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お手伝いさん

 私が生まれる前からずっと私の実家には住み込みのお手伝いさんがいた。お手伝いと言っても今時の「宅配家事サービス」みたいなものではない。時代劇に出てくるような「住み込みの丁稚奉公」だ。お手伝いさんは、昭和の初め、まだ少女だった頃に九州の田舎から出てきてからずっと住み込みで祖父と祖母に仕えていた。結婚もせず、子供も産まず、60過ぎて、世の中が平成になってもずっと。彼女の仕事は、祖父と祖母の世話と家業の手伝いだった。

 恐らく私が3歳くらいの頃、それまで家業の実権を握っていた父の姉が、あり金を持って蒸発した。残された会社は、蓋を開けてみるとものすごい借金だらけだった。そのあまりの金額にたくさんいる兄弟たちは、みんな恐れをなした。そしてそれまで跡継ぎからもっとも遠いだった父が跡を継いだ。自動的に私は「たったひとりの跡とり娘」となり。それまで母と父の部屋で一人で過ごしていた私の生活は一変した。今度はビルの一番上にある祖父と祖母の部屋に迎えられたのだ。たくさんのおもちゃやお菓子を与えられて。

跡を継いでから母と父は、毎夜遅くまで帳簿付けなどの仕事をしていた。だから夜眠る時は祖母の部屋で、隣にお手伝いさんがいてくれた。しかし、いつもふと目覚めるとお手伝いさんの姿はなく、振り向くと隣で100キロ越えの巨体の祖母が息苦しそうに呼吸している。そして反対側の隣には漆黒の仏壇があり、亡くなった人の写真が飾られている。この黒光りする仏壇と遺影が、めちゃくちゃ怖かった。子供なので怖くなって誰かにすがりつきたくなるのだが、隣に寝ている祖母はその対象ではなかった。祖母は、私がどんなに怖がっても起きなかったし、私のことを心配もしたり抱きしめて慰めることもなかった。ただ横たわった巨大な肉の塊がそこにあるのみなのである。怖い夢をみて夜中に起きたときなど、祖母の存在はむしろ逆効果で、私を不安な気持ちにさせた。寝ている祖母の体を揺すって起こそうとするが、ビクともしない。

 私は、何度も内線電話で仕事中のお手伝いさんを「怖いから来て」と呼び出した。その度に仕事場で働く大人たちに「お手伝いさんはただでさえ仕事で大変なのだから呼び出したら迷惑でしょ、隣におばあちゃんがいるでしょ?」と言われた。「いるけど、おばあちゃんじゃダメなんだ」と言うが、大人たちにはそれは通用しなかった。家族の世話の他に会社の仕事だけでも大変なのに、わがままな一人っ子の世話までやらされて本当に気の毒なお手伝いさんだと近所の人も従業員も、私の周りの大人たちはみんな私のこと噂しているらしかった。

 中学に入る頃、なかなか祖父やお手伝いさんの過保護から離れない私をまともな方向に引っ張ろうとして継母は、追い込みをかけた。「みんなお前のことをわがままな子だと言っているよ」「お手伝いさんが、あんたの悪口を従業員や近所の人たちに言って回ってるいるんだよ」「私があんたを叱っている時、あの人はあんたの犬と遊びながらあんたのことを笑ってるんだから」「飼い犬だって結局お手伝いさんが世話してるじゃないの、なのに可愛がる時だけ『私の犬』って顔して可愛がって、よくそんな調子のいいことができるわね 自分で散歩するって言ったって勉強が遅れているんだからそんな暇ないのよ だいたい庭もないのに犬を飼うなんて不潔な」と立て続けに突っ込まれた。もう何も言えなかった。彼女は正しくて、最もで。私は、生まれて家の中でただ普通に育ってきたつもりだった。でも私が生まれた家はそもそも普通じゃないし、私は母を亡くし、祖父と祖母の部屋で甘やかされて育つうちに、いつの間にかワガママなお姫様に育ってしまっていて、勉強も遅れていて、だらしなくて、不潔で、みんなそんな私を本当は嫌っているのだということを知らされたのだ。だからこれからは180度心を入れ替えて、これまでの自分を変えていきましょうということだった。

 いつも私のお願いを聞いてくれてお母さん代わりに私を育ててくれていたお手伝いさんが、私の悪口を近所の人や従業員に言って回っていると継母から教えられた時、視界が暗くなった。胸がグゥッと音を立てて締め付けられるように苦しかった。「私は迷惑な子」「私は嫌われ者」「私は恥ずかしい子」自分を消したいような、そんな黒いモヤモヤが、胸から首にかけて滲んだ。

 今、思えば、私も自分の息子がイヤイヤが激しくて疲れたりすると「うちの子最近大変なんです〜」と近所のおばちゃんに愚痴ったり相談したりするし、目の前でよその親が子供をものすごい大声で叱り続けているのを見かけると気まずい気がしてその場でとりあえず笑ってその場をごまかしたりする。だから、お手伝いさんが私のことを心の底から憎んでいたわけなのではないんだろうな、きっとと最近ようやくそんなふうに想像できるようになってきた。でも当時は子供だったし、お手伝いさんのことをずっと母親代わりに思って接していたからショックだった。「あんたは影で文句言われてるんだよ」と言われた時「もういい、もう疲れた」そんな風に何かがぷつりと途切れるように感じた私は、それ以降お手伝いさんとは、あまり話さないようになった。祖父や祖母とも話すのをやめた。尻尾を振って寄ってくる飼い犬のことも触るのをやめた。彼らもだんだん私に話しかけなくなっていった。無邪気だった飼い犬は、私のことをちらりと見もしなくなった。寂しかったけど、それ以上に彼らと関わって、怒られる理由をつくることに疲れていた。もうどうでも良いと思った。私はまだ中学生だったけど、頭も体も心も老人のように重かった。

 お手伝いさんとの最後の思い出の場面は、それから6年後。高校生3年生の冬。台所の場面だ。私は、郵便受けに入った合格通知を手に家に入った。両親は留守だった。そしてお手伝いさんがいつものように台所に立って夕飯の支度をしていた。私は、彼女の背中に向かって「大学受かっとった」と言った。すると彼女は、すぐさま振りむいて両手を口にやり「あぁ、よかった」と心底から言葉が漏れ出るような声で言った。そのびっくりしたような息をのんだ反応が本当に心がこもっていて、久しぶりに彼女と会話した気がして、なぜか私はすごくホッとして隠れて少し泣いた。

 きっと彼女は、私が自覚している以上に、私にとって特別な存在なのだろう。母親がいなかった間、仕事の合間にお人形の服を作ってくれたり、クリスマスには枕元にお菓子の入った長靴を置いておいてくれた。小学生の時、仲良しだった担任の先生にあげるために私がマフラーを編んでいたら下手すぎて目が詰まりすぎてしまい、結局最後は代わりに全部編んでくれた。私は、きっと本当に困った子だったんだろう。だけど、彼女は、確かに私を可愛がってくれた。

 私が大学に行った後、丁稚奉公という時代遅れな雇用方法で朝から晩まで働き続けていた彼女は、時代遅れな祖父や父とは違い現代の常識のある社会からやってきた継母の計らいにより田舎に帰ったらしい。帰る時に飼い犬も連れて行ってくれたそうだ。飼い犬はガンになって余命宣告されていたらしいが、彼女と一緒に田舎を駆け回るうちに回復して元気になったらしい。私は最後まで可愛がることができなかったけど、お手伝いさんと一緒にいたらきっと幸せだったよね。あれから20年。彼女に対して(犬に対しても)、申し訳ないような自己嫌悪の思いは、まだこの胸に残っている。でもこうして私の不安障害が回復していっている過程で浮かび上がってきた彼女の記憶を書いていくにつれ、彼女が優しくしてくれたことや最後の二人の台所での場面が蘇り、それが良いものだったのは私にとって救いのような気がしている。

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