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#4 政治概念の「欠如と過剰」

今回は引き続き「政治」のトピックです.

Twitterでは,「ディアレクティカ」の〈脆さ〉とか,人文主義の〈偏り〉について語ります,なんて予告しましたが,そんな大それたことを言えるのでしょうか⁉

政治の成立と密接な関係にある「ディアレクティカ」.そして背後に控える「人文主義」.そのような人類の知的遺産に立ち向かっても,ただのドン・キホーテに終わる可能性大です(笑).

ただ,木庭先生の言っていることを鵜吞みにしていればよいかというと,そうではないでしょう.

まずは理解することは重要ですが,理解と思考は「卵が先か鶏が先か」だと思っています.まずは疑問を頂き,対峙しながら考え,それを言葉にする.「笑うケースメソッド」のゼミ生たちのように,老教授に挑んでいきたいと思います.

それでは前段では,『政治の成立』(東京大学出版会,1997年)の世界を覘いて(のぞいて)みます.

「パラデイクマ」「分節」「ディアレクティカ」...一部の方々には当たり前だよ,という用語を取り上げて,「政治の成立」について概要を説明します.

後段では,そうした「政治の成立」における思考の特徴と,そこに潜む「欠如と過剰」について,論じたいと思います.

今まで以上に構成に苦労しましたが,最後までお付き合い頂ければ幸いです.

三部作を取り上げる理由

『政治の成立』の内容について,本当に概要だけつかみたい場合は,『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018年)の「種明かしのためのミニレクチャー」(p.290以下)が一番簡易です.

また,『新版ローマ法案内』(勁草書房,2017年)の第1章も,手際よくまとまっています.

しかし,前者は簡潔すぎて,問題点に気づきにくいほどの読みやすさを持っています.また,後者は凝縮されすぎていて,個々の記述の背景を理解するのは思ったより難しいといえるでしょう.

他方で,三部作の筆頭を成す『政治の成立』は,「政治の成立」について一番詳しく書かれているだけあって,木庭先生の「生の思考」を垣間見ることができます.一般向けの本では行間でしかない「素材」や「理論の誕生」をうかがい知ることができます.

なお,近刊『人文主義の系譜』(法政大学出版局,2021年)は,まだ読めていません.同書の第1章は「政治的・法的観念体系成立の諸前提」とされており,最新の状況を語ってくれているかもしれませんが,今日は取り上げません.

今日はできるだけ,『政治の成立』そのものの内容を分析し,これから読みたい思っている人の一助にもなればいいなと思っています.

ハードルの高い用語と概念

もう少しだけ前置きをお許しください.

よく木庭先生の三部作を読むと,面食らう,ということが言われます.最近の一般向けの著作から入った人は,三部作は日本語として読めない,という方もいるようです.分量も半端ではありません.

『人文主義の系譜』に関する朝日新聞の書評でも,「文章は鋭利で、文体には中毒性がある。だから、試験勉強に飽き足らぬ学生たちを夢中にさせてきた。」とあります(https://book.asahi.com/article/14446972).

『政治の成立』を読むには,ちょっと変わった用語...「パラデイクマ」「分節」「ジェネアロジー」,そして「ディアレクティカ」...は外せないところかと思います.

これらの用語についてイメージ(パラデイクマ!)をつかんでいただくと,自ら『政治の成立』を読み通すにあたって,見通しが良くなってくると思います.

いきなり「ディアレクティカ」

「ディアレクティカ」は,「パラデイクマ」や「分節」を前提に成り立つので,本来は順番は後です.

しかし,最初に出てきた方が親切ともいえます.そこで,いきなり登場してもらうことにしましょう(『政治の成立』p.140).

ディアレクティカ概念図

これが「ディアレクティカ」の模式図ですが,これだけでは何がなんだか分かりません.

『政治の成立』では,こうなっていたものが,『誰のために法が生まれた』では,どのように解説されているのでしょう.

同著では,政治の営みである「厳密な言語使用」について,「主張を明確な決定内容とその論拠に分節した上で議論」し,自由なメンバーに対する説得力を競うことだと(p.293)とされています.

ここでいう「厳密な言語使用」が「ディアレクティカ」と考えて差し支えありません.そして木庭先生の自らの言葉では,「主張を明確な決定内容とその論拠に分節」すること,となります.

『政治の成立』の記号に従えば,PとQという主張が,対立しているとします.論拠は「M2」です.しかし,「M2」から「P」が直ちに導かれるのではなく,「P」はそこからも自由になっています.「N2」と競うことで,「P」か「Q」かが選ばれるのです.

さて「M2」には,「N1」という素材があります.あるいは「N1」を解釈すると,「M2」が導かれます.論拠が突然,現れてくるわけではなく,それに先立って,何らかの素材があります.

そのような営みはまた,モノローグではありません.互いに対抗する者たちがあってこそ,より明確になり,競い合うことができます.「M1」には「N1」が,「M2」には「N2」が対抗する論拠,あるいは主張となります.それらは,鋭く対立します.

そうした対抗関係の中で,それぞれの主張と論拠は区別され,明晰になり,批判しあうことができるようになります.これらは抑圧されず,保存され,その中から,決定が選び取られます.

パラデイクマ,ジェネアロジー,分節

木庭先生の通(つう)の方々には,退屈かもしれませんが,もう少しだけ,独特の用語について触れてみたいと思います(書名のないページ数は,『政治の成立』を指します).

まず最初は「パラデイクマ」です.それは「イメージの如きもの」(p.18)です.

「パラダイム」(cf.『科学革命の構造』クーン著)と言葉が似ていますが,その語源が「パラデイクマ」です.パラダイムよりも広い道具概念とされています.

具体例でいうと,「そこでアキレウスは走った」という内容は,意識の対象とすることができます.イメージできますし,別のバージョン(「そこでアキレウスは歩いた」)も観念できます.自ら実現する(自分も「そこで走る」)こともできます.そのようなものが「パラデイクマ」となります.

当然ながら,そうしたパラデイクマ(イメージ)を明確にしたり,差異を識別するには,言語が一番です.ぼんやりとしたパラデイクマ(イメージ)だけだと混然一体となって,何がなんだか分かりません.

次に「ジェネアロジー」です.人は誰かから生まれ,父母がいて,先祖がいます.結婚もしたり,離婚します.狭い意味の系譜だけでなく,家族にまつわる葛藤劇も,「ジェネアロジー」です.

ギリシャ文芸一般(叙事詩,悲劇)では,ジェネアロジーは不可欠です.宇宙創成の話もその一部でしょう.ある人物にとって,ジェネアロジーは,いかなる集団に属するかを示します.それを軸として人々は対立し,また結合します.

とりわけ部族社会では,ジェネアロジーは重要です.例えば,各部族が首長をいただく首長制では,誰が部族の長となるか,ジェネアロジー抜きには決められません.王制もまた,特殊な形態の首長制です.

この「ジェネアロジー」も極めて重要な概念です.特に「ホメロス」を読み解くときに,「ジェネアロジー」の視点は欠かせません.

さて,分節(articulation)です.すでに「主張を明確な決定内容とその論拠に分節し」という一文の中に出てきましたが,主張にしても根拠にしても,明確な内容を持ち,他から区別されることが大切です.そうでなければ,まともに意思疎通することも,議論することもできません.

もともと音楽用語の「アーティキュレーション」とは,「音の形を整え,音と音のつながりに様々な強弱や表情を付けることで旋律などを区別すること」をいいます(Wikipedia.p.140脚注〔1・3・1〕も参照).

異なるイメージ(パラデイクマ)を分かち,様々なバージョンを対抗させ,とりわけ詰めた論証を行うためには,「分節」は必要不可欠です.そのためには,やはり言語が不可欠です.

また,「ジェネアロジー」との関係でも「分節」は重要です.

ある領域(テリトリー)には,ジェネアロジーを基礎として,人的集団の相互関係が存在します.人が誰かから生まれてくるからには,程度の差はあれ,ジェネアロジーから逃れることはできません.

意識的にしろ,無意識にしろ,ジェネアロジーという観念は存在し,人々の行動に影響を与え,集団を作りあげています.そのままでは,「やったり,取ったり」という互酬性を基礎とした状態(枝分節)にあります.

そうした無分節な状態から,明晰に区分され,自由な関係に立つ,「分節」された状態に移ること,それが「政治の成立」に決定的に重要であるとされています.

私的な「ミニレクチャー」

木庭先生は,これらの用語を定義しながら,一歩一歩,政治の成立を論証します.非常に濃密な概念と議論が繰り広げられます.

木庭先生は,ホメロスやヘシオドスの作品,とりわけ「イーリアス」「オデュッセイア」を分析します.そこでは,多数の登場人物による様々な行動様式,姿勢・態度,人間関係が,重層的に繰り広げられます.例えば,アキレウスに対抗するアガメムノンのように.

決して単一,単純な立場からではなく,複数の異なる,時には矛盾し,不完全とも思われる意味内容(パラデイクマ)が描かれます.それらが確定され,いかに対抗しているが示されます.

それらが,まさに上で述べた「ディアレクティカ」という営みであることが明らかにされます.

また,ホメロスですべて完結するわけではなく,次いでヘシオドスが,ホメロスのパラデイクマとさらに対抗関係に立ちます.

「イーリアス」では,いわば政治を成立させる社会構造が描かれますが,ヘシオドスの中には,領域の自立性,都市と領域の区別を見て取ります.

以上のようなホメロスやヘシオドスを共有する古代ギリシャの人々は,「ディアレクティカ」を行い,テリトリーの上で人的集団が「分節」されていた-それが,政治の成立を意味するー以上が,木庭先生の主張の骨子となります.

『誰のために法は生まれた』の「種明かしのためのミニレクチャー」のような「普通の言葉」でのまとめとは違いますが,『政治の成立』の中の用語をなるべく使って要約を試みてみました.ちょっと駆け足過ぎたでしょうか?

前段から後段への繋がり

本来であれば,専門家たちが,例えばホメロスの読解について同じレベルで批判(クリティーク)したり,実証史学の分野からみた検証を提供することが,学問の発展に必要なことだと思います.

しかし,今のところ,学界は木庭先生の主張を消化し,吸収することで手一杯のようにも見受けます.意味のある「ディアレクティカ」がまだ生まれていないように見えます.

一読書子には,大それたことなど出来ませんが,自由な立場から,素朴な疑問を提示しながら,この分野のさらなる深化に期待したいと思います.

「政治」-頼れる土台?

「政治」-古代ギリシャで生まれ,厳密な言語の使用を特徴とする営みーは極めて限定的な意味を持ち,また構造上複雑な問題を抱えています.

「まず最初に確認しておかなくてはならないのは,およそすべての社会組織に政治が存在するということはない,ということである.「政治」の概念を正確に定義することは極めて困難であるが,それが社会の組織原理のうち極めて限定的なものにのみ関わる,という点について異論はありえない」(『政治の成立』p.2)
「政治は,恐らくその性質上,常に構造的な問題を抱えつづけることになると思われる.というのも,本来矛盾することを複雑に組み合わせることによって成り立つものだからである.」(『政治の成立』p.404)

そのような「政治」の「困難さ」は,木庭先生も痛感しています.そしてその不在が,木庭先生をしてこう言わしめます「私は(中略)政治の欠乏を苦痛と感じる」(『憲法9条へのカタバシス』p.79).

そうであるがゆえに,政治が成立するための諸前提を論じ,そこに至る道筋を明らかにしようとしているのでしょう.

しかし,ここではあえて,このように問題提起してみたいと思います.そのような実現困難な概念(パラデイクマ)に人類は頼ることができるのでしょうか.

さらに「政治」の上に「デモクラシー」や「法」,さらには「経済・市場・信用システム」(『政治の成立』p.405)も成り立っているという見方そのものが,かえって問題を困難にしている可能性はないか,と.

二つの可能性-「過剰と欠如」

これに対しては,直ちに次のような反応を招くかもしれません.論者(ブログ主)は,結局,ここまで議論してきた「政治」の意義をそもそも理解しないのではないか.

「やったり,取ったり」(互酬性)に基づく人々の支配従属関係を打破するには,「政治」という営みしかないことが証明されているのに,今さら何を言うのか.

あるいは,「政治」が困難な営みであることは当然であって,それを目指していくことが大切であるのに,その試みを捨てようとしているのか,などなど.

しかし,ここでの問題提起は,いわば方法的な懐疑,あるいはソクラティック・メソッドのようなものと捉えて頂ければと思います.

(ちなみに木庭先生は,ソクラティック・メソッドについては語りますが,ソクラテス自身については,あまり評価していないようです.閑話休題.)

言い換えると,「政治の成立」に関する,ほとんど幾何学的のような厳密さをもった論証には,何か欠けていないでしょうか.逆に,過剰な要素がないでしょうか.

団体・利益・権力の居場所

政治とデモクラシーは異なる概念ですが,後者は前者を前提とします.また,木庭先生は,デモクラシーを一般とは異なる定義づけをしています.

そのことに注意を払う必要はありますが,木庭先生自ら,デモクラシーの分析は,政治にアプローチする近似的な手段であることを認めています(『誰のために法は生まれた』p.291).

ここでは,上記のような特定の意味を有するとは限らない,一般用語である〈政治〉や〈デモクラシー〉という言葉の使用をも許容するとして,トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』を引用してみたいと思います.

「政治の決定を下すためにときどき招集される選挙民を別にして,なんとさまざまな公職,なんといろいろな役人があることだろう.これらがみなそれぞれの権限の範囲内で強力な団体を代表し,その名において行動している.このようにして,どれほど多くの人々がタウンの力に与ることから自分の利益を引き出し,自分自身のためにタウンに関心を寄せることだろう.」(『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫,第1巻(上),107頁)
「ニュー・イングランドのタウンは,独立と権力という二つの魅力を併せもっている.そして,この二つの魅力が見出されるところはどこでも,人々の関心は強くこれに惹かれる.たしかにタウンは出ることのできない限られた範囲の中で動いているが,その中での活動は自由である.(中略)一般に人間の魅力は,力あるところにしか向かわないことをよく知らなければならない.」(岩波文庫,同上)

極めて短い引用となりますが,アメリカ初期における(普通の意味での)〈政治〉という営みにおいて,地域の運営への参加があり,団体(結社)が存在し,またそれが参加者の利益すらもたらすことが,率直に述べられています.

さらには権力が魅力を持ったものであり,人がこれに惹かれるということが,制度を支える動機になっていることが観察されています.

「団体」「利益」「権力」(への志向)という,木庭先生にとっては忌むべき言葉が挙げられ,それらが存在意義を有することが認められている.それは無防備で,無知で,由々しき態度のようにも思われます.

『アメリカにおけるデモクラシー』について,私は研究者でも何でもないので,最新の研究成果をもとに話しているわけではありません.これを額面通りに受け取らず,現代アメリカが直面する問題にも目くばせしなければならないのは,忘れてはいけないと思います.

そうした限界に留意しつつも,一つの近代国家の誕生間もない時期の観察として,『アメリカのデモクラシー』が残されています.

「団体」「利益」「権力(志向)」を,「ディアレクティカ」による「政治」の営みには相いれないとして,完全に排除する立場を取るのか.

それを便宜的に以下「古代ギリシャ型」と名付けたいと思います.

これに対して,それらに適切な場所を与え,コントロールしようとする立場を取りあえず「初期アメリカ型」と呼びます.

「古代ギリシャ型」と「初期アメリカ型」は,「ディアレクティカ」における厳しく対立するパラデイクマ(概念,意味内容,思想)の組として,ある意味,相応しいように思われます.

「厳密な言語の使用」というパラデイクマには,妥協の余地はありません.「団体」「利益」「権力(志向)」を排除しなければ,パラデイクマとしては成り立ちません.それが,「古代ギリシャ型」の特徴であって,そのことは木庭先生の著作から明白です.

「ゼロか1か」「ゼロか∞か」という思考は,「政治」にも「占有」概念にも貫かれています.

これに対して対抗して,団体・利益・権力(志向)を一定の範囲で許容し,飼いならし,全体の福利(common good)にしようというのが,初期アメリカ型の政治・デモクラシーである,ということが可能と思います.

あれか,これか

私たちにとっては,実は,ディアレクティカにおける「P」と「Q」のように,これらの選択肢は,開かれています.

古代ギリシャ型の政治は,その不在が嘆かれているよう,極めて脆弱な面があると言わざるを得ません.もちろん,初期アメリカ型の制度も,現在もそのままの形で存在しているわけではないとは思います.

しかし,それが古代ギリシャ型より遥かにレジリエンス(=resilience.強度・耐性)をもったパラデイクマであり,制度であって,現在の社会や政治の一つもモデルとなっていると考えるのは,それほどおかしな見解ではない,といえると思います.

詳しくは触れませんが,「鼎談 憲法の土壌を培養する」(『法律時報』2018年5月号,通巻1124号)においては,いわば初期アメリカ型モデルに対する厳しい姿勢が取られています.それが問題含みながらも強固に存在し,認知されているからだと言ってよいでしょう.

もちろん,西洋近代はすべて「古代ギリシャ型」の「政治」や「デモクラシー」の劣化ヴァージョンである,という見方もあり得るかと思います.

実際,木庭先生は,「起源」の主張について極めて敏感であって,西洋近代には真の意味の独自性を認めず,古代ギリシャ・ローマにすべての起源があることを説いています.

しかし,そのような「パラデイクマ」もまた,「ディアレクティカ」を通じて,批判(クリティーク)されるべき対象であるといえるでしょう.

私個人としては,歴史上,古代ギリシャ・ローマの時代に,過去からの断絶・飛躍があったとするならば,アメリカ革命につながる歴史にも,過去の遺産を受け継いだのと同じ程度の断絶・飛躍があると考えています.

「憲法の土壌を培養する」という表題の書籍は,12月にも出版されるようです.それが肥えた土壌となるのか,痩せた土地となるのかーそれは,異なるパラデイクマを完全に否定・排除するのか,部分的でも肯定・包摂するのか,ということに懸かっているのではないかと思います.

「政治」の過剰について

今日は最後に,「政治」のパラデイクマにおける「過剰」について語って終わりたいと思います.

「ディアレクティカ」の要素として,パラデイクマの対立・対抗が極めて重要な要素となっています.

「ディアレクティカにおけるパラデイクマの生態の特徴に一つは,paradigmatiqueな観点からして或る一つのパラデイクマと他の二つのパラデイクマが枝岐れのヴァージョン関係に立つ,ということが決してあってはならない,複数のparadigmatiqueな対抗的ヴァージョン連鎖がどこまでも平行線を辿って決して交わらない,ということである.」(『政治の成立』p.152)

ホメロスにおけるアキレウスとアガメムノンの対抗は,グループの反目としても執拗に一貫させられています.ほかにも,ディオメーデーズ(アキレウスに次ぐ英雄)とアガメムノンの対抗もまた,二つのグループの対抗を表しています.

「〈分節〉を作り出し維持するときに必要な構造的な対抗関係,政治システムに絶えず対立のエネルギーを送ると同時に結局は同列に立って一つのシステムを作る対抗的勢力の存在,を理解する上で非常に示唆的である」(同p.209).

これら対抗のエネルギーが,政治システムの維持に必要とされています.それは,主張を明確にし,区別し,「ディアレクティカ」の質を高めるかもしれませんが,一面でも危うさも秘めています.

そのことは,木庭先生自らが自覚するところでした.人々の集団が対抗しあうというそのパラデイクマを大いに利用して,古代ギリシャにおける政治という概念(パラデイクマ)が作り上げられたのであって,それがかえって後の混乱・崩壊すら,導いたものであると.

「結局,Homerosは,軍事化を鍵としてパラデイクマ確定手続の幾つかの構成法を対置し,元来のパラデイクマ伝達メカニズムに伴う複雑な関係を軍事化によって払拭しつつその軍事化そのものとそれに伴う帰結からいかに離れるか,ということを模索している,というように解釈しうる.」(同p.206)
「最も端的に言えば,狭義の政治的パラデイクマは軍事化の様々なメカニズムを利用して形成された.このことはもちろん政治システムにとって非常な危険性を意味し,結局ギリシャないしローマはそのつけを最後に支払ったということもできる.」(『政治の成立p.382』).

軍事化とは,テリトリーの人的組織の区別(分節)を解消することです(同p.117).軍事組織とも関係しますが,ある種の集団化というくらいの意味で理解しても良いでしょう(同p.113)

(☆10/23追記(訂正) 『新版ローマ法案内』では,「軍事化(募兵)」とされており,軍事組織との関係がより明確にされています.この点は『政治の成立』よりも『新版ローマ法案内』(p.21以下)の方がかみ砕いた説明がされており,そちらを参照する方が良いかもしれません.).

それらの対立を「政治」の概念のエネルギーとして利用する.本来矛盾することを複雑に組み合わせて,それ自身を否定する契機を含んだ概念構成をする.

そうした自己破壊的ともいえる動因がなければ,特殊な意味の「政治」概念が成立し得なかった(と仮定されている)ということもまた,「政治」それ自身に潜む「脆さ」に問題があることを示していると思います.

「政治」に社会制度としての持続可能性があるの否か,我々の側の努力だけではなく,構造的な脆弱さにも目を向けて,パラデイクマとしての妥当性を検証することが,求められていると思います.

「人文主義」の「偏り」

本日も,できの悪いゼミ生のような記事となってしまいました.現役時代の木庭先生も,こんなレポートを学生から受け取って困ったこともあるかもしれませんね.

以上述べたことを,何とかtwitterの予告とつなげて終わります.

木庭先生が「人文主義」というときにも,すでに一つのパラデイクマが選択がされています.「どこまでも平行線を辿って決して交わらない」パラデイクマは,語られず,排除されている可能性があります.

沈黙され,隠されている何かーそのような「人文主義」の「偏り」にも,私たちは注意を払う必要があると思います.

(補足)

『アメリカのデモクラシー』は,著述の都合上,『自由の条件』(ミネルヴァ書房,猪木武則著)からの孫引きとなっています.同書は,松本礼二翻訳の岩波文庫から引用していますが,内容については,私の手元にあった『アメリカの民主主義』(講談社学術文庫)にて確認しています.

手元に利用可能であった著作に限りがあったことから,ご容赦頂ければと思います(今後,岩波文庫版『アメリカのデモクラシー』を確認できれば,本補注は削除させていただくかもしれません).

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