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世の中全て、どこかの誰かがやっている

お久しぶりです。torajaです。
社会人になり不慣れな業務に忙殺されてましたが、また少しづつ書いていこうと思います。

そんな訳で、今回は社会人になって未熟ながらも感じた事を誰かに共感して貰えればと思う。

どこかの誰かがやっている

一つ目は、本当に当たり前のことだが世の中のことは全て「どこかの誰かが、その手でやった成果」という事。

コンビニでおにぎりが買えるのも
犬がはしゃいだCMが流れるのも
本屋に本が並んでいるのも

おにぎりを作って、それがコンビニに運ばれて誰かが並べる。
場所を借りて、カメラを借りて、犬を連れてきて、「晴れた日が良い」「海辺がいい」そんなどうでもいい事をを決める人もいる。
紙を作って、文字を打って、本の形にして、運んで、本棚を作って、誰かがそれを一つ一つ並べる。

もっと細かな過程が億千とあるのは分かっている。犬に餌をあげる人がいて、本の帯を整える人がきっといるのだろう。

AI化、機械化という言葉が主流になった日は浅い。私もある程度機械ががやってくれるものと思っていたが、結局のところイレギュラーに対応出来るのは人の手である。だから自動なのは繰り返される業務だけ。

そこで思ったのは、結局のところ「創造性」を持つ事が今後に必要な事。
機械の手でおにぎりが作られるし本は形になるが、おにぎりの味も、犬がはしゃぐCMも、殺人が起こる本の内容も自動ではつくられない。(近いうちに実現するかもしれないが)

昔からずっと小説家は尊敬されて、最近の子供はYOUTUBERに憧れるのは「創造性」を持っているから。
パクると叩かれるのは「創造性」を持っていないからか。

「創造性」を持たないと駄目とは言わないが、求められる割合は減っていくだろう。集団に属する時代は終わったし、個が表面に浮かび、それを簡単に見つける事が出来るのだから。

使わないと、頭は腐る

子供の時は大人は頭が良いものだと思って(思わされて)いた。

それはそうだろう。何十年も多く生きてきた事で蓄えられた知識と習慣は、そう簡単に無くなるものではない。

ふと自分の人生を振り返ると、一番頭が良かったのは大学受験していた時。
毎日8時間近い勉強をこなし、「記憶」を基に知識をフル活用していた。

大学時代は、「記憶」の過程はあまり必要ない。文系学部ではあるあるだが、書籍から抽出した誰かの言葉を読み取ること、あるいは付け足した浅い考えだけで卒業は出来てしまう。

社会人になるとまず覚える事「記憶」が再び優先された。加えて必要になるのは「読み取り」「伝える」の二点。

なんだ今までやってきた事じゃないか。
以外と記憶力は残っているものと感じた。言われた事をメモして、振り返れば覚えてる事が多い。
読み取るのも慣れて、知識がついてくれば出来る。と慣ればあとは「伝える力」だけ

…と思っていた。

読み取ったと思っても、突然聞かれると説明できない。「確か」と「多分」で考えを伝えてしまう。言葉に詰まるし、敬語はまちまち。

よし、勉強し直そうと考えても中々机に座ってペンを持つまでにいけない。

なるほど、大学四年間において自由と引き換えに失ったものは大きい。そして失うのはあっという間だが、戻すのは難しいものだ。

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