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絶望の親ガチャと受験格差

努力が正しいとされる受験ってのは、極論を言えば親ガチャである。
断言するつもりは無いし、統計学データから逸れた例外も探せばきっと沢山あるだろう。
日本の受験業界ではエビデンスという科学的根拠よりも個人の成功体験談の方が聞かれがちだから。
だが親ガチャと受験の結果が密接に関わっているのは致し方あるまい。
これも個人の感想の範疇になるのだが親ガチャに成功した方が高学歴になりやすいのは確かだ。
僕は悲しいことに、いつしかそう思うようになってしまった。
夢に向かって一所懸命に突き進んでいた受験生時代は、人間は努力が一番に大切だと思っていたのに。
なのに突きつけられた不合格の事実。
駆け巡る走馬灯。
真っ暗になる目の前。
受験生時代、その多くをこの場で語りたくはないが僕は普通よりも苦労したと思う。
その普通ってどこからどこまでってのは個人の裁量によるものだが。
毒親からの多種多様な妨害や、周囲の本来なら助けてくれる筈の大人が事の重大さを理解してくれなかったことも大いにある。
なんなら受験関連で普通だったら起きないような事件で流血もした。
命の灯火が消えそうになったことだって何度かあるのだ。
ああ、普通に危ない。
それでも耐えた、生き抜いた。
でも落ちた。
夢見ていた未来が潰えた瞬間だった。
そんな惨めな僕とは反対に、スパッと合格して晴れて高学歴の身分を手にした身近にいた奴らは、思い返せば皆んなが皆んな恵まれた環境で育っていたのだ。
彼らは僕が育ってきたゴミ環境と比べて、力なきガキの努力なんかじゃあ到底手の届かない場所に最初からいた。
だって、各々が生まれながらにして持っている交換できない資本を、当時の不自由な子どもの立場でどうやったら取れたんだ?
彼らは優しく理解力のある暴力なんか振ることのない親の下に生まれたからその時点で恵まれているし、住んでいるのは格式高い場所だから住居面にも恵まれている。
彼らはお金にも全然困っていない。
だから何一つ不自由することなく塾に通わせてもらい、学校でも特にトラブルやいじめ等を受けていないから精神的ダメージも少なかった。
彼らの中には中学受験失敗組もいるのだが、中学受験失敗とはいえそれは小学生時代から年額平均150万円という決して安くはない塾に通って公立小学校なんかでは扱わないレベルの高い教育を受けて受験そのものに慣れていたという裏付けになる。
幼少期から親に強制されたものではなく自分らがやりたい好きな習い事をトコトンやらせてもらい、それは彼らの自制心や認知機能の向上に結びついたに違いない。
他にもバンバン行けるとまではいかないが、彼らにとって受験時以外の長期休みには豪華な家族海外旅行だって苦じゃあないのだ。
それら格差を自覚した時、僕の心から受験にまつわる努力神話は消えた。
努力神話は出生のハンデをかき消してくれる程には万能ではないと。
ふと、そう悟ったのだ。
なあなあなあ。
世間のみんなは一口に受験は努力だって言うが、それってどこからどこまでが本人の努力なンだ?
いくら本人に才能があったとしても、地域格差や家庭格差の影響はモロに受けるのである。
少し例え話をしよう。
慶應の幼稚舎(幼稚園っぽい名前の響きけど小学校に該当するよ♪)に小学受験で合格すればエスカレーター式で大学は少なくとも慶應に行ける。
幼稚舎に入学し中等科そして高校を経て慶應義塾大学に進学した場合かかる学費は約2000万円だ(僕調べ)。
学部によっては+されて更にかかる。
学校側に寄付金等を払おうとすれば更にかかる。
参考するサイトや相場によっては学費が更に高くなる。
これを実行しようとする親が一体全体日本にどれ程いるやら…。
別に慶應だけじゃない、天下の東大様だって2018年の調査では約60%が親の年収約950万円を越しているのだ(僕がGoogle先生に聞きました)。
しかも東大は出身高校の約65%が私立高校出身者で、その大体は都心の名門中高一貫進学校からである。
大学受験の前に中学受験や高校受験は避けられない。
大学受験の前哨戦であるそれら受験で名門進学校に合格するかどうかが大学受験の駒を有利に進めるか決める。
遊びたい盛りを抑えて中学受験に見事勝利した日本の将来を担うことになる受験エリート達が名門中高一貫校でお互いに切磋琢磨して育ち、更にお金に不自由なく名門塾やハイレベルな予備校に通って万全を期して大学受験に挑むのだ。
そりゃあ合格実績も良くなる筈さ。
しかもそういう名門進学校に限って縦の繋がりだって厚いからその後の人生も基本的には安泰である。
まさにエリート、街道を行く。
高校受験から東大を目指すのが無理だとまでは言わないが、単純に中学受験からの方が環境と将来的に合格しやすいというわけなのはこういうカラクリなのだ。
それを達成するには親の収入、学歴への理解、家庭環境、親の学歴、協力する姿勢、熱意、サポートその他諸々が煮詰まりぎゅぎゅっと詰まっている。
だから家庭環境が悪いなんて子どもの教育にすればもっての外。
中学受験なんて、家庭にまとまった金がないと受験のための塾にすら入れないのだから。
社会人や院進は置いておいて、まだ受験生というのは自立していない未成年の割合が圧倒的に多いのだから親という存在は本当に大切である。
メンタルは成人寄りだとはいえ親の保護下で暮らしているのだ、影響されない方が珍しいだろう。
で、それが成されるのは親ガチャ。
だって親が決まるのは親ガチャでしか機会がないから。
世間では親ガチャと言われているが、システム的に最早ガチャですらない。
子どもは親を選べないのだから、選べる立場にある親が子ガチャと表現するならまだしも、そもそも親ガチャという使い方はどうなのだろうか。
どの親の下に生まれるかなんて選べなくて生まれた時点で事象は確定。
まあ直感的に分かりやすいから使用させてもらうが。
散々親ガチャの大切さを解いてきたが別に僕は、この世界では親ガチャが全てなんだと嘆いて輝かしい努力を否定するつもりはない。
汗水たらして頑張っているだけで本来人間は美しいのだ。
夢や希望に向かってひたすらに努力する熱心な姿。
真にかけがえのないものである。
だがそれらとは別に、受験の世界ではどうしてもペーパーテストの結果が力を明確に表す指標になってくる。
いくら受験生本人が才能あるとかほざいていても模試の結果はあまりウソをつかないし、受験本番当日の合否は時には頑張った受験生を優しい世界へ誘い、時には厳しい現実へと叩き落とすのだ。
本当に痛いほどに。 
そんな中で恵まれなかった環境格差がどうしょうもない事もあるのだ。
なんなら大学の学費だってそうだ、僕みたいな貧困層で喘ぐ底辺ナメナメ人はセコセコとバイトをして稼がなければならないが、金持ちの家に生まれた人は仕送りだけで不自由することなく一人暮らしできる。 
だって彼らの親は金持ちだから。
なあ、お金持ちの親に生まれる事柄のどこが努力なのだ。
こんなにも親ガチャは大切なのに。
なのに受験が終わった今も親ガチャはこうしてしつこく纏わりつく。
なんなら一生親ガチャの影響を受け続けるのかもしれない。
大人になって親の影響が薄まっても、遺伝の力は大きいのだ。
この世から去るまでずっと親ガチャが付き纏う、遺伝子情報は刻まれた祝福でもあり烙印でもあるから。
まあ親ガチャに失敗したからといって今すぐにでも人生を途中リタイアとかするのを簡単にできないから、人生というのは難しいのだが。
生まれちゃったら仕方ないのだ。
自分が生きている限り、出生を否定しても無かったことには出来ない。
残念ながら時を巻いて戻す方法は今のところ無いのだ。
あったらきっと誰もが喉から手が出る程欲しいだろう。
でもない。存在しない。
生まれてしまったから仕方なく生きているだけなのだから。
生まれたから、生きている。
人間は昼に起きているよりも、夜に意識を失う筈の寝ている方が幸せだったりするので生きるというのも果たしてどうかと。
人類誕生のそこそこ長い歴史を考えてみれば一個人の寿命というのは短いものである。
人事を尽くして天命を待つというのが一番やりやすいスタンスだったりするのかもしれない。
努力はしますけど後は運ですって。
受験が終わっても、良くも悪くも人生は続くのだから。
受験で燃え尽きて僕の人生は惰性の余生になっちゃったけれど、途中で全部放り投げ出せる程度には肝は据わっていないのである。
綺麗事でしかないのだが。
せめてこれからは悲しい後悔の少ないように。

大地を一歩ずつ踏みしめて。

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