、運動神経が悪いので反射とつくすべてにご縁がないのだと思う。

そんなどうしようもない大人の私が先日驚くべき自分の機転を目の当たりにした。
その日はお祭りで、私は息子と二人でトイレの列に並んでいた。
仮設トイレはふたつしかなくて、お祭りの集客には少し釣り合いが取れていなかった。つまり行列はとても長かったのだ。
私は息子と手をつないで並んでいた。
前にも後ろにもかわいらしい二十代の女性。
列はなかなか消化されない。
「去年は来たんだっけ?あ、去年は来られなかったんだよねぇ。なんでだっけ。じゃぁ、最後に来たのはその前だから、二歳の時かぁ。覚えてる?その時はまだ妹が産まれてなかったから四人で来たんだよねぇ」
ひとりごとのように息子に向かって話していた。息子と私のほんの暇つぶしのつもりだった。
が、息子ひとりに話すには私の声のボリュームが大きいことに気が付いた。
息子ひとりに話しながら、ちゃんと聞こえてるかしら、と前後の彼らにどうでもいい気を配っていたことにも気が付いた。
私は悪趣味なので盗み聞きが大好きだ。そこかしこで夫婦の会話や盛り上がる女子トークに耳をそばだてている。
他人の会話ほど面白いエンターテイメントを私は知らない。
そんな悪趣味が功を奏して、退屈しているであろう彼らになにか退屈をしのげるものを差し出したしたい意欲が脊髄反射で沸いたのだ。
親子の牧歌的で退屈な会話だったかもしれない。けれど、そうかこの子は二年前に二歳ってことは今は四歳なんだな、その当時四人でってことはお兄ちゃんかお姉ちゃんがいるのかしら、それともおばあちゃんと来たのかしら、と思いを巡らせることができたかもしれない。
トイレを待つ間の暇つぶしにはなるだろう。
尿意のことばかり考えていてはトイレの列は果てしなく長く感じるのだし。

私は私のさりげなくて粋な機転に惚れ惚れしながら用を足した。
私ってば、まあまあだな、と思った。


とりあえずお祭りは例年以上にすばらしくて楽しかったから私の気がきいていようといまいととても楽しくていい日だったはずだけれど、私は自分のまあまあな感じに少し酔えたので、とても楽しくていい日に加えてまあまあ嬉しい日だった。

また読みにきてくれたらそれでもう。