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「サポーター」 エピソード0

「もう選手として水泳をやるのは諦めた方がいいと思います」


医師のその言葉で美緒(みお)の中の何もかもが崩れ落ちた。


 不運な事故だった。歩いていた美緒に、後ろから自転車が突っ込んで来たのだった。自転車に乗っていた高校生は、スマートフォンを見ながら運転していたらしい。


 医師からの詳しい説明があった。怪我は重度の半月板損傷--。日常生活にはさほど支障はないが、膝に少し負担がかかる動きは避けた方がいい、つまりスポーツを選手として水泳をやるのは厳しいというような説明がしばらく続いた。美緒はただ、それを呆然と聞いていた。


 桜庭美緒(さくらばみお)は、3才から水泳を始め、小学校、中学校と全国大会に出場するほどの秀でた才能があった。高校は水泳の名門校の星山高校に入学して、すぐにレギュラーとして泳いできた。美緒のすごさは強さだけではなかった。美緒の泳ぎは軽やかで、素早く、何より美しく、水との抵抗力を全く感じさせず、誰もの目を引き寄せる素晴らしいものだった。


 高校二年生の夏--水泳選手として、まだこれからという時に美緒の羽はもぎ取られた。二度と水泳ができない体となったのだった。


 美緒は、事故から1ヶ月位で退院した。-ー自由を失った膝と共に……。入院していた1ヶ月間は、毎日、味の薄いご飯を食べ、数時間のリハビリをして、あとはベットでぼ-っと過ごした。こんなにも生きていることがつまらなかったのは初めてだった。美緒は1ヶ月ぶりに家に帰ってすぐ自分の部屋に駆け込んだ。そして、ベットに倒れ込んで、泣いた。リビングにいる家族には聞こえないように布団に顔を押し付けて、布団がびしょびしょになるまで泣いた。

 水泳は美緒の全てだった。退院できても、もう、誇りだった水に自由な足は帰って来ない--。

 -大好きだった。ただただ、泳ぐことが楽しかった。あの、プールサイドで香る塩素の匂いも、水の感触もたまらなく、大好きだった--。


 美緒が目を覚ますと朝になっていた。寝過ぎたせいか、体がだるく感じた。この日から新学期であったため、焦って時間を確認すると、6時になっていた。

 ―やっばっっ!朝練間にあわない~!

美緒は慌てて、エナメルバックに荷物を詰め始めたが、途中で手を止めた。

 ―そうだ……。もう朝練行かなくていいんだった……。

エナメルバックに詰めた部活道具を取り出して、筆箱と財布とタオルだけに詰め直した。そしてゆっくりと制服を着て、リビングへ移動した。

「おはよう!」

リビングに入るといつも通り美緒の母が味噌汁を温めながら言った。

「おはよう……」

美緒が席に着くと、ご飯、味噌汁、納豆、目玉焼きといつも通りの朝ご飯が並べられた。ずっと味の薄い病院食を食べていたせいか、それらはとてもおいしく感じた。

 ―こんな時でもご飯はおいしいんだなぁ~

朝食を済ませて、歯を磨いていると、インターホンが鳴った。急いで玄関を開けると、幼なじみの北山菜月(きたやまなつき)が立っていた。

「菜月?どうしたの?」

「いや、一緒に学校行こうと思って……」

菜月は美緒と幼稚園から一緒で、同じ高校に通っている。いままでは、美緒は水泳部の朝練で朝が早かったため、一緒に登校することはほとんどなかった。美緒は、菜月が気を使ってくれているのだと悟った。

「うん!ちょっと待ってて!」

 -本当は誰とも話したくないんだけどなぁ~


 美緒の家から学校までは、電車と徒歩合わせて30分くらいだった。その間、菜月は、当たり障りのない会話を続けた。怪我の調子はどうだとか、そろそろ文化祭だねとか--。水泳の話題には一切触れてこなかった。美緒は下手に気を使われていることにイライラした。

「ねえ、帰りも一緒に帰ろうよ!」

菜月が別れ際に美緒に言った。美緒は大きくため息をついた。

「いいんだよ~、そんなに気を使ってくれなくても……。水泳できなくなったこと、そんなに落ち込んでるわけじゃないから~」

菜月は悲しそうな顔をした。

「えっ?」

「だから、無理に気を紛らわそうとしてくれなくても大丈夫だって言ってんの!」

「ごめん……でもさ……」

菜月は言葉を詰まらせた。

「もう、うざい!同情とか、いらないから!ほっといてよ!」

美緒はそう言い放つと、勢いよく教室に入っていった。菜月は、立ち尽くすことしかできなかった。


 学校で美緒は、クラスメートにも、水泳部の仲間に腫れ物扱いをされたが、笑って受け流し続けた。そのたびに、傷つき、イラついた。菜月とは、気まずくて、謝ることもできず、避け続けた。そのことで自然と一人で行動することが増えていった。


 そのうち、放課後は、今まで体重制限のため行けなかった、人気のスイーツ店に行って、暴食し、トイレで吐くというのを繰り返すようになった。学校でのストレスと、水泳を失った心の穴を紛らわすためだった。家に帰ると、胃もたれでご飯を食べられないので、すぐに部屋に籠もって、携帯ゲームをやり続けた。しかし、何も気持ちは満たされなかった。あんなにやってみたかったことなのに、一ミリも楽しくなかった。ただ、身体が蝕まれていくだけだった。こんな生活を続けていくうちに、朝も起きることができなくなり、学校まで休むようになった。


 -美緒が学校を休むようになって、一週間が経った日曜日-

 美緒は、この日も昼過ぎに目を覚ました。体を無理やり起こすと、母親が運んできたのであろう、おにぎりやバナナが部屋の勉強机に置いてあるのに気がついた。食欲がわかないため、それから目をそらし、再びベットに横になろうとしたとき、インターホンが鳴り響いた。菜月が訪ねてきたのだった。菜月は美緒の母親に家に入れてもらい、すぐに美緒の部屋に駆けつけて、ドアの外から叫んだ。

「美緒!出かけるよ!準備して!」

「なんで?どこに?」

美緒は突然のことに混乱していた。

「いいから!あと、10分で出かけるよ!」

「は~?」

菜月が急かしてくるので、美緒はいやいや着替えを済ませた。

「よし!じゃあ、行くよ!」

「えっ?ちょっと……」

菜月は半ば強引に、美緒を二人の住んでいる戸田公園駅から2駅移動した十条駅にある、少し年季の入った定食屋に連れて行った。

「えっ……。ここ、何?」

「私のバイト先!」

「はっ?いつの間にバイトなんて……」

「まあ、入って入って~!」

菜月は美緒の言葉を遮り、店内に誘導した。店内は大学生くらいの若い人から、お年寄りまでたくさんの常連客で溢れていた。

「あー!菜月ちゃん!あそこの席とっておいたわよ~!」

厨房から50代くらいの女性が愛想良く顔を出して言った。菜月は指定された席に美緒を誘導していった。美緒はそれにのろのろとついていった。

「今のは店主の奥さんの重田里子(しげたさとこ)さん!そんで、あそこで料理してるのが店主の吉朗(きちろう)さん!夫婦二人で経営してるの!里子さんの料理めちゃくちゃ美味しいんだよ~!」

「あら!嬉しいこと言ってくれるね~!はい!これお冷!」

里子さんがニコニコとして、お冷を運んできた。

「ありがとうござます!里子さん、サバの味噌煮込み定食2つお願いします!」

「えっ……、ちょっと……」

「絶品だから!」

菜月は美緒の言葉を遮って無理やり注文した。里子は少し戸惑いながらもニコッと笑い、

「はーい!少々お待ちください」

と優しく返した。美緒は終始不満そうな顔をしていた。

「菜月ってそういうところあるよね……」

「そういうところ?」

菜月は水を口に含みながら、とぼけた顔をした。

「だから、押しつけがましいところだよ!元気づけようとしてくれてるのかなんだか知らないけどさ、大きなお世話だから!」

「そんなこと……」

「だいたい食欲ないの!ここの食べ物の匂いが充満した空間にいるだけで、吐き気がするの!もう、帰っていい?」

美緒は顔をしかめながら席を立とうとすると菜月が美緒を睨みつけた。

「あんた、死にたいの?」

「は?」

「聞いたよ、おばさんから!ここ最近全然ご飯食べてないんでしょ?そんな真っ青な顔して!」

美緒は顔を手で覆い隠した。

「べっ別にいいでしょ!水泳やめたんだし、無理に食べなくても……、どうだっていいじゃん!」

「どうだってよくない!死ぬよ!がちで!水泳がどうとか、関係ない!生きるために食べるの!」

「なに……、それ……」

菜月の顔はいつもの顔とは違い、真剣な眼差しになっていた。美緒も少し動揺して、水を口に含んで、ヘラヘラと笑った。

「まあ、別にそれはそれでいいかも……。気づいちゃったんだよね~、私って水泳なくなったら、空っぽなんだなぁ~って……。だから、生きてる意味ないなぁ~ってね!」

美緒は明るくふるまうと、菜月が勢いよく水を飲みほして、再び鋭い目を美緒に向けた。

「それ、本気?」

「え?」

「生きる意味がないなんて、本気で言ってんのかって言ってんの!」

美緒の目が少し泳いだ。

「だったらなに?」

美緒も鋭い目で、菜月を見返した。

「甘ったれんな!」

「え?」

「甘ったれんなって言ってんの!そりゃ、水泳してる美緒は輝いてて、それができなくなったのは、私もショックだったし、それ以上に美緒は苦しいと思う……。だけどさ、そこで止まってていいの?ずっと、事故で人生狂わされた、可哀想な人として生きていくの?そんなの辛くない?悲しくない?」

美緒は菜月から目を逸した。

「私、水泳やって輝いてる美緒も好きだったけど、それ以上に何かに夢中になると、努力を惜しまず、突き進む……、そんなまっすぐな美緒のこといいなぁ~って思ってたんだよ!」

「なに、それ……。そんなの別に普通のことじゃん」

菜月は美緒に優しく笑いかけた。

「普通じゃないよ。誰にでもできることなんかじゃない。美緒だからできるんだよ!」

美緒は菜月を見て、一瞬固まったが、また、我に戻ったかのように険しい顔に戻った。

「じゃあ、どうすればいいのよ?水泳出来なくなって、私、もう、空っぽなの!何をしてても、生きている心地がしないの!それなのに……、それでも私は頑張り続けなきゃいけないの?」

美緒の口調が荒くなった。菜月は、動揺することなく、まっすぐ美緒を見つめた。

「だからって、生きている意味がないなんて、悲しいこと言わないで。生きている意味なんて、はっきり分かることの方が、珍しいことなんだよ!私だって、今までこれのためとかって、言えたことないし……」

菜月は美緒に笑いかけた。

「みんな、生き続けることで、じっくりと探していくものなんだよ!だからさ、美緒もすぐには無理かもしれないけど、一緒に見つけて行こうよ!きっと美緒ならまた見つけられるよ!」

美緒の目から大粒の涙が流れ落ちた。

「もう!菜月、いつからそんな、聖母みたいなこと言うようになったのよ~」

「どう?ぐっときたっしょ!」

「バカ!」

美緒は菜月軽く叩いて、笑った。

「サバの味噌煮定食お待たせ~!」

里子が笑顔で両手にサバの味噌煮定食を抱えてきた。

「うわ~!待ってました!この香ばしい匂い!美味しそう~!美緒、食べるよね?」

菜月の質問に美緒は軽くため息をついた。

「はいはい。食べます~」

「偉いぞ~!」

菜月の子供を誉めるような言い方に美緒は菜月に睨みをきかせた。

「うっさい!」

菜月はそう言ってサバの味噌煮を箸でつつき始めた。美緒は味噌汁にすすりながら、菜月を見た。

「菜月!」

「ん?」

「ありがとね……」

美緒は、ぼそっと言った。

「い~え~!」

菜月は美緒に笑いかけた。


 その後、二人で食べたサバの味噌煮はいろんな意味で深く、思い出深い味となった。



 それから2ヶ月が経った。美緒はあれから、菜月と同じ定食屋でバイトをするようになり、少しずつ、水泳のない生活に馴染んできていた。この日も美緒は菜月とともにバイトをしていた。この日は珍しく、店内は大学生で溢れていた。

「今日ってこの辺で何かイベントでもあるんですか?」

美緒は厨房にいる里子に話しかけた。

「ああ!今日は確か、そこの坂下ったところにある東京栄養女子大学の学祭じゃなかったかしら~。学生に頼まれて、そこにポスター張ったのよ~」

美緒はポスターに目を移した。栄養系の大学なだけあって、商品開発コンテスト、栄養シンポジウム、スポーツ栄養士講演会など専門的なイベントが書かれていた。

「へぇ~!面白そうじゃん!」

横から、テーブルをふいていた、菜月が覗いてきた。

「うん!そうだね!」

美緒の返答に、菜月が目を丸くした。

「珍しいね、美緒がこういうのに興味持つなんて……」

「そう?」

菜月は美緒を見て、にやついた。

「今日2時でバイト終わるし、終わってから一緒に行こうよ!」

「うん……。いいけど……」

美緒は、菜月のにやついた顔に、不審な顔つきになった。

「じゃあ、決まりね!あ~!楽しみだなぁ~!」

「ねえ、その顔なに?」

「いやぁ~べっつに~!」

「別にってなにさ!」

菜月は、再びにやつき、テーブル拭きの続きを始めた。美緒は首をかしげながら、厨房に戻った。


 一時間後、バイトを終えた二人は東京栄養女子大学の学祭に来ていた。学祭は外部からもたくさんの人が来ていて、大いに賑わっていた。

「で、美緒は何に興味湧いたの?」

菜月が買ったばかりのチョコバナナにかぶりつきながら、言った。

「いや、普通にシンポジウムとか、講演会とか?」

「うわ!まっじめ~!」

美緒は少しムスッとした。

「菜月は?何目当てできたのよ?」

「私は……、美味しい食べ物?」

「は?」

「まあ、私は美緒の付き添いしてあげるから、その、シンパシー……、何チャラとやらに行こうよ!」

「シンポジウムな!」

「そう!それ!レッツゴー!」

菜月は美緒を手を強引に引っ張って歩き出した。

「そっちじゃないから!シンポジウムは、16号館だから、こっち!」

美緒は、ため息をつきながら、菜月とシンポジウムの行われる、会場に向かった。菜月は終始嬉しそうに付いていった。


「時間的にこれかなぁ~!」

美緒がシンポジウムのスケジュールを見ながら言った。

「スポーツ栄養……、ふーん、まあ、面白そう?」

菜月も覗いてきて、言った。

「適当に言ってるでしょ!まあ、私も気になるから、一緒に聞いて行こうか!」

「うん!行こう!」

菜月は、即答し、美緒を連れて、会場に入り込んだ。会場は、大きめの教室で、在学生や、高校生など、いろんな人が参加していた。二人の参加したシンポジウムは、実際にスポーツ栄養士として、活躍している人の話を聞くというものであった。菜月は、話が始まって10分も経たないうちに、爆睡し始め、美緒は、終始スポーツ栄養士さんの話に釘付けになっていてた。そのため、美緒が爆睡している菜月に気がついたのは、シンポジウムが終わった時だった。美緒は気づいてすぐに菜月をデコピンして起こした。

「痛っっ!なにすんのよ~」

「菜月!見つかった!」

美緒は目を輝かして菜月に話しかけた。

「へっ?」

菜月はあくびをしながら聞き返した。

「私、スポーツ栄養士になりたい!」

「うん?」

菜月は硬直した。菜月の寝ぼけた頭の中で、必死にスポーツ栄養士というワードを検索していたのだ。

「スポーツ栄養士はね、スポーツをする人の栄養のサポートをする仕事!スポーツ選手にとっては、怪我や体調不良が命とりになる……。だからそれを防ぐためにスポーツ栄養士は、スポーツ選手の栄養を管理する!」

「スポーツ選手の栄養を管理……うん!なるほど……」

「私、スポーツは大好きだったから、どうしてもスポーツに関わることがしたかったの!今の話聞いて、私、これだって思った!今までは、応援される側だったけど、これからは私が選手を支えられるようになりたいって!」

美緒の生き生きとした瞳に、菜月は微笑んだ。

「見つかったじゃん!ほら~!私が言ったとおりだったでしょ!まあ、私は最初から見えてたよ、この図が!」

菜月がドヤ顔で言うので、美緒がくすっと笑った。

「はいはい!ありがとう!」

「美緒はサポーターになるんだね!いいね!」

菜月は椅子に座ったまま天井を見上げた。美緒もそれをみて、真似をした。

「次は、菜月も見つけるんだよ!」

美緒は菜月の方をみて笑いかけた。今度は菜月がくすっと笑った。

「うん!頑張る……」

2人が一緒に見上げた天井は、窓から差し込んだ夕日でオレンジ色に染まって見えた。それは、二人の明るい未来を示唆しているようだった。

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