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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んだ

 表題の件の本を読んでみた。

 それは、自分自身も本を読む量が昔より減っていることもあるし、本に関わる仕事をしているからでもある。
 以前にもどこかで書いたが、今、本が売れないのは大人があまり本を読まなくなったからだ。それはいろいろなところの統計に出ており、議論の余地はあまりない。
 だが、なぜ読まなくなったのか、それとも、読めなくなったのか、環境の影響なのかという部分が自分の中でふわっとしており、それをハッキリと言語化したかったというのが、この本を読んだ動機だ。

文脈という「ノイズ」のある情報

 当該本は、日本における読書環境などが明治の近代化から時代に沿って解説され、各時代のベストセラーについても、なぜそういう本が売れたのかといった分析から結果論としての「時代の空気」をきちんと読み解いていて、非常に面白い内容だった。
 で、結論としては、本を読むという行為には文脈が不可欠であり、仕事をする上では文脈というのは「ノイズ」であるがために、その「ノイズ」を極力排除したいという思いがあるため、本を読めなくなる。という感じの結論であるように思う。(私の読解力の無さでそうとらえてしまっただけなのかもしれないが…)
 ファスト映画などの流れは、つまり文脈をすっ飛ばして、処理する情報だけを得るやり方であるというだった。
 なんとなく納得しかけ、でもやっぱり違和感がある。
 この手の論は情報や教養などを得るための実用書やビジネス書と小説などをひとくくりにして語る、そのためなんかちょっと違和感を私は感じてしまうのだ。

違和感①:マンガは今でもかなり読まれている

 市場の状況を見る限り、電子も含めればマンガの消費は伸びている。

 マンガは小説と同じく多くが創作物語であり(実用マンガやエッセイ漫画もそれなりにあるはあるが…)、著者のいう所の文脈という「ノイズ」の乗った作品であるように思う。
 また、同様にゲームなんかも市場は広い。相変わらずストーリーもそれなりにきちんと作りこまれていたり、なんならゲーム実況などで配信者の文脈をプラスオンされたゲームを楽しんでいたりする。
 そういったものを見るに、我々が文脈という「ノイズ」を忌避するがために本が読めなくなったという論には違和感を感じてしまう。

違和感②:体験型コンテンツの隆盛

 マーダーミステリーや脱出ゲームなど、体験型コンテンツは昔に比べるとけっこう増えた。また、コンテンツに関連したライブやイベントなどもコロナから復活し、結構加熱しているように思う。アニメや漫画を題材にした展覧会なども多く開催され、それなりに集客されている。
 オンラインでオンデマンドコンテンツが普及したからこそ、その場、その時のリアルでなければ体験できないコンテンツの価値が、相対的に上がるというのはわからなくもない。手間も暇もお金もかかるのだが……。

本当にわれわれ大人が小説を読めなくなった原因

 以上のように文脈を忌避しているというのも違和感があり、かといって忙しいからというのも、他に時間のかかるコンテンツを楽しんでいる実態からすればやっぱり違うように思う。
 だとすると我々が小説を読まなくなった、読めなくなったのは果たして何が理由なのだろうか?
 今のところ、他のエンタメとの大きな差は文字であり、やっぱり文字を読むことが「大変」なのだろうか……。昔に比べて情報の処理速度が上がっているために、仕事で文字を読む機会は非常に増えている気がする。なので、それが結構キャパシティに来てしまっているのかもしれない。
 コロナ禍以降、リモートワークも進み、さらに文字情報の処理は増えているので、その傾向は強まっているのだろうか?
 少なくとも、隙間時間を潰すことを目的とした読書は、SNSなどにとってかわられた認識はあるのだが……。

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