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#7 占有と人権の距離

2018年「占有宣言」?

皆さんは,高校の世界史などで,「人権宣言」について聞いたことがあると思います.広く人権を謳う文書を言うこともありますが,具体的な歴史上の文書である,フランス人権宣言,世界人権宣言,あるいは「バージニア権利章典」などを指すこともあります.

その一つであるフランス人権宣言は,一般に次のように解説されています.

フランス革命初期、1789年8月26日、国民議会で採択され、「1791年憲法」の前文となった宣言。正式には「人間および市民の権利宣言」。根本の思想は自然法とそれに発する自然権思想で、18世紀啓蒙(けいもう)思想の影響を受け、また直接にはアメリカ合衆国の独立宣言や、その諸州の権利章典などを範としている(コトバンクより)。

フランス人権宣言は,1789年に採択されました.またフランス人権宣言の直接の範とされる「バージニア権利章典」は,1776年,アメリカ独立宣言と同じ年に採択されています.国連人権宣言は,ちょっと時代が下って,1948年です.

これに対して,今日は,いわば「占有宣言」ともいえるものについて取り上げたいと思います.それは,今日の題材となる『誰のために法は生まれた』の一節です.

「例えば土地の上に成り立つ占有,これはそれ自身としてそんなに大事というわけではないけれど,ただそれがあることによって,自分が攻められにくくなる.私はよくヘルメットにたとえるんだけど.だって,占有とか,家とか机とか椅子とか.持っているものをどんどん取られていって,いやあ,君の精神は侵害していないよ,とか言われても,でも裸にされちゃったら,どうよ.だからその周辺を守ることは大事だ.だけどやっぱり,なんと言ったって,この身体,さらに身体のもっといちばん奥にある精神がやられたら,これはやはり,一番問題外さ.人間にとってとりわけ大事な占有は,この精神と身体だよね.」(『誰にために法は生まれた』p.380)
これが基本的人権です.これを保障しないと,ほら,あの徒党の解体が徹底しないじゃない?(中略)本当言うと,これは権利ではありません.占有なんです.どこが違うかというと,権利というのは,いま持っていないものを獲得しうるということです.幸福の追求などと言いますが,人を殺すことで無上の幸せに浸りうる人がいるとしましょう.幸福追求の人権にも制約があるなどと論争することっているのですが,人権は,人権とは言いますが,決して攻撃的には使えません.実は権利ではなく占有だからです.(中略)われわれは全員アプリオリに精神の自由を持っている.だから今更持っていないものを獲得するなんてことはない.それを侵害されるので,占有のモデルで防御する.」(同p.381)

「基本的人権は,権利ではなく,占有である」.『誰のために法は生まれた』ではそのように高らかに謳われています.

同書は2018年に出版されました.いわば2018年の「占有宣言」ですが,それはどのような意味を持つのでしょうか.木庭先生は,いわゆる権利としての人権を認めていないのでしょうか.

いろいろと考察に値する問題が潜んでいるかもしれません.今日はそのことを少し掘り下げてみたいと思います.

占有の原理の出発点

最初に占有原理におさらいですが,「第1回 占有でなければ保護されない?」や「第6回 ローマ法と英米法の距離」でも少し触れましたが,簡単に振り返ります.

占有原理とは,対象との間で個別的で固い関係を築いている側を見極め,「一刀両断して一方に占有を認め,他方をゼロとする」(『新版ローマ法案内』p.57)というものです.つまり,「まずはその時点で一方はその物と固く結びついていたのに,他方が暴力的に奪おうのとした,と設定してしまう.後者がブロックされ,前者に占有が与えられる.」(『誰にために法は生まれた』p.300)とも言い換えられます.

そのような占有概念は,あくまで,「対象との間の個別的で固い関係」に「占有」を認めるものです.「人を人として保障するのではな」く,あくまで「人と対象物の関係を保障する」ものです.

このように占有原理は絶対の切り札を意味するかが,ただし二つの要件が存在し,これが欠けるときにこの儀式を振り回せば醜悪なことになる.第一に,「最後の一人」にだけこの保障は与えられる.(中略)第二に,デモクラシーによる「最後の一人」擁護と大きく異なる点であるが,人を人として保障するのではない.人と対象物の関係を保障する(『法存立の歴史的基盤』p.1288).

人権観念を持つ私たちからすると,「人を人として保障するものではな(い)」点は,時代錯誤のようにも見えます.それほどまでに「人を人として保障する」というのは,私たちの思考様式に染みついているように思います.

これに対して占有は,「人と対象物の関係を保障する」という発想をします.

本当は「人権」が「人を人として保障する」ものであるか否か,人権の側からも,精査する必要はあるように思われます.

しかし,「人権」とは「人を人として保障する」観念であるとして「占有」に対抗させているのは,木庭先生の論考においても暗黙の了解となっているようです.したがってここでは,「人権」とは「人を人として保障する」観念であると仮定することとします.

そのように占有と人権は,出発点からして,著しい相違を成しています.

占有の対象の拡張?

しかしそうだとしても,占有の「対象」の考え方によっては,「人権」概念に近接するのではないか?そのような考え方もあると思います.

大変重要な指摘であるので,ここで「占有」の「対象」とは何であるのか,少し考えてみたいと思います.

「対象物は身体であってもよいから,(政治やデモクラシーにおけると)同じ身体二元論が妥当するようにも見える.しかし亡命して自由に振る舞える自由が保障されるのではなく,逆に徹頭徹尾領域の上に生存することこそが保障されるのである.一つの限界として,予め領域の上に生存していなければ保障は与えられないということがある.しかし,確かに,予め領域の上に生存していないのに保障を与えれば,何か入って来て侵害する自由を認めてしまうことになる.かわりに,保障は具体的である.例えば「精神的自由とは言っても具体的な表現手段とその受容まで保障されなければ無意味である」というような考えに繋がる.」(『法存立の歴史的基盤』p.1288)

「対象物は身体であってもよい」とされています.直接的な心身二元論ではないとしても,身体との間では一定の関係を持つことが認められています.そうであれば,身体との関係をストレートに保障すればよいようにも思われますが,占有原理とは,あくまで領域における生存の保障を与えることだとされています.

「身体も対象としうる」とはいっても,「領域における生存」という,やや間接的な保障の仕方となります.

もちろん,いわゆるウェルギニア(Verginia)伝承においては,確かに,彼女の身体の捕縛が問題となっています.しかしそれは,しかしそれは,儀礼(手続)の設立伝承を残すのみとされています.

さらに補足となりますが,ここでは明示的には触れられていないものの,いわゆる「心身の自由」は,本来は「政治」の領域である刑事司法と密接な関係にあり,本来的な民事法(占有)の対象に身体が含まれると言えるかは,やや微妙な問題を残します.

「人間にとってとりわけ大事な占有は,この精神と身体だよね」というとき,そのシンプルな言葉ほど,ストレートに「身体」への占有が保障されるのではないという点には,注意が必要です.

次に「精神」への占有保障ですが,占有と「精神」との関係は,身体との関係以上に,一層微妙なものとなります.

心身二元論の意義にもよりますが,「心身」とは別の「自己」を措定しない限り,一般的な理解では,「心(精神)」とは「自己」そのものともいえます.

「人と対象との関係を保障する」という占有原理からは,「精神」の保障は導かれない可能性もあることを意識してか,木庭先生は,「精神」(の自由)そのものではなく,具体的にどのような保障を与えるのか,という考え方に繋がる可能性があることに重点を置いています(『法は誰のために生まれた』p.382も参照).

それは一見,巧妙な問題解決のようにも思われますが,「精神」そのものには占有保障を与えないが,保障の具体的な手段については考えるという思考は,社会制度の礎となり得るほと相当程度の人々に安定的に共有できるのか,ということが問われなければならないと思います.そこには「政治」概念の維持の困難さと共通の問題を見いだすことができると思います.

とはいえ「精神」そのものを保障しようとすると,占有概念が慎重に回避している「人を人として保障する」というパラダイムにも近づいてしまいます.

「人間にとってとりわけ大事な占有は,この精神と身体だよね」という簡素な言葉の中には,占有の対象をどこまで拡張させるのか,という占有の性質に関わる難しい問いを一旦棚に上げて,回避している可能性がある点には,注意が必要と考えます.

それでも「占有」に意義がある?

木庭先生の周到な議論には,そのような課題があるー隠されている-とはいえ,さらに力強く進んでいきます.

「人を人として保障する」というパラダイムは抽象的であって,占有保障の方が具体的であるという点で優れている,という論証です.

「保障が具体的であるということのもう一つの側面は,必ずauctor(注:保証人)との関係で保障がなされる.これは形態によって政治システムから領域へと分節的に架橋することを意味し,したがって具体的な政治システムに具体的に関連付けてその具体的な領域の上で保障がなされるということである.「最後の一人」は必ず誰か一人保障の任に当たる政治的主体を持つということであるが,しかしこれは,この者が欠ければ保障が働かないということも意味する.ならば抽象的に保障を与えた方がよいか.彼らはそうは考えなかった.(中略)やがて誰でもauctorになれるようになった.vindex libertatis(注:自由のための取り戻し人)の制度である.これは,単に人権を宣言されただけであるよりも,まして国家が侵害した場合にのみ保障が働くとされるよりも,遥かに優れたシステムである.」(同上)

auctor(保証人)やvindex libertatis(自由のための取り戻し人)については,木庭先生の『新版ローマ法案内』をご参照ください(p.59, 63, p.69, 等).

そうした具体的な制度-ローマにおける訴訟上の保証人,とりわけ「自由身分訴訟」における保証人ーこそが,抽象的に保障を与えるよりも重要である,という主張自体は,確かに傾聴すべきものと思われます.

ただ,理念としての抽象性と,保障としての具体性とは,実は両立するとも考えられます.逆に理念が抽象的であれば,保障も抽象的になる,というのは予断のようにもみえます.理念が抽象的であっても,保障自体は具体的な制度を通じて与えられるのが通常だからです.

理念が誘因となり,従来の制度に欠けていた仕組みを作るきっかけとなったり,新たな判例を生み出すのは,例えばアメリカにおいて,修正第13条(奴隷制度の廃止)が追加され,「プレッシー対ファーガソン裁判」(1896年)が「ブラウン対教育委員会裁判」(1954年)によって覆されたことをーその当否や今なお残る差別は別としてーその一例として挙げても良いと思います.

また,人権は国家が侵害した場合にのみ働くという点も,憲法規定の私人間効力を述べるまでもなく,事実誤認とまでは言わずとも,人権概念に対して必要以上に限定的な見方であるようにも思われます.

「あれかこれか」vs「あれもこれも」

現代の人権概念を持つ私たちとしては,「人と対象物との関係」も保障されるならば,保障される対象が増えてよい,と感じると思います.少なくとも,「人が人として」保障するされるだけでなく,「人と対象物の関係」が保障されるとしても,特に不都合は感じないでしょう.

しかし,占有概念は,「人を人として保障するのではな」く,あくまで「人と対象物の関係を保障する」のであって,これらの二つの関係を対立的,選択的に捉えます.

「人を人として保障する」ことを否定し,「人と対象との間の関係を保障する」という概念は,占有概念の本質を成しています.その点を貫徹しなければ,占有概念というものは変質し,別物になってしまう.そのような概念であるというのが,木庭先生の意図のようです.

他方でー精査は必要ですがー,人権概念は,「人を人として保障すること」と「人と対象物の関係を保障する」ことを対立的であると捉えることを本質とはしていません.人権は,それが人権保障に資する場合は,「占有」を取り入れる程度の柔軟性があると考えます.

占有における「あれかこれか」と,人権における「あれもこれも」という図式を,更なる精査は必要ですが,掲げておきたいと思います.

人権概念に見る占有との相違

以上,占有の側に着目し,その特徴を見てきましたが,ここで少し,人権の側から問題をみてみたいと思います.占有と人権を対抗させることで,これらの概念をより一層明確に分節する目的です.

(1)信仰の自由と人権カタログ

ここでは,憲法の教科書にあるような,天賦人権説から個人の尊重へ,という通り一遍な理解ではなく,少し「挑発的」な見解を引用します.

「このカタログ化された諸自由が,いかにアメリカ憲法にとって本質的かを知るには,ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek)著『人権宣言論』(1895)が格好の素材となる.この中でイェリネックは,従来の定説を覆す二つの挑発的なテーゼを提示している.その一,個人の有する不可譲,生来的,神聖な諸権利を法律によって確立しようとする観念は,「政治的」なるものではなく,「宗教的」なるものとしてその淵源を有する.従来,フランス革命の産物と考えられていたものは,実は宗教改革とその闘争の結果である.その二,個人の有する不可譲,生来的,神聖な諸権利という観念の最初の使徒は,18世紀に生きたフランス人ラ・ファイエットやルソーではなく,力強く,奥深い宗教的情念に突き動かされて,信仰の自由に基づく国家を打ち立てようと荒野に移り住んだアメリカ人ピューリタンのロジャー・ウィリアムズである.(中略)以上のイェリネックの議論は,カタログ化された諸自由の実現には,アメリカにわたったピューリタンたちが抱えていたような生の衝動がぜひとも必要であったことを示している(『立憲主義と他者』(江藤祥平著,岩波書店)p.35-36).
(中略)実際,啓蒙主義がピューリタニズムに及ぼした影響を考慮していない点など,イェリネックの議論に詰めの甘い部分があるのはたしかである.しかし,ことアメリカに関する限り,イェリネックの以上の議論は幅広い支持を得ているようにも見受けられる.建国の父ジェームズ・マディソンが当初権利章典を不要としながらも,憲法制定後間もなくこれを受け容れざるをえなかったのも,人民の不満が,すでに久しく存在していたい個人の諸権利の観念を新憲法が定めていないところにあると気がついたからである(同p.36).

やや長い引用となりましたが,ドイツの公法学者イェリネックは,人権が,「人を人として保障する」という抽象的な理念から生まれたものではなく,具体的には「信仰の自由」から生まれたというテーゼを立てています.

また,アメリカの権利章典が誕生した経緯からも,人権観念の成立は,人権カタログとして具体的に列挙されることと表裏一体を成していた,とされています.

イェリネックの主張である,人権は「信仰の自由」という具体的な自由から生まれたこと,そして具体的な人権カタログを必要としたことは,占有との対比で強調された「人を人として保障する」観念の抽象性とは,やや異なる様相を呈しています.

占有は,その保障の「具体性」を特徴すると木庭先生は主張します.とはいえ,それがカズイスティックな判断であるとしても,「対象との間の個別的で固い関係」という程度の抽象化は可能です.逆に「自由身分訴訟」という制度とも対比しうる具体性を,人権サイドでも備えていないとは言い切れないようにも思います.

人権概念のみを一方的に「抽象的」であると断ずるのではなく,それぞれの「抽象性」「具体性」の内容と差異を対抗させた方が,議論の精度がより上がっていたように思われます.

(2)占有概念の動因としての強度

また,「カタログ化された諸自由の実現には,アメリカにわたったピューリタンたちが抱えていたような生の衝動がぜひとも必要であった」という点にも着目したいと思います.

それは,占有が抱える課題と著しい対比を成しているように思います.近代の民事法の最大の問題は,「占有概念の基底的な意味を(近代の民事法が)見失っているのではないか,という問い」にある通り(『新版ローマ法案内』),占有は理解されず,見失われるという構造的な問題を抱えています.

もちろん「宗教の自由」という「生の衝動」が,「人権」をはじめとする社会制度の設立・維持になんの障害もなく接続していると安易に考えることはできません.しかし,他方で,「占有概念」というものが,基底的な意味が容易に見失われるほど脆弱で,理解困難な概念であることーあるいは,そのように占有概念を構成することーは,繰り返しとなりますが,社会制度の礎としての資格を疑わせることになる虞すらあります.

法はその基礎を政治=議論の外に置くので,感覚ないし直感に依拠する部分を持つ」(『新版ローマ法案内』p.47脚注9)とされており,本来,占有概念は「感覚ないし直感」に訴求力を有するはずです.

しかし,その訴求力は,「信仰の自由」という「生の衝動」の強度とは比較すべくものないようにもみえます.そのような脆弱な基礎の上に「人権」概念すらも据えようとすることの妥当性は,慎重な検討を要するーそれを今日の問題提起として掲げて締めくくりとします.

(補足)

今まで以上にまとまりのない文章になったことをご容赦ください.秋の週末は行事が目白押しで,時間が十分に取れませんでしたが,不完全でもアップすることを選択しました(アップすることに意義がある??).お恥ずかしい限りです.

さて,占有原理は,いわゆるウェルギニア伝承が直接伝えるとされていますが,それは儀礼(手続)の設立伝承を残すのみとされています.文芸化されていないことのインパクトの弱さは,木庭先生も認めています(『誰のために法は生まれた』p.301).

それでは,占有概念をそれとして理解できる(はずの)私たちにとっては,どうでしょうか.それが有用な概念であることは,否定しようもないと思います.しかし,それが社会の質を一手に担う概念であるとして,適用範囲を過度に広げようとするとき,社会制度(政治,法を含みます)を支える他の概念や事実(人権概念を含みます)を見落としたり過小評価し,それらに取って代わろうとし,排除することにならないか,と言う点には,警戒する必要があると思います.

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