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「あなたにはわからない」と言われたとき―『当事者は嘘をつく』を読んで

はじめに

『当事者は噓をつく』を読了した。

修復的司法の研究者である著者・小松原氏は、性暴力の被害を受けた当事者でもあると自認している。本書には、「被害者/被支援者」「支援者」「研究者」の関係性と立ち位置のなかで、自分自身をどのように位置付けていけばよいのか、悩んできたことが綴られている。
「当事者」がほとんど被害者と同義で語られること、加害/被害の枠組みが性暴力のように時間的な前後があるケースを想定していること(人種や障害、ジェンダーなどの「当事者」にも同じことが言えるか?)など、疑問が残る点もあったものの、「支援」という行為に潜む加害性に関心がある私としては、思考が深まる一冊だった。

本書の書評は、別稿にお任せするとして(下記URL参照)、このnoteでは、本書の中でも印象に残った「あなたにはわからない」という言葉に焦点を当てて、「支援」における倫理を考えてみたいと思う。

「あなたにはわからない」の裏にある「わかってほしい」

「あなたにはわからない」という言葉は、被害者が支援者や研究者に向けて発する言葉として出てくる。その文脈を共有するために重要な節を3カ所引用しよう。

単純な話だった。私が日本で痛切に支援者に「わかってほしい」と思ってしまうのは、かれらが「わかってない」からである。支援者が「わかっている」のであれば、そもそも私の「わかってほしい」という葛藤も生まれない。そんな葛藤が生まれてくること自体が不当なのだ。そう自分のなかで腑に落ちたとき、私はもう迷わなかった。
「支援者に、当事者の世界を理解させねばならない」
それが私の研究の目的であった。「当事者の言葉」を支援者は「回復」の言説に回収しようとする。かれらには私(たち)の魂の声が聞こえないのだ。そのため、支援者と同じ土俵で対抗するためには「当事者の言葉」ではなく「研究者の言葉」によって抗弁しなければならない。かれらと同じ知の体系を私も習得し、論駁する必要があるのだ。

小松原織香(2022)『当事者は噓をつく』筑摩書房, pp.112-113

〔当事者のほうを向いて研究しようとしてきたのに支援者とのつながりを深めてもよいのかという:引用者〕私の悩みにとどめを刺したのは緒方正人だった。緒方は、父親を劇症性の水俣病で亡くし、自身も水俣病の申請を行い、水俣病運動を中心的に担ってきた。
・・・彼は、自然を破壊して生活を豊かにしていこうとする人間の業を背負う同類として、チッソを認め、赦すことを宣言した。私はこの緒方の思想に関心を持っていたので、・・・「本願の会」の座談会を聴講した。
そこでは・・・東京からきた研究者の問題発言が話題に上った。その研究者は水俣に来て、非常に高圧的な態度を当事者にとったため、ある当事者が「あなたには(当事者でないから私たちのこの苦しみは)わからない」と言ったという。
私はその話を聞いて、すっかり当事者の立場に肩入れをしていた。・・・ところが、緒方は次のような趣旨のことを発言した。
「そんなふうに(当事者が)言うのは傲慢だ。相手を拒絶したら、それ以上、わかりあえなくなってしまう」
私は、「えー!嘘でしょ、緒方さん」と心のなかで叫んでいた。

小松原織香(2022)『当事者は噓をつく』筑摩書房, pp.173-175

「しかたがない、わからない人たちと生きていくしかない」
そう諦めたとき、緒方の「あなたにはわからない、と言うのは傲慢だ」という主張が少し飲み込めた。
「あなたにはわからない」もまた、「わかってほしい」の裏返しで、相手に対する期待である。

小松原織香(2022)『当事者は噓をつく』筑摩書房, pp.180-181

「あなたにはわからない」と言われる立場

小松原氏が、「わかってほしい」「あなたにはわからない」と言う立場で語っているのに対して、私自身は、どちらかと言えば、「あなたにはわからない、と言われたときにどうしよう」ということを考えてきた人間だ。
私は、家庭が貧しかったわけでも、両親が不仲だったり、過干渉やネグレクトがあったわけでもなく、なにか「被害を受けた」と感じた経験がほとんどない人生を過ごしてきた。もちろん、友達だと思っていた人に陰口を言われたり、女性であるがゆえに不快な思いをさせられたりしたことなど、人間関係のなかでの「嫌な思い出」がないわけではない。それに、出身地が沖縄県だという点では、差別の歴史に対して強い当事者意識を持っていて、県外の人に対して「あなたにはわからない」と言いたくなる感情を抱いたことは何度もある。
でも、「被害者」というのは、自分のアイデンティティには含まれていない。むしろ、ジェンダー以外の点では恵まれた位置にいると感じているし、そのことが「支援」という文脈では不利に働くのではないかとさえ思ってしまう。他者の苦しみを、私にはわかることができない、という不利である。

私は、高校生の途中くらいまで、教師になりたいと思っていた。とくに、いろんな悩みを抱えるお年頃の中学校の先生になろうと思っていた。自分自身が、先生に救われた経験があることも影響して、苦しみのなかにいる人に手を差し伸べる大人になりたかった。
でも、恵まれたなかで生きてきた私が、逃げることのできない苦しみの中にいる生徒に「先生にはわからない」と言われたら、返す言葉が何も見当たらない。なにか言ったところで、外野の人間が好き勝手言っている無責任な戯言にしかならない。自分が教師になった姿を想像すればするほど、その無力さに目を背けたくなるようになっていった。

そして、大学生になり、「あなたにはわからない」と言われることのいたたまれなさを痛烈に経験することになる。

大学生の時、私は児童養護施設の子どもの学習を支援するサークルで活動していた。一人の子どもに一人の学生がついて、どちらかが卒業するまでずっと担当する仕組みでやっていた。
私が担当した子は、施設の子のなかでも感情表現が苦手な子で、試し行動も多く、かなり苦労した。その子が私のことを全然認めてくれず、口をきいてくれない、暴言をはく、宿題に手を付けない、ということが続き、最終的には担当を外れることになった。
その子自身が、明確に「あなたにはわからない」的なことを言ったわけではなかったけれど、私のことが受け入れられなかったことは確かだ。
今思えば、私の「支援したい」という明け透けの善意が、その子に言外に伝わり、それが気持ち悪かったのかもしれない。あの時の私は確かに力んでいた。施設にいるということは、何らかの事情で家庭で生活するのは難しいということだし、学校で嫌な思いをすることもあるだろう、それを少しでもカバーできる存在として頑張らなくては、と、たぶん自分が思っている以上に肩ひじ張って学習の時間にのぞんでいた。
きっと、あの子が望んでいたのは、色眼鏡で自分を見ることなく、ただ隣に座って、一緒に宿題をやったり遊んだりしてくれる近所のお姉さん的な関係であって、支援の関係ではなかった。この経験を振り返ってみると、「あなたの苦しみがわかる」ということよりも、「あなたの置かれている状況やその苦しみはわからない、でもあなたの存在自体が私にとって何にも代えがたい」ということの方がよっぽど大事なんじゃないかと、本当に遅ればせながら思った。

「あなたのことはわからない」の先へ

大事なのは、「わかる/わからない」の問題というより、苦しんでいるあなたを私は「見捨てておけない」ということなんだろうと思う。
あなたのために何ができるかとかできないとか、そんな話は二の次であって、あなたを見捨てておけない人間がここにいるということを受け入れてもらってからしか、直接的な支援は先に進めないのかもしれない。支援を受け入れないという選択肢を用意しない支援は、もはや支配に近づいてしまう。
そんなこと言われなくてもわかってるよ、という支援者の方々はきっと数えきれないほどいらっしゃるだろうし、そうであったらいいなと思う。
かくいう私は、研究者として、支援が支配にならないための倫理原則を一生懸命考えるのである。

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