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「知音」


「あなたの音楽は、人を不幸にする」
母から言われたその言葉が、今でも呪縛のように、奏音(かなと)を支配していた。

 ドミドミ…シーソーシーソー…音楽を辞めた今では、この絶対音感という能力は、奏音にとって、苦痛でしかない。奏音の両親は、ピアニストで、奏音と弟の連音(れんと)は、幼い頃からピアノをやることを強制された。そのおかげ…いや、そのせいで奏音には絶対音感という能力が備わった。
「おい、奏音!聞いてる?」
そう話しかけてきたのは、幼馴染の瀬戸直樹(せとなおき)だ。直樹は、奏音と同じ明治大学の政治経済学部に在籍している。
「あっ…、悪い…。なんだっけ?」
「だから、合コンだって!もう俺ら大学二年の六月を迎えようとしているんだよ!さすがにそろそろ彼女とか欲しいじゃん!」
直樹は、音楽をやめた奏音を気遣って、普通の大学生活を送れるための手助けをしてくれている。奏音は薄々そのことに気がついていた。
「次の合コンの相手は、どんな子達なの?」
「次の子達はね!ピッチピッチの大学一年生だよ!お前も行くだろ?」
 ―まあ、どうせ暇だし…行ってもいいか
「行くかなぁ〜、どうせ暇だし……」
 この選択が奏音をまた、音楽の道へと引込んで行くということを奏音はまだ知らなかった。                         

 合コン当日、奏音は地獄を見た。
 ―合コンに二次会があるとか…、しかも、よりによってカラオケとか聞いてねー。
 室内には耳を塞ぎたくなるような騒音が鳴り響いていた。女子たちは、大騒ぎで好きなようにいろいろな曲を歌っていた。奏音はそれらの微妙な音のズレに、頭痛がした。直樹は少し心配そうに、奏音のことを見つめていた。
「奏音先輩!なにか一緒に歌いませんか?」
「ちょっと!私が奏音先輩と歌うの!」
女子の中の数人が、奏音に群がって来た。容姿が整っている奏音は、この合コンで大人気になっていたのだ。
 ―こんな奴らと歌ったらおかしくなりそうだ…。
「ごめんね。ちょっと飲みすぎたから、外で休んでくるね」
奏音はそのまま部屋を出て、トイレの前で座り込んだ。しばらくその体勢で、頭痛が治まるのを待っていると、女子集団の一人である山内響(やまうちひびき)がやってきた。
「具合悪いんですか?」
響も座り込んで奏音の顔を覗き込んできた。
「いや、もう大丈夫だから…」
そう言って、目を逸した奏音に、響は問いかけた。
「もしかして、白河先輩って、絶対音感なんじゃないですか?」
奏音は目を泳がせた。
「私の姉が、絶対音感で、カラオケ行くと白河先輩と同じような反応するんです。だからもしかしたらって……」
 ―やば!俺そんなに態度に出てた?
奏音が黙っていると、また響が目を合わせてきた。
「白河先輩!絶対音感の人がカラオケに行くというのは、大変苦痛であるということは、分かってます。だけどあの態度はないと思いますよ。先輩は自分の意志でこの合コンに来てしまった以上、最低限、場の空気を乱さないように努力するべきだと思います。しかも私のお友達たちは、先輩に興味津津です。せめて彼女たちのためにも一曲くらい歌ってから帰ってください!さぞかしお上手なんでしょうから」
奏音は響を睨んだ。
「もう、しばらく歌ってないんだ…。それにカラオケなんて音響最悪だし……。俺は何を言われても歌わないからな」 
奏音はそう言って立ち上がって、響を置いて立ち去ろうとした
「じゃあ、私とデュエットしません?一人で歌うよりはましなんじゃないですか?」
「………」
「大丈夫ですよ。私上手いので、音とか外しません」
 ―なんて強引なやつなんだ。てか、どんだけ自信満々なんだよ…
 部屋に戻ると、女子集団の視線がまた一気に集まった。
「奏音先輩~!どこ言ってたんですか~」
「今度こそデュエットしましょう!」
またまた部屋の中は、大騒ぎになった。騒ぎを収めるように、響が言い放った。
「みんな~聞いて~!私と白河先輩で、デュエットしま~す!」
「え~~!私が先にお願いしたのに~」
女子たちが騒ぎ出した。
「私と歌ってくれるんですよね?白河先輩?」
響がすごい目力で奏音のことを見つめた。
「俺はこいつと歌うから!」
奏音は、もうやけくそになっていた。しばらくして、誰もが知るデュエット曲が流れ始めた。二人が歌い始めると、そこにいる全員が静かになった。そして、息をするのも忘れるくらい、二人の歌に引き込まれっていった。奏音も歌いながら驚きを隠せなかった。音楽をしているといる時の、幸せでふわふわとした気持ちを思い出すようだった。あっという間に、その曲が終了した。終わってすぐ、聞いていた者たちが我に返ったように、拍手した。
「すっすごい!」
「めっちゃ上手かったよ!感動した!」
みんなが盛大に騒ぎ始めた。響もドヤ顔で奏音を見つめた。奏音は、一瞬笑顔になったが、すぐに真顔に戻り、歓声から逃げるように部屋を出ていった。
 ―何なんだ…あの感覚…。めっちゃ楽しい。気持いい。
 奏音は、音楽の心地よい余韻に浸っていた。しかし、それと同時にあの言葉が降りかかってきた。
 「あなたの音楽は人を不幸にする」
 ―そう、俺はもう音楽をやってはいけない。また必ず、人を傷つける…。もう誰も不幸にはしたくない…。
 奏音が、音楽の余韻を振り払うように、ひたすら歩いていると、後ろから足音が聞こえた。
「白河先輩!」
息を切らせながら走ってきたのは、響だった。奏音は、聞こえないふりをして、歩き続けた。すると、響はさらにすごい勢いで、奏音に迫っていき手を掴んだ。
「ちょっと…。なんで逃げるんですか?」
「なんだよ!俺ちゃんと歌ったんだから文句ないだろ!まだ何かあんの?」
「白河先輩、音楽されてるんですか?隣で聞いてて、すっごく感動しちゃいました!あの…」
「音楽はもう辞めたんだ」
奏音は、冷たく言い放った。響は少し動揺したがすぐに、表情を戻した。
「なら、白河先輩!もう一度始めませんか?私と一緒に!私たち、いいコンビになれる気がするんです! だから……」
奏音は冷たい目で、響を見た。
「ごめん。もう二度と音楽を始める気はないから」
そう言って、奏音は響の手を振り払って、歩き出した。
「どうして?こんなに才能があるのに、辞めるなんてもったいないですよ。私、先輩とデュエットして、なんかジーンときました!もっとやりたいって、そう思ったんです!だから……」
「お前には、全く関係ない。誰に何と言われようともう始める気ないから。他をあたってくれ」
奏音は、響の方振り返ることもせず、そのまま歩いて行った。
 ―ちょっと言いすぎたか…。でもこうでもしないと、音楽という誘惑に負けてしまいそうだ。これでよかったのだ…。本当にこれで……。


 響は合コンの日以来、あの快感が忘れられなかった。響は、昔から歌うのが好きだった。高校の時は、バンドのボーカルを務めていた。そして、大学生になったら、最高の相手をみつけて、二人組バンドをやるのが夢だった。ただ、大学のバンドサークルには、お酒を飲みたいだけ、集って遊びたいだけ、という目的の人しかいなかった。大学に入学して、早二ヶ月、理想の相方を見つけられずにいた。でも、見つけた!人数合わせで仕方なく行った合コンで。
 響が大学の学食で、カツ丼を頬張っていると、すぐ近くを奏音と直樹が通り過ぎた。響が話しかけようかと、迷っているうちに、響の周りにいた友達たちがキンキンと響く声で叫びだした。
「奏音先輩~!」
皆が声を揃えて奏音のことを呼んだ。奏音は振り返り、彼女たちを見ると無理に笑った。響とは、目が合った瞬間、思いっきり逸らした。
 ―何それ!感じ悪っ……
 響は、彼女たちに囲まれている奏音から目を逸らして、大きな口でカツにかぶりついた。
その様子を見た、直樹が響の隣に座ってきた。
「響ちゃんだっけ?女の子なのに、よく食べるね!ここのカツ丼って男子でもしんどくなる量なのに」
響はむせて、水を勢いよく飲み干した。
「あっ……、ごめんね。大丈夫?女の子にこういうこと言っちゃダメだよね……。あまりにも気持ちよさそうに食べるもんだからつい……」
響は、直樹を軽く睨んだ。
「ごめん、ごめん。そんな怖い顔しないで!今日は響ちゃんと話したい事があるんだ~」
「えっと……瀬戸……先輩?」
「直樹先輩でいいよ!」
「あっ……、はい。で、なんですか?」
「響ちゃんって大学で音楽やる気ないの?」
「えっ?」
「いや……、この前のカラオケめっちゃすごかったからさ!奏音と対等に歌えるやつなんてなかなかいないよ……。びっくりした」
響は少し照れくさそうに笑った。
「音楽やりたいんですけど、なかなかいい相方に出会えなくて……」
「相方?」
「私、大学に入ったら、二人組バンドをやりたいって思ってたんですけど、理想の相方も見つからないし、ギターも全然上手くならなくて……」
「ギター始めたばっかなの?」
「はい。練習し始めて、二ヶ月くらいですかね……。独学って結構厳しいです」
直樹は何かを企んでいるような目で、響を見てきた。
「響ちゃん、それさ、奏音とかどうかなぁ~?」
「それは、無理です!断られました。」
「断られたの?」
「私、白河先輩とデュエットしたとき、なんかこれだ!って、ときめいてしまって、先輩に一緒に音楽やりましょうって言ったら、すんごく冷たく断られてしまって……、もう諦めました」
直樹は、不適な笑みを浮かべて、響のことを見た。
「響ちゃん、奏音と音楽やりたいんだ~」
「それは、できることなら、やりたいですけど……、白河先輩もう音楽やる気ないみたいですし……」
「俺にいい作戦があるんだけど、乗る?」
「作戦?」
響の頭の中は、謎に包まれた。
「今日って授業何限まで?」
「三限までですけど……」
「じゃあ、三限終わったら、正門で待ち合わせね!」
「えっっ、ちょっ……、直樹先輩!」
直樹は、そのまま、女子たちに囲まれた奏音を連れ、遠くの席へ行ってしまった。
 ―あの先輩強引すぎでしょ……。私にだって予定というものが……まあ、ないけど

 三限終了後、響は直樹に言われたとおり正門で待っていると、直樹が歩いてきた。
「じゃあ!行こっか!」
「えっ?どこに?」
「響ちゃんが多分、好きな場所!」
「えっ?」
「まあ、とにかく、付いて来て!」
響は、言われるがままに、直樹に付いていった。たどり着いたのは、横浜の楽器屋だった。中に連れて行かれ、案内された部屋は、ギターやドラムやピアノなどで溢れていた。
「ここって……」
「俺ん家!で、この部屋は親父の物置部屋ってところかな!」
響は、目の前の光景に感動して、ただ立ち尽くしていた。
「でさ、響ちゃん!ここでギター練習しない?響ちゃんここなら定期圏内でしょっ!」
「えっ?いや、まあ、定期圏内ですけど……」
「おれもそこそこギター上手だから!教えてあげるよ!」
響は、驚きできょとんとした顔になった。
「どうして、そこまでしてくれるんですか?知り合ったばかりなのに……」
直樹は急に真剣な顔になった。
「奏音さ、音楽やってた頃は、ここで毎日のようにギター弾いて、歌って、ほんとに楽しそうだった。あいつ、いろいろあって音楽辞めてからは、抜け殻みたいなんだよ。俺はあいつにもう一度音楽を始めて欲しい……って、思ってた。そしたら、響ちゃんを見つけた!響ちゃんなら、奏音の音楽に寄り添ってくれるんじゃないかな~って、思ったんだ!だから俺は、響ちゃんのことを、全力で応援したいんだ」
直樹は、とても真剣な目をして響を見つめた。
「でも……奏音先輩を説得するなんて、できるんでしょうか……」
そう言う響に、直樹は笑いかけた。
「響ちゃんにならできるよ!ていうか、響ちゃんにしかできないと思う」
「なんでそう思うんですか?」
「響ちゃんの歌、なんか自由だった。本当にそっくり……」
「そっくり?」
「あっ……、いや……、あいつは響ちゃんの歌に惚れ込んじゃうと思うなぁ~」
直樹は不自然に笑った。
「だから響ちゃん!」
「はい?」
「とにかく、響ちゃんに、ここでギターの特訓するから!奏音の心を動かすくらい!」
「いや……、それはありがたいお話ですけど、本当にいいんですか?」
「全然、オッケーだよ~!俺ももっと、響ちゃんの歌聞きたいし、奏音とのデュエットだって!」
響はふわっと笑って、直樹を見た。
「私、頑張ります!そんで全力で伝えます、音楽は自由で楽しいって!もう一度音楽やりたいって言わせてやりますよ!」
「いい心構えだ!じゃあ、早速今日から始めちゃおう!」
こうして、直樹による、響のギターレッスンが始まった。

 次の日から響は、行動に出た。奏音を見かける度に、近づいていって声をかけた。
「白河先輩!私と音楽をやってください!」
何度声をかけても、奏音は拒み続けた。でも奏音の響へ向ける目は、だんだん、少しずつではあるが変化している、そう響は感じていた。だから、響は奏音に何度も話しかけた。
「今、直樹先輩の家で、ギター練習してます!一度私の音楽、聞きに来てください!」
「白河先輩!音楽、楽しいですよ!私、先輩ともう一度、歌いたいです」
こんな活動を始めて、早一ヶ月が経とうとしている。響は直樹のおかげで、だいぶギターが弾けるようになった。しかし、奏音の気持ちは変えられずにいた。 

 

奏音は、頭を抱えていた。
 ―なんなんだ、あいつ……。もう、俺に音楽のことなんて思い出させるなよ。こっちは必死で……。
「おい、奏音!聞いてる?」
直樹がまたかよ、という顔をしていた。
「悪い……、なんだっけ?」
「お前、最近そんなんばっかじゃん!やっぱ、響ちゃんのこと気になってんでしょ!」
「はっ?なんであいつが出てくんだよ」
奏音は、スマホに目を落とした。
「お前、いい加減素直になったら?」
「は?」
奏音は、直樹を睨みつけた。
「お前、本当は音楽やりたいんだろ?」
「……」
「お前、響ちゃんと出会って変わった。毎日毎日、自分の気持ちを押しつぶそうとしてる。それって、あの子と出会って、また音楽やりたくなったってことだろ?じゃあ、やればいいじゃん!また音楽始めればいいじゃん!」
「お前ら二人で何企んでるか知らないけど、いい加減にしろよ!俺は音楽はやらない!これ以上首突っ込むな」
「彩音は、絶対こんなこと望んでなかったよ。だってあいつお前の音楽大好きだったじゃん!いつまで過去に囚われてんの?」
奏音の目は一気に凍りついた。
「お前、二度とその話すんな」
奏音はそう言って、立ち去ろうとしたのを、直樹が引き止めた。
「響ちゃん、お前と音楽やりたいからって、必死で頑張ってる。見に来てやれよ」
「……」
直樹の目が鋭くなった。
「もう一生そうやって意地張っとけよ!でもこれだけは覚えておけ、お前の音楽を求めてる奴はたくさんいるってこと!響ちゃんだって、俺だって……。じゃあな!」
直樹はそう言って、歩いて行った。奏音は、ただその場に立ち尽くしていた。
 ―なんでそこまで俺に音楽をやらせたいんだよ……。どいつもこいつも、何なんだよ……。
 
 

 響はその日も、直樹の家で、一人、ギターの練習をしながら、直樹が帰ってくるのを待っていた。
 ―こんなんじゃ、白河先輩と一緒に弾けない……。歌えない……。やっぱり無理なのかなあ……。
「下手くそ!」
部屋中に響いた低い声……、立っていたのは、奏音だった。
「白河先輩?」
「お前よくそんなんで、私と一緒に音楽やりましょう!なんて言えたな」
「あっ……、いや……ごめんなさい……」
「でも、歌は悪くない」
「本当ですか?」
響がころっと笑顔になった。
「悪くないって言っただけだ!自惚れんな。ギターなんか全然だめだめだし」
響がギターを置いて、下を向いた。
「でも、磨けば光る、絶対に」
「えっ?」
窓から夕日が差し込んで、ふたりの顔がオレンジ色に輝いた。
「俺がお前を磨いてやるよ!」
「へっ?」
「へっ?じゃねーよ!だから、俺がお前に音楽を教えてやるって言ってんの!」
響は目を見開いた。
「そんでもし、お前が俺と対等になれたら、一緒に音楽やってやるよ!」
「ほっ、本当ですか?」
響が奏音を見つめると、奏音が目を逸らした。
「でも、俺の練習厳しいから、途中で折れちゃうかもな~」
「望むところです。どんなに辛くても、めげない!死ぬ気で付いていきます!」
「随分、強気だな~。じゃあ死ぬ気で付いて来い!弱音とか吐いたらぶっとばすからな!分ったな!」
「はい!」
響の澄んだ明るい声は、部屋中に響き渡った。
「よし!じゃあ、まず、聞くに耐えないそのギターの音をどうにかしようか」
「はい……」
「まず、お前の薬指はどうなってる!全然動いてないじゃないか」
「はい…………」
「あと、指で押さえる位置!もっと、フレットのギリギリを抑えろ!だから、そんな質の悪い音になるんだ!」
「あ~、それは私も意識してるんですけど……」
奏音は、響を睨みつけた。
「けどなんだ!どうしてもできませんってか?ふざけんな!意識してても、出来なきゃ仕方ないの!できるようになるまで、次の段階に進ませないからな!」
響は、思いっきり奏音を睨み返した。
「はい、分かりました!気をつけます……」
奏音は心なしか口元がニヤついていた。
 ―こいつ、絶対Sだ!楽しんでる~!
 
 

 白河先輩のギターの指導は、めちゃくちゃ厳しい。でも、めちゃくちゃ正確……。練習は、月、水、金、日で行っている。私は、暇さえできたら、それ以外の日も、直樹先輩の家に通っている。でも、白河先輩は雨の日と、毎月3日は、決まって練習に来ない。一度理由を聞いたことがあるが、聞いてはいけない、それだけが伝わってきた。それ以来、そのことには触れないようにしている。でも、ひとつだけ確かなことは、白河先輩は、音楽が大好きなんだな~ってこと!本当にそれだけは、伝わってくる。音楽をやってる時の白河先輩には、独特の世界観がある。私は最近、それにどっぷりはまりこんでしまっている。

「おい!いつまで吸ってんだ!」
奏音の言葉で響は、空っぽのバナナ牛乳を、いつまでも吸っていることに気がついた。
「早く飯食って、練習するぞ!」
「あっ、はい!」
響は、急いで、手に持っていた食べかけのチョコチップメロンパンにかぶりついた。
「よくそんな甘ったるいパン食べられるな。女子って本当に甘党だな」
響は、口をもぐもぐさせながら、奏音を睨みつけた。
「別に、女子だからってことはないですよ。一口食べます?美味しいですよ」
「俺は甘いもん嫌いだから!さっさと食え!」
「は~い」
響が再びチョコチップメロンパンを食べるはじめると、奏音がイヤフォンで何かを聞いているのに気がついた。
「白河先輩何聴いてるんですか?」
奏音は少し重い表情になった。
 ―あっ……やばっ……聞いちゃまずいやつかも……
「岡崎連音の作品集……」
「えっ!めっちゃレアなやつじゃないですか!先輩、ピアノ興味あるんですか?」
「まさか……、こんな形式に縛られた音楽、聴いてるだけでムカムカする」
「ですよね~!音楽は自由じゃなきゃですよね~!って、なのにどうして持ってるんですか?なかなか手に入らないやつなんじゃないでしたっけ?」
奏音はイヤフォンを耳から外した。
「親族優待ってやつだな~。まあ、勝手に送られてきたんだけど」
「えっ?」
響は、目を丸くした。         「岡崎連音は、俺の実の弟!ちなみに俺の父親は、岡崎和夫(おかざきかずお)だから!」
響は驚きのあまり言葉を失った。岡崎和夫と岡崎連音は、ピアニスト界で、奇跡の親子と呼ばれるくらい有名だった。
「まあ、俺が五歳の時に母親と父親が離婚して、俺は母親に、連音は父親に引き取られたから、もう何年も会ってないけど……。父親が嫌味のように連音の作品集を送りつけてくるんだ」
奏音の表情が曇った。
「嫌味って……、じゃあ先輩は今、お母さんと二人で住んでるんですね!」
「いや、母親は、離婚してすぐ自殺した。だから、それからずっと親戚のところに住んでる」
「え……」
夏も中盤で、セミの鳴き声が響き渡っていた。
「父親と違って、母親は売れないピアニストで、心の支えだった父親と別れてから、ノイローゼみたいになって……。俺のせいで、離婚したようなもんだから、最期まで俺のこと恨んで死んでったよ」
「なんで先輩のせいなんですか?」
「俺は父親の形式ばかりの音楽が昔から嫌いで、稽古とかもサボりまくって、好き勝手音楽やってたから……。それで父親と母親が揉めるようになったんだ。俺が家族を引き裂いたようなもんなんだ……」
奏音は暗い表情から急に我に帰ったような顔に変わった。
「って……なんでこんなことお前に話してるんだか……てか、お前はまだ食い終わらないのか!早く食え!」
 ―いつものテンション……でもなんか……
響は、奏音の闇に触れたような気がした。でも奏音は、それを一人で噛み殺そうとしている――。誰に頼ることもなく、一人で……。 響は、黙っていることができなくなった。
「白河先輩の音楽、私は好きですよ!自由で、透き通った感じがして、大好きです!」
奏音はしばらく黙り込んだ後に、響を軽くペットボトルで叩いた。
「未熟者のくせに生意気言ってんじゃねーよ、ば~か!」
奏音は響に表情を見せないように、スマホ画面に目を落とした。                  昼食後の練習はいつも通り行われた。練習が始まると、二人だけの世界に入り込み、その内容についてお互い触れることはなかった。

 9月3日、響は、一人でギターを弾いていた。奏音のおかげで、だいぶ上手くなった。最近では、一人の時、適当に弾き語りをしていた。その日の気分に合わせて、弦を鳴らし、声を合わせる。響の、密かな楽しみだった。
 ―いつか自分で歌を作ってみたいな~!それを白河先輩と歌ってみたいな~!
響が、そんなことを考えていると、ドアが空き、秋風が入ってきた。
 ―白河先輩?
響が、振り返ると、直樹が笑った。
「奏音だと思ったでしょ~!響ちゃんって本当に分かりやすいよね~」
響は、むすっとした顔をした。
「今日は来ない気はしてましたけど、もしかしたらって……」
響は、目を落とした。
「響ちゃん歌作ってたの?」
直樹はにやけながら、響の顔を覗き込むと響は、照れて目を逸らした。
「ちょっ、聞いてたんですか?あんなの遊びですから!」
「そんな、照れなくてもいいのに~」
「だって、素人が、作曲とか恥ずかしいじゃないですか~!」
直樹は、さらににやけた。
 ―この人絶対に馬鹿にしてる~さすが白河先輩の幼馴染~そっくりだなぁ~
「俺は、好きだけどなぁ~。作ってみればいいいのに~、ギターもだいぶ上手くなってきたみたいだし」
「そりゃ、いつか自分で曲作ってみたいていう気持ちはありますけど、やっぱりそこまで行くと引かれるじゃないですか~」
響は短い髪の毛を耳にかけた。
「そうかなぁ~?俺は、いいと思うけどなぁ~!奏音だって昔は曲作ってたんだよ!俺好きだったなぁ~、奏音の作った曲……」
「えっ?白河先輩、曲作ってたんですか?」
響は、目を見開いた。いつも練習をするときは、有名な曲のアレンジが多いので、響には予想外だった。
「そうだよ!あいつ根っからの天才だから、ふとしたとき、音が降ってくるらしいよ。そんで、いい曲が出来上がんの!でもあいつが、音楽辞めてからは、それが耳鳴りに変わって、苦しんでた。雨の日とかは特に……。曲を作ることもなくなった……」
「だから、雨の日練習に来ないんですね……。やっぱり、白河先輩、音楽やるの辛いんですかね、今でも……。無理させっちゃってるのかな……」 
響は肩を落とした。
「それは違うよ!あいつ、響ちゃんと出会って、変わったんだよ!」
「えっ?」
「最近よく鼻歌を歌うんだ。しかも、聞いたことがないやつ!あいつ、ずっと音から逃げてたんだ。自分から音を消そうとしてた……。でも今は、音を拾おうとしてる!きっとあいつは響ちゃんと出会って、音楽の楽しさを思い出したんだろうな~」
直樹は響を見て、笑った。
「さっきの響ちゃんの歌、奏音が作る曲と同じ匂いがした。本当にピッタリだよ!響ちゃんと奏音!」
響は、少し照れながら笑った。
「そうですかね~。だったら嬉しいんですけど……」
「響ちゃんなら、奏音と、いいパートナーになれるよ!だから自信持って、いろんなことに挑戦しなよ!作曲だって、なんだって!」
「ありがとうございます!やってみます!いろいろと。そんで、もっともっと、白河先輩の心を開いてみせます!私が白河先輩を、救い出してみせます!」
「楽しみにしてるよ!じゃあ、俺、バイトあるから、行くね!じゃあ、練習頑張って!」
直樹はそう言って、部屋を出ていった。
 ―いつになったら白河先輩に、一人前って認めてもらえるんだろう……。早く、ちゃんとした、パートナーになりたいなぁ~!

 夏休みが明けて、後期の授業が始まった。響の頭の中は、音楽のことで頭が一杯で、授業なんか、一切頭に入ってこなかった。
 ―作曲案外難しいなぁ~。部分部分なら簡単なのに、一曲作るってなるとどうしてこう上手くいかないんだろう~
「響!食堂行こ!」
友達の真奈(まな)の声で我に戻った。最初は大人数で群れていたが、面倒くさくなり、この時には、真奈と二人で行動するようになっていた。。
「あれ?もう授業終わったんだ~!」
真奈が呆れた顔で響を見た。
「響、最近何も授業聞いてないよね~?聞いてた?今の授業、毎週レポート課題出るって!」
「えっ?マジで?全然聞いてなかった!やっば!」
「最近、寝坊で、一限来ないし……。音楽に夢中なのは分かるけどさ~、本当にこのままじゃ、留年するよ!前期だって、一個落としてるんでしょ!」
「う……」
真奈の正論すぎる言葉に何も言い返せなかった。
 ―留年はまずい……お母さんに音楽辞めろって言われる~。前期に授業落とした時ですら説得するの大変だったのに……
「そんなに楽しいんだ、白河先輩と音楽やるの」
「うん!すんごく楽しい!最近、白河先輩に認めてもらいたくて、密かに作曲してて……」
「そうなの?あ~、だからいつも、授業中音階をブツブツ呟いてるのか!」
真奈が思い出したかのように笑った。
「嘘!声に出てる?」
「うん。出てる、思いっきり!」
「うわ~~」
響が髪の毛をくしゃくしゃしながら頭を沈めた。
「てかさ、そんなに練習ばっかして、ライブとかやらないの?」
響は、きょとんとした。二人だけで音合わせして、歌うだけで満足していただけに忘れていた。
 ―ちょっと待って、ライブとかやったらめっちゃ楽しいじゃん!
「明大祭の、青空ライブに出ればいいのに!11月24日だから、まだ、エントリーできるんじゃない?」
 響は目の色を変えて顔を上げた。
「いい情報ありがとう!真奈ちゃん!ちょっと、行ってくる!」
「えっ、ちょっと、食堂は?」
「先行ってて!」
響は、荷物を抱えて、全速力で走っていった。真奈は、唖然としていた。

 奏音が、練習部屋に行くと、響が昨日弾き始めたばっかの曲をすでに、スムーズに弾けていた。
 ―もう、覚えたのか……。こいつまじで彩音並になってきたわ
響は、集中していて、奏音が来たのに気がついていない。奏音が、しばらく、響の弾き語りに聞き入っていると、やっと響は、奏音に気がついた。
「うわ!白河先輩いたんですか?」
「お前、もう覚えたのか?その曲……」
「はい!早く一人前になりたいので!時間ないし……」
「時間ない?」
奏音が不審な顔をして、響を見た。
「白河先輩!」
「なんだよ」
「私と一緒に青空ライブに出てくれませんか?」
「は?」
響は、突然かばんをゴソゴソとあさり、一枚の紙を取り出した。
「今日が締め切りだったので、もう申し込んできちゃいました!」
「お前……、勝手に……」
奏音は、呆気にとられながら、その紙に目を通した。
 ―11月24日、明大祭メインイベント、青空ライブ……
 一瞬沈黙が流れたが、響がそれを破るように話し始めた。
「白河先輩に何の許可も取らなかったことは、謝ります!でも、やりたいんです!私たちの歌、青空に届けたいんです!」
奏音は、黙ったままだった。
「もし、それまでに、一人前になれなかったら、諦めて、一人で出ます!でも、もし私が一人前になれたら、一緒に出てください!」
「本気なのか?」
奏音がすごい目力で、響を見た。残暑で、部屋がムンムンしていた。
「本気です!何が何でも、白河先輩とライブで歌います!」
「分かった。その代わり、今まで以上に厳しくなるからな!覚悟しとけよ!」
「はい!」
二人の熱気で、部屋の中が余計に暑くなってきた。
 それからは、奏音がどんどん、ペースを上げて、響に曲を教えていった。響も負けずに付いていった。それにより、今まで以上に、ふたりの世界を作り上げていた。奏音は、どんどん感覚が戻っていき、音楽の世界にのめり込みつつあった。それが、奏音にとって快感だった。この時間がずっと続いて欲しい。奏音も響もそう思っていた。


 そんなある日、響はいつものように、奏音が来るより前に一人でギターの練習をしていた。この頃の響は、大学の課題やらギターの練習やら作曲やらで寝不足が続いて、体も限界を迎えようとしていた。それでも必死に意識をギターに集中させて、弦を鳴らしていた。すると、ギターの音と混ざって、雨の音が聞こえ始めた。
―あれっ?雨?今日、白河先輩来てくれないな~
響は一気に力が抜けて、ため息をついた。
 ―今日は帰って寝よう!
響はギターを片付けようとするとドアが開く音がした。
「お前、何帰ろうとしてんだよ」
響は目を見開いた。雨が降るといつも練習に来ない奏音が初めて練習に来たのだ。
「白河先輩?雨大丈夫なんですか?」
奏音は傘を持ってなかったのか、濡れた髪をくしゃくしゃしていた。
「今日は、そんなに耳鳴りがひどくないから、練習に付き合ってやってもいいかな~って思ったけど、お前が帰りたいなら別に……」
「帰らないです!練習しましょう!」
響はにやけながら言ったので、奏音がくすっと笑った。その日もいつものように二人でギターの音を鳴り響かせた。強くなっていく雨にも気づかないくらい部屋中が、熱気に包まれていた。
 ―あれっ?
練習も終盤に差し掛かった時、響は、腹痛を感じ始めた。
「じゃあ、頭から、合わせるぞ!」
奏音は、演奏に夢中で、響の異変に気づかなかった。響は、少しすれば収まるだろうと、演奏を続けようとしたが、腹痛は、どんどんひどくなっていき、視界もぼやけて、冷や汗も出てきた。
 ―やばい……手に力入らない……
「おいっ!遅れてんぞ!」
奏音は、ギターの音で響の異変に気付いた。
「おいっ!どうした?」
響は体に力が入らず、バタッという音を立てて倒れこんだ。
「おい!大丈夫か?おい!」
 
 響が目を覚ますと、見覚えのない部屋のベットに寝かされていた。
「あっ!気づいた?大丈夫?」
心配そうな顔をして部屋に入ってきたのは、直樹だった。
「直樹先輩……?」
「あっ、ここ俺の部屋!響ちゃん急に倒れるから運んできたんだよ~」
直樹はそう言いながら、水の入ったコップを響に渡した。
「すいません……、ご迷惑をおかけして……」
響は、水を口に含んだ。
「でもよかった~!顔色よくなってきたね~!なんか体、変なところない?」
「おかげさまで、もう大丈夫です!前にも同じような症状に襲われたことあって……多分寝不足が原因だと思うので……」
「そんなに寝てないの?」
「恥ずかしながら、最近音楽に夢中すぎて、溜まりに溜まった大学の課題に追われてしまって……」
響は苦笑いして、再び水を口に含んだ。
「そうなんだ~。無理しすぎなんだよ~響ちゃんは~」
「まあ、私、容量悪いんで無理でもしないと、勉強も音楽もなんて……こんなんで倒れてたら、奏音先輩に見捨てられちゃいますね~」
響は、小さくため息をついた。
「響ちゃんのそのまっすぐさが、奏音を変えたのかなぁ~」
直樹は、はにかみながら、言った。
「あれっ?白河先輩は?」
響は、ふと気づいたように尋ねた。
「あ~、響ちゃんが倒れてすぐ、俺を呼びに来たんだけど、その直後に奏音も頭痛がひどくなっちゃって、帰っちゃった……」
「えっ?大丈夫なんですか?やっぱり雨なのに練習したからですかね~?」
「大丈夫だよ!いつものことだから!」
響の動揺に直樹は笑った。
「自分の方が大変だったのに、人の心配ばっかりだね~」
「いや……だって……」
響は直樹から目を逸した。
「奏音さ、絶対音感だからってのもあるんだけど、雨の音に異常な恐怖心を持ってるみたいで、雨の日は頭痛と耳鳴りで、何もできないんだ……」
「そんなに……」
不安そうな顔の響に直樹は笑いかけた。
「だから俺もびっくりしたよ!雨なのにあいつ、ギター弾いて歌ってんだもん!響ちゃんと音楽やるのが相当楽しいんだろうね~」
響は、少し照れくさそうに笑った。
「そうなんですかね~そうだったらうれしいなぁ~!」
「響ちゃんのおかげで、確実に奏音は、一歩ずつ前に進んでる!不器用でめんどくさい奴だけど、これからもよろしくね~」
直樹の真剣な顔に響は、思わず吹き出してしまった。
「直樹先輩まるで、白河先輩を嫁に出す直前のお父さんみたいですよ~」
「やばっ!俺、奏音を溺愛しすぎだね~!」
その後、部屋中に二人の笑い声が響いた。 
 響は、このとき、少しずつ奏音に近づけてる……そう感じていた。もっと、一緒に音を奏でたい!奏音の抱える闇なんて吹き飛ばしてやる!とさえ思っていた。響は知るよしもなかったのだ……このとき奏音が大きな闇の中で溺れていたことに……奏音の抱えていたものは一人では抱えきれないほど、大きな物だったということに……


 あの日から丸一週間、奏音は練習に来なかった。響は、体調でも崩したのかと思っていたが、ラインの既読もつかず、心配になったため、直樹と一緒に、奏音の家を訪ねることにした。
「何?こんなところまで……なんか用?」
家の外に出てきた奏音の第一声が、それだった。奏音の響を見る目は、氷のようだった。
「白河先輩!どうして練習に来ないんですか?何かあったんですか?体調が悪いんですか?」
響が、冷え切った空気を破るように言った。奏音は、感情をかみ殺したような顔をしていた。
「もう辞めた」
「えっっ……」
響は言葉を失った。
「なっ…なんでですか?私がなかなか一人前になれないからですか?」
奏音は黙り込んだ。
「でも……、私だんだんうまくなってるんですよ!まだまだうまくなれますよ!だから……」
奏音は鼻で笑った。
「うまくなった?あれでか?お前、ずいぶん自己評価が高いんだな!そうだよ!お前がいつまでたっても一人前になる気配がないから、バカバカしくなったんだよ!だからもう練習には行かない」
響は、奏音の言葉に打ちのめされてしまった。
「先輩は、今まで一度でも、私の成長を感じてくれたことはなかったってことですか?」
響は、涙を必死に堪えながら、奏音を見つめた。
「あるわけないだろ!いい加減うんざりなんだよ!お前とは、もう一緒に音楽はしない!不合格だ!」
響の瞳から涙がぽろっと落ちた。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」
響はそれだけ言うと。そのまま背を向け、走っていった。
「響ちゃん!」
追いかけようとした直樹の手を奏音が掴んだ。
「やめろ!引き留めるな!」
直樹は奏音の手がブルブル震えているのに気が付いた。
「なんであんなこと言った?本心じゃないだろ!お前あんなに楽しそうに響ちゃんと音楽してたじゃねーか!なのにどうして?」
「……」
奏音は俯いた。
「奏音?」
「怖くなった。これ以上あいつと関わるのが怖くなった……。やっぱり俺は、音楽なんてやっちゃいけないんだよ!」
奏音は相当思いつめた様子だった。
「まさか、彩音と重なってんのか?」
奏音は、黙り込んだ。
「彩音と響ちゃんは、違うだろ!」
「……」
「別に、彩音が死んだのだって、お前のせいじゃないだろ!なんで一人で抱え込むんだよ!」
「全部俺のせいなんだ。俺の音楽のせいなんだよ!俺の音楽は、人を不幸にする……。もう誰も巻き込めない」
「そんなことない!なんで、そんな……」
「もう、放っておいてくれよ!」
奏音は死んだような目でそう言い放ち、家の中に入っていった。直樹は、奏音の悲しい言葉に何も言い返せなかった。

 翌日、響は、直樹のところにやってきた。
「直樹先輩!今日からまた、心機一転練習するので、お部屋を貸して頂いてもいいでしょうか!」
響の目は腫れ上がっていたが、スッキリした顔をしていた。
「響ちゃん、大丈夫?昨日のこと……」
響は一瞬顔が曇ったが、すぐに表情を修正した。
「だめでしたね~!やっぱり!力不足でした!直樹先輩もせっかく協力してくれたのに、本当に不甲斐ないです!」
響は無理に笑顔を作った。
「響ちゃんのせいじゃないよ!これは、奏音自身の問題なんだ……だから、その……」
「慰めはいいです!落ち込んでる時間ないんで!青空ライブでは、一人でも最高の演奏して、ちょっとでも、白河先輩をギャフンと言わせてやるんです!」
響の強気な発言に直樹は思わずにやけた。
「さすがすぎる~。大したもんだよ、響ちゃんは」
「そうですか~?私、立ち直るの結構早い方なんで!」
そういう響の表情は少し無理をしているように見えたが、直樹はあえて触れなかった。
「じゃあ、練習頑張ってね!響ちゃん!」
「はい!ありがとうございます!」
響は、柔らかく笑った。


 それから、響は、一人で、作詞作曲に挑戦しながら、黙々とギターと歌の練習をした。ただ、一人だと何もかもうまくいかず、苦しんでいた。奏音は、あれから大学にも来なくなった。音楽の喪失感が抜けずに抜け殻状態になっていたのだ。直樹が奏音を訪ねても、会ってくれなかった。まるで音楽を辞めた直後の奏音に戻ってしまったようだと、直樹は苦悩していた。

 「あ~~!何も思いつかない~!」
11月3日、青空ライブも近づく中、この日も響は一人、直樹の家で作曲をしていた。適当に弾き語りをするのと、一曲まるまる作るのとでは、訳が違った。響の頭の中で音符がぐるぐるするだけで、アイデアなんて浮かんで来なかった。響は、頭をくしゃくしゃさせながら、ふと物置棚を眺めた。物置棚には、難しそうな音楽の本とアルバムみたいなものと小さな段ボールが置いてあった。好奇心でアルバムを抜き取ると、小さな段ボールが落ちてきた。中からは、たくさんCDが出てきた。
「何これ?」
出てきたCDは、軽く百枚は超えていた。一つ一つにタイトルが書かれいた。
 ―何かの曲っぽい?
響はいくつもあるCDのうちの一つをCDプレイヤーにセットした。プレイヤーから流れたメロディーが部屋の中で弾けた。響は、驚愕した。
 ―なに、これ……整った旋律、頭に刻まれていくような音、そしてメロディーの世界観に合うきれいな高い声、すごい……
響は、思わず聞き入ってしまった。どんどん曲に入り込んでいき、時間はあっという間に過ぎていった。  
「いい曲でしょう!それ!」
直樹の声に、響は、我に戻ったように慌て曲を止めた。
「すみません!勝手に……」
響は、バツが悪そうな顔をした。
「いや、いいんだよ!いずれ聞かせようと思ってたから、奏音の作った曲……」
「えっっ?白河先輩が作ったんですか?」
響は、目を丸くした。
―やっぱり、さすがだなぁ~。でも、あの歌声って……
「これ、どなたが歌ってたんですか?白河先輩の声じゃないですよね?」
直樹は、少し切ない顔になったが、すぐに笑顔に戻して、響が、さっき取り出したアルバムを開いて、見せてきた。開かれたページには、高校時代の直樹と奏音ともう一人、同い年くらいの、女の子が写っていた。
「この方が白河先輩の曲を?」
「そうだよ……」
直樹は懐かしそうにアルバムを見つめていた。アルバムには、三人の小学生位の時から、高校生までのたくさんの写真が閉じられていた。
「ずっと三人で仲が良かったんですね!」
響もアルバムを覗くように見ていた。
「そう……。この子は、桜木彩音(さくらぎあやね)って言って、俺ら三人は、小学校四年生の時出会ったんだ~。奏音、母親のことがあって、音楽から離れてたんだけど、俺と彩音が奏音にもう一度音楽を始めさせたんだ~。それからは、この物置部屋で音楽をやるようになった。まあ、途中からは奏音と彩音の世界観がすごくて、俺は外れちゃったんだけどね~」
直樹はくすっと笑った。
「そうだったんですね……」
「それからは、奏音と彩音は唯一無二の存在になったんだ~。親戚の家で居心地悪かった奏音にとっても、施設育ちの彩音にとっても、この物置部屋が唯一、居心地の良い場所になったみたいだった。毎日夢中で二人の音を奏でてた。俺は、二人が作った曲が大好きだったんだよね~!」
直樹は無邪気な顔で笑った。
「本当に素敵な曲ですよね~!震えました!でも、こんなにいい曲作れるのに、どうして辞めちゃったんですか?」
小さな沈黙が走った。
「直樹先輩?」
直樹は、静かにアルバムの写真を見た。
「彩音、死んだんだ……。高校二年生の時、癌で……」
「えっ?……」
響は、言葉を失った。
「ちょうど、今日が命日なんだよね~。だから墓参りに行ってきたところ……」
直樹はまだ、写真を見つめていた。
「そうだったんですか……」
「彩音は、最期まで、本当のこと言わなかったんだ……。入院したときも、盲腸だって言って、俺らは、彩音が死ぬまで、何にも知らなかったんだ……。聞いた話だと、発見された時には末期で、余命僅かだったらしい……。俺が思うに彩音は、最期まで、俺らに、普通の仲間として接して欲しかったんだと思う。でも奏音は、彩音が末期になるまで、癌に気づけなかったのは、自分と音楽をやったせいだって思い続けてるんだ……」
「そんな……」
響は、やるせない思いになった。
「奏音さ……、母親に言われたらしいんだ……奏音の音楽は人を不幸にするって……。その直後に母親は自殺して、まだ幼かったあいつにとって、相当ショックだったんだろうなぁ~、自分が音楽をやることで人を不幸にするって思い込んじゃったんだよね~。だから、彩音が死んだことを、自分の音楽のせいだと責めた。それから、奏音は、一切ギターを弾かなくなった、歌わなくなった。音楽を辞めたんだ……」
直樹は悔しそうな、悲しそうな顔をしていた。
「そんなの、白河先輩のせいじゃないじゃないですか!どうして、そんな……」
「そう……。奏音のせいじゃない……。でも奏音にとって彩音は、初めてで、唯一の理解者だったから、簡単には彩音の死を受け入れられなかったんだ。自分の無力さを恨まずにはいられなかったんだと思う。奏音、彩音の葬儀にも出席しなかったし、お墓参りにも未だに行けてないんだ。あいつの時計は、彩音が死んでから、止まったまんまなんだ……」
直樹は一通りアルバムを見終わって、細いため息をついた。響は、奏音の重い過去に言葉が出なかった。
「だから白河先輩、あんなに音楽はもうやらないって……」
「俺はね……、空っぽになった奏音にもう一度音楽の楽しさを思い出してほしかったんだよね~。だから、本当にうれしかったんだよ!響ちゃんが奏音にもう一度音楽を始めさせてくれて……。最近の奏音、本当に生きてるって顔してたよ!ありがとね!」
直樹は響に笑いかけた。
「じゃあ、なんで私、認めてもらえなかったんですかね~。やっぱり私じゃ、彩音さんの代わりになれないってことなんですかね~」
響は、顔を伏せた。
「いや、それは違うと思うよ!」
「え?」
直樹はタイトルの書かれていないCDを渡してきた。
「聞いてみな!」
響は、直樹に言われるがままに、そのCDをCDプライヤーにセットして、流した。歌は入っていなかったが、高音のきれいなメロディーが流れた。心を奪われるようなすばらしい仕上がりだった。
「これって……?」
「これさ、最近奏音が、鼻歌してた曲だよ!遂に完成してたみたい!最近見つけたんだよね~。これって、奏音が響ちゃんに作った曲なんじゃない?歌は響ちゃんに入れてもらうつもりで……」
「そんなわけ……だって、私のこと、端から認めてないのに、私のために曲を作るわけないじゃないですか!」
直樹は首を振った。
「奏音をずっと見てきたから分かる、奏音は響ちゃんに出会った時から、響ちゃんの才能に惹かれてたよ!もちろん今でもね!だからこの前言ったことは、全部本心じゃないと思うよ」
「なんでそんな……」
響は頭がぐちゃぐちゃになっていた。
「響ちゃん、この前急に倒れたでしょ?奏音、それで彩音のこと思い出しちゃったんだと思うんだよね~」
「えっ?」
響は、呆然としていた。
「奏音、これ以上響ちゃんと関わるのが怖いって言ってた。奏音はこれ以上響ちゃんと音楽をやることで、響ちゃんを不幸にするって思ってるみたい……」
響は、大きくため息をついた。
「そんなことですか?白河先輩そんなこと気にしてるんですか?何それ、すんごく落ち込んで損した!」
「響ちゃん?大丈夫?なんか鼻息荒くなってるよ!」
「荒くもなりますよ!勝手に勘違いするなって話ですよ!私が不幸になる?そんなわけないじゃないですか?逆に白河先輩と音楽ができなくなった今の方が、不幸のどん底ですよ!本当にしょうもない人ですよ、白河先輩は!」
怒鳴り声の響に直樹は噴出した。
「ごめん、いや……、彩音もこんな風に怒りそうだな~っと思って……」
「私、もう一度だけ、白河先輩と話してみます!やっぱり納得いかないので……」
直樹はまたくすっと笑った。
「いいの?あいつめんどくさいやつだよ?素直じゃないし。それでも響ちゃんは一緒に音楽やりたいんだよね?」
響は微笑んだ。
「はい!もう慣れました、何もかも!」
「そっか!」
直樹はスマホを取り出して何かいじり始めた。すると響のスマホに着信があった。
「奏音、今、みなとみらいにある象の鼻公園にいると思うよ!彩音との思い出の場所だから、月命日は絶対そこに行ってるはず!スマホに場所送っといたから!」
響はスマホを見て笑った。
「さすが、幼馴染ですね!ありがとうございます!じゃあ、行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
走り出す響を、直樹は笑顔で送り出した。
 ―彩音……。どうやら、奏音は、また最高のパートナーを見つけられたみたいだよ……。安心してよ、奏音が道を誤らないように見張ってるから!そっちにも奏音の音楽届けるからね!
直樹には、写真の中の彩音がより一層、笑っているように見えた。

 奏音は、象の鼻公園で一人、遠くを見つめた。祝日であったこともあり、公園内は、たくさんの人でにぎわっていた。奏音は、雑踏の中、過去の記憶に浸っていた。象の鼻公園は奏音と彩音が曲のアイデアを求めてよく来ていた場所だった。彩音の月命日の3日には、こうして、奏音は一人、象の鼻公園で彩音との思い出と向き合っていた。罪悪感、後悔、無力感、たくさんの感情に襲われながら……。
「白河先輩!」
少し肌寒い、からっとした、秋の風と共に、響の声が響き渡った。奏音は、顔を伏せて振り返らなかった。
「白河先輩~!」
響はさらに公園中に響き渡る声で奏音を呼んだ。完全に響と奏音は、公園中の注目の的になった。奏音は、小さくため息をつき、響の手を引き、芝生にある石段に座らせた。
「おまえ、声でかすぎんだよ!」
そう言って、奏音も響とかなり距離を空けて、石段に座った。
「先輩が無視するからじゃないですか~!」
響は奏音を睨み付けた。
「何の用だよ。もうお前とは、音楽はやらないって言っただろ!」
奏音は、響から目を逸らした。
「確認しに来たんです!私と音楽をやりたくないのは、本当に私に才能がないからですか?」
「そうだって言ってんだろ!」
奏音の口調が強くなった。
「おまえが奏でる音、歌は、不愉快だ!この先どんなに練習しても時間の無駄だ!」
「私聞いたんです!直樹先輩から……」
「は?」
「桜木彩音さんのこと……」
奏音は、黙り込んだ。
「答えてください!先輩が練習に来なくなったのは、私が彩音さんと重なって見えたからなんですか?私が不幸になると思ったからですか?」
「……」
「白河先輩!」
「お前には関係のないことだ」
奏音が冷たく言い放った言葉に響は苛立った。
「関係ありますよ!一応先輩の意思で私に関わってきましたよね?そんでさんざん私をその気にさせておいて、急にポイッてのはないんじゃないですか?」
奏音は、深くため息をついた。
「教えてください!彩音さんのこと!白河先輩が抱えていること!私にも聞く権利があると思います!」
奏音は、再び大きなため息をついた。
「分かったよ……」
奏音は、ゆっくりと話し始めた。
「彩音は、唯一俺の音楽を理解してくれた奴だった。彩音と出会ってからは、より一層俺の世界は音楽一色になった。あの物置部屋で、毎日二人で、夢中になって音を奏でてた」
奏音の表情が一気に緩んでいった。
「二人でたくさん曲も作った。俺が作曲して、彩音が作詞する。いつもそうやって二人で一つの曲を作ってた」
「青春ですね……」
「そうだな……。家に居場所のなかった俺にとって、彩音と音楽やる時間は、生きがいそのものだった。そんな時間を失うなんて、考えもしなかった……」
「彩音さんが癌を発症したんですね……」
奏音は表情を暗くした。
「高校二年生の春過ぎくらいだったかなぁ~、彩音がよく体調を崩すようになったのは……。でも、俺の前では、元気そうに振舞うから気にも留めなかった。なんせ俺の頭は音楽一色……、彩音の体調の変化にも、気持ちの変化にも気づくことができなかったんだ。でも多分そのときに、彩音は末期がんを診断されていたんだと思う……」
奏音の顔はどんどん曇っていった。
「なのに俺……、最近声にハリがない、心に響かない、歌詞がありきたりだとか言って、喧嘩もいっぱいして……。彩音は、自分に迫ってくる死の恐怖に襲われてたはずなのに、俺は、何も気づかないどころか、追い詰め続けた……」
「白河先輩は知らなかったんですよね?だったら……」
「だとしても、俺は何も気づかなかった……。何年も、ずっと一緒に過してきたのに、何も気づいてあげられなかった。そんな自分が許せないんだよ……。俺がこんなだから、彩音は入院しても……最期まで自分の本当の病名を言わなかったんだと思う……。すぐに治るとか嘘をつかせてたんだと思う……。作り笑いさせてたんだと思う……」
「そんなこと……」
「俺が音楽をやると、人を不幸にするんだよ!俺は、音楽をやると周りが何も見えなくなる。音楽が楽しすぎて、自分勝手になって、周りの人を傷つける……。だから、母親が自殺した。彩音を傷つけた……。全部……、全部俺が悪いんだ……」
「なんで……、そうやって、全部白河先輩が悪いなんて言うんですか?」
奏音は、すごい目をして響を見てきた。
「だって、俺最低だろ!自分の音楽が大切すぎて、弱っていく彩音に会って、毎日曲の話ばっかり、彩音と最期に交わした会話だって、曲の話だった。本当に最低だろ……」
「彩音さんはそれを望んでたんじゃないですか?」
「は?」
今度は、響が奏音を鋭い目つきで見返した。
「先輩と同じように、彩音さんも白河先輩と音楽をしてる時間が大切だったんじゃないですか?だから、先輩に病名を明かさなかった。もし明かしたら、今まで通りの音楽ができなくなるから!彩音さんは先輩に作り笑いをしていたんじゃなくて、本当に笑ってたんですよ!きっと、先輩と過ごしている時は、自分が病気であることを忘れられたんですよ!それくらい彩音さんにとって、大切だったんじゃないですか?」
奏音は響を睨んだ。
「そんなの、お前の勝手な想像だろ!彩音のこと何も知らないくせに、そんなきれいごと言ってんじゃねーよ!」
響はさらに言い返した。
「分かりませんよ!彩音さんは本当はどう思ってたかなんて!だって私、彩音さんじゃないし!だけど、もし私だったら、彩音さんと同じことします!」
「なんで?」
奏音の声も上がっていた。
「だって、先輩と音楽やってるときって、最高に楽しいですもん!私が過労で倒れた時も、私に無理させたって思ってるかもしれませんけど、本当に疲れとか、悩みとかもう全部忘れちゃうくらい、先輩の音楽に引き込まれちゃったんです!先輩は、音楽やると自分勝手になって、周りが見えなくなるって言いますけど、そうなっている先輩とずっと音楽やりたいって思うんです!気持ちが熱くなるんです!この時間がずっと続いたらって思うんです!彩音さんだって同じ気持ちだったんじゃないですか?」
奏音は響から顔を背けた。
「だとしても、俺は、彩音にありがとうも言えなかった。他にも……、伝えたい事たくさんあったのに……、何も言えなかった……」
奏音は、顔を伏せた。
「じゃあ、伝えに行きましょうよ!先輩、まだお墓参りにも行ったことないんですよね?」
奏音はさらに深く顔を伏せた。
「受け入れられなかったんだ。彩音が死んだなんて……」
「彩音さん、待ってますよ、きっと!ちゃんと伝えに行きましょうよ!先輩の気持ち……。それで、ちゃんとお別れしましょう!」
奏音はしばらく顔を伏せたままだったが、その後、小さく頷いた。

 彩音さんのお墓は、象の鼻パークからバスで三十分位の、彩音さんが育った施設のすぐ近くにあった。奏音は、彩音のお墓をしばらく見つめ、丹念に磨いた。響も、お墓を磨くのをただ、黙って手伝いながら、奏音の様子を見守っていた。お墓の掃除を終えても、奏音はしばらく目を瞑って立ち尽くしていた。まるで、彩音と心の会話をしているようだと響は思った。
「じゃあ、行くか!付き合わせて悪かったな」
奏音は、目を開きそう言った。
「そこは、付き合ってくれて、ありがとう、でしょ!」
響がにやつきながら言うと、奏音は、目を逸らした。
「もしかして、彩音ちゃんのお友達ですか?」
話しかけてきたのは、六十代くらいの女性だった。奏音は、少し目を見開いた。
「私、彩音ちゃんが育った施設の園長をしている者です。ありがとうございます。彩音ちゃんに会いに来てくれて……」
「ああ、そうだったんですか?初めまして!生前、彩音さんと仲良くさせていただきました。白河奏音と申します」
「白河先輩の大学の後輩の山内響と申します」
その園長は、奏音を見て、目を丸くした。
「奏音君……?」
「はい……」
奏音が不思議がっていると、園長は奏音の手握って、奏音のことを見つめた。
「あなたが……あなたが奏音君なのね!ずっとお会いしたかった……。来てくれてありがとう……」
「はい……。来るのが遅くなって申し訳ありません」
奏音は小さく会釈した。
「あなたに、見てほしいものがあるの!一緒に園まで来てくれる?」
奏音は少し戸惑った顔をしたが、すぐに、笑って
「はい!」
と答えた。

 奏音と響は彼女に連れられて、彩音の育った施設を訪れた。案内された部屋には、ギターやピアノなどの楽器が少し置いてあり、その横には、彩音さんの写真がたくさん飾られていた。園長がお茶を二人の元へ、運んできた。二人は軽く会釈した。
「彩音ちゃん、生まれて間もないころにこの施設に預けられてね……。なかなか周りの子とコミュニケーション取れてなくて、いつも一人でいたものだから、この部屋で、私がよく一緒に遊んだわ~。彩音ちゃん楽器が大好きでね~、よく一緒に演奏したり、歌ったりしてたのよ~」
園長は懐かしそうに笑っていた。
「そうなんですか~」
「彩音ちゃん、小学校に入っても、なかなか友達できなくてね~、ずっとこの部屋で遊んでるもんだから、心配したわ~。でも、小学校四年生になって、急に友達ができてね、すっごく明るくなったのよ!よく私に話してきたわ~!私の親友は、奏でるに音って書いて奏音っていうんだよ!名前の通り、すごく素敵な音を奏でる天才なんだよって!彩音ちゃんは、名前しか教えてくれなかったから……。あなただったのね」
「そうですか……、彩音そんなことを……」
奏音は、切なそうに笑った。
「一度、お礼を言いたかったんです!彩音ちゃんと仲良くしてくれて、支えてくれて本当にありがとう!」
園長は涙を流しながら、深々と会釈した。
「そんな……、こちらこそ、彩音さんには、たくさん支えてもらいました。ありがとうございました!」
奏音も深々く会釈した。
「それで、僕に見てほしいものというのは……?」
奏音の問いかけに、園長は、静かに立ち上がり、一冊のノートをとってきた。
「これ、彩音の闘病日記のようなものです!あの子まめじゃなかったから、この一冊だけなんだけど、奏音君に読んでほしくて……」
奏音は、静かにそのノートを受け取った。
「僕が読んでもいいのでしょうか?」
奏音は、園長の方を見ると、園長は、優しく笑った。
「もちろん。あなたに、読んでほしいのよ」
園長の言葉で、奏音は静かにノートをめくり始めた。

 5月19日
腎臓がん末期と診断された。余命半年だって。
急にそんなこと言われても訳わかんないよ。
私死んじゃうの?

 5月26日
分子標的治療を始める。
通院でいいから、奏音と音楽できる!音楽やりながら、病気もやっつけてやる~!髪の毛抜けないし、ラッキー!

6月14日
奏音と喧嘩しちゃった。でも奏音が正しい。病気を理由に音楽にまで、支障をきたしたらだめだね!

7月2日
治療あまり上手くいってないみたい。でも音楽やって元気出てきた!奏音ありがとう!

8月8日
演奏中、貧血で倒れちゃった。でも、奏音にも直樹にもただの寝不足だって嘘ついちゃった。本当のこというのが怖いなあ~。

8月31日
体調悪い~ああ~奏音と音楽やりたかった~
病気のばかやろ~

9月11日
入院することになった。奏音と直樹には、盲腸だって嘘ついちゃった。ごめんね。でも私は死ぬまで奏音と音楽をやりたい!自分勝手だけど、許してね

10月3日
体力がなくなって、歌えなくなっちゃった。自分の体が憎い。もうやだよ~

10月31日
奏音が新曲を作って持ってきてくれた!よっしゃ!歌詞考えなきゃ!私はまだ生きるよ!

11月1日
歌詞完成したよ!でももう、無理かも。体中が痛いよ~。新曲、奏音と一緒に演奏したかったなぁ~歌いたかったなぁ~ごめんね、奏音。ごめん

11月2日
みんなありがとう
 闘病日記は、そこで終わっていた。奏音は、日記を読み終わり、目を上げようとしたときに、感じた、冷たい水滴の感触から、自分が泣いていることに気が付いた。
「すみません……すみません……」
奏音は抑えようとしたが、溢れる涙を止められなかった。それにつられるように園長も涙を流した。奏音は、ノートを閉じようとすると、一枚の紙が落ちてきた。その紙には何やら詩が書かれていた。
「これって……」
奏音が園長を見ると頷いて、
「彩音ちゃんが最期に書いた詩よ!」
奏音が鼻をすすりながらその紙を開いた。

 空色の歌

 木枯らしに吹かれ 目覚めた朝
 君との記憶 突然によみがえる
 二人で弾いた ギターの音色
 塗り重ねた 歌声も
 二人で奏でた このメロディーを
 二度と忘れはしないよ
 この歌を 空まで届けていこう
 青色と音色が混じりあっていく
 君との出会いが世界を変えた
 その彩りを 奇跡と思うんだ 

 春風に吹かれ 目覚めたとき
 君の居場所を 探すんだろう
 君の弾く 弦の振動
 鳴り響く ビブラートも
 変わらずきれいな そのメロディーを
 もう一度聞きたいと思うよ
 その声を 空まで届けておくれ
 涙色が上塗りされていく
 君の歌は 世界を変える
 その響きを 奇跡にするんだ

 忘れないよ 君と過ごした時間
 君と奏でたメロディーを
 ありがとう 二度と忘れはしない

奏音は静かに紙を置いた。それとともに、さらに多くの涙が噴出してきた。
「すみません……。少し泣いてもいいですか?」
園長は奏音を見て、微笑み、小さく頷いた。響は、奏音が泣き止むまで静かに見守っていた。

 施設を後にした響と奏音は、帰路のバス停ついていた。
「げっ!次のバス三十分後?」
響が叫ぶと、奏音は、黙ってベンチに腰を掛けた。響もベンチに腰を掛けると、きれいなオレンジ色の空を見つめた。
「あっ!白河先輩!お腹空きません?」
ハイテンションで話し始めた響が、園長からもらった手土産をごそごそと漁りだした。
「はい!一緒に食べません?横浜名物、ありあけのハーバー!あっ、先輩甘いのだめでしたね……。すみません……」
響は取り出したお菓子を袋に戻そうとしたが、奏音は、そのお菓子をつかみ取った。
「食う!」
奏音はそれだけ言って、お菓子にかぶりついた。響は一瞬固まったが、すぐにつられてお菓子を食べた。
「う~ん!おいしい~!」
響は甘いものにテンションを上げていると、奏音が食べかけのお菓子を響に押し付けてきた。
「やっぱり甘んめ~わ!やる!」
「なんれすか~!食えるんやないんれすか?」
響はもぐもぐしながら、言葉にならない言葉で言い返した。奏音はその様子を見てくすっと笑った。
「彩音好きだったんだよね~、このお菓子!いっつも食べてた……。でも俺には、甘すぎるや」
「そうれすか~、こんなにおいしいのになぁ~」
響は、黙々とお菓子を食べ進めた。
「はあ~!おいしかった!」
「太るぞ!」
「大きなお世話です~!」
そう言って響がブーたれると奏音は、また笑った。
「先輩、もう本当に音楽やらないんですか?」
奏音は、急に真面目な顔に戻った。
「簡単じゃないんだよ……。まだ気持ちが追いつかない……。それしか言えない……」
奏音は遠くをぼんやり見つめて、話した。
「白河先輩!知音って知ってますか?」
「知音?なんだそれ!」
「故事成語です!昔、中国で琴の名手が、自分の音を理解してくれた親友が死んだ後、琴の弦を切り、二度と弾かなかったことから、心の通じ合った親友って意味があるんです!」
「文学部か!」
奏音が鼻で笑うと響が睨んだ。
「文学部をバカにしないでください!私、思うんですよね~、親友はきっと死んじゃってからも、その人の琴、聞きたかったんじゃないかなぁ~って……。その人と親友は空を介してつながってる、それなら、琴を辞めないで、空の上まで響かしてあげればよかったのにって……」
「なんだよ……。だから彩音も俺の音楽を聞きたがってるって言いたいのか?」
奏音は、少し、馬鹿にしたような顔をして響を見た。
「そうですね~。私は、彩音さんが最期に作った詩から、そんな感じがしたんですけど……」
響は奏音を見て笑った。
「やっぱりそう思うよな~あの歌詞!俺は、また音楽を始めても許されるのかなぁ~……。彩音はまた、俺の音楽を認めてくれるかなぁ~……」
奏音の声がバスの音に消えた。
「大丈夫ですよ!難しいことはよく分かんないですけど、白河先輩の音楽最高ですよ!」
「なんだよ……、それ……」
奏音はくすっと笑った。
「ほら、先輩!バス乗り遅れちゃいますよ!」
バスに乗ってからは、奏音も響も一言もしゃべらず、ただ静かに外を眺めていた。

 翌日、響は、気を取り直して直樹の家で作曲に取り掛かっていた。響は、懸命にギターを鳴らしていたが、ずっと奏音が作った曲が頭から離れず、気づいたらその曲を弾いていた。部屋の扉が開き、秋風を浴びるまで無中でギターを弾いていた。
「寒っ!」
響は、扉の方を見て、急にギターを弾く手を止めた。
「お前勝手に聞きやがったな」
「白河先輩?」
奏音は響のところへ歩み寄ってきた。
「どう?気に入った?その曲?」
奏音は少し照れくさそうな顔をしていた。
「はい!最高です!」
「そうか……」
奏音はにやけそうになるのを堪えるため、口を抑え込んだ。
「俺、まだ分かってない。俺がまた音楽をやっていいのか……。また誰かを傷つけるかもって、まだ怖い……。でももう一度お前と音楽がやりたい!青空ライブ一緒に出てもいいか?」
奏音は恐る恐る、顔を上げた。
「はい!もちろんです!奏音先輩!」
響は、満面の笑みで答えた。

 青い空、賑やかな観客、みんなの笑顔……
ステージに上がると、すべてがキラキラして見えた。
「それでは、CHIINのお二人による演奏です!」
アナウンスの声で奏音先輩が私を見てきた。
「行くぞ!響!」
「はい!」
ここにいるみんなに、私たちの歌が届きますように……。
私たちの音楽は、これから始まる!  

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