安心する場所の作り方

 機能不全家庭で育った人の共通点として大人になって生まれ育った家庭から離れても「常に不安である」「常に緊張している」状態が続いていることがよくある。しかし、私もそうだったが、一番不安で緊張している本人その人が自分が緊張していて不安であることに気づいていないことが多い。そもそも幼い頃から「安心する」「リラックスする」という状態を与えられずに育っているので、それがどういう状態なのかわからないのだ。私は、初めて心療内科の先生に「君は『安心』がわかってないんだ」と言われた時、「は??」ときつねにつままれたような気がした。その時は、「安心」や「リラックス」の意味くらいわかってるよ何言ってんの?と思った。でも今思うと言葉の意味はわかっていたけど、「安心」や「リラックス」を体感として深く感じて理解してはいなかった。海を一度も見たことがない人が、人に聞いたり写真を見たりして海の印象を記憶しているけど、実際には行ったことがないので潮の匂いや海風の気持ちよさや、潮風がベタベタする感じや波の音、波しぶきの動き・・・など何も体感していないのと同じかもしれない。言葉を知っていて写真を見たことがあるだけなのと実際にその経験・体験をしたことがあることでは、まったく違う。

 もしくは、自分の不安や緊張の状態に気づいていることもあるだろう。でも「こんなに不安で緊張してしまうのは自分の能力が低いからだ・・・努力が足りないからだ・・・もっと努力しなければ、我慢しなければ・・・」などと更に焦ッタリスル。もしくは「こんなに不安で緊張するのはあの人の圧力のせいだ・・・」と外に原因を見つける。そして「あの人に嫌われないように、なんとなしなきゃ・・・」とか「悔しいから一生懸命働いて今度はあの人に絶対文句を言わせないぞ」と自分を更に緊張させ不安にさせる人を自ら引き寄て、不安と緊張を更にこじらせていくこともある。

 私は自分の子供と暮らし、その日々の様子や成長を観察しながら「安心」や「リラックスする」ことは、先天的に誰もが精神に持っている才能などではなく、後天的に学習して身につけるものなのだと知った。それまで私は「安心」や「リラックスする」ことは生まれ持っての「性格」「素質」だと思っていた。だからいつも不安で緊張している自分を「恥ずかしい性格の人間」で「幸せになる素質が欠けている」のだと自己評価し、周りからそう思われることを怯えていた。いつも必死な自分とは違い、力が抜けていて笑顔が素敵なリラックスしている人を見ると「どうやったらああなれるんだ?」「私の努力が足りないのか・・・」「羨ましいけど、あの人にみたいにはなれないんだ・・・」と心から失望した。でもそれは、違うんだと今は確信している。努力が足りなかったから、劣っていたからリラックスができなかったんじゃない。努力しないと、劣っている自分をなんとかしないと幸せにはなれないという価値観、気を抜いたら(安心したら)怒られるというような記憶が、私を安心感から遠ざけていただけなのだ。だから、どんなに不安を抱えている人も自らが本当に望んで日々の生き方や環境を整えていけば、少しづつ安心してリラックスした柔らかい笑顔を手に入れることは可能だ・・・と、そう今は思う。

 今、ともに生活する日々の中で私の子供は一緒に母親である私や父親と遊んだり抱っこしたり褒めたりすればするほど安心して自分に自信を持っていくのがわかる。家で絵が上手に描けたら保育園に持って行ってみんなに発表したりして「すごいねよくできたね」と言ってもらう。自分に自信がある子は、人にもわりと優しくできるみたいで、私が何かを失敗しても「でも大丈夫だよ こうすればいいよ」などと励ましてくれたりする。

自分の中に「安心」があれば、周りが嵐でも落ち着ける。

自分の中に「安心」があれば、困難な時も楽しめる。

自分の中に「安心」があれば、焦って変な誘惑にものらないで済む。

「安心」の持つ力は、限りない可能性と生きていく上で絶対的な必要性に満ちている。

「優れた人間になれ」「気を抜くな」「自分を疑え」

教育や躾けという名の下に、安心を求めること自体が恥であり愚かさであるようなことを叩き込まれた人も多くいるだろう。

そんな安心することに慣れていない大人は、具体的にどうすれば「安心」を手に入れることができるだろうか?

私の生活の中で気づいた出来事を書いてみたい。


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