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『本能寺の変』考察

 歴史考察なんてここんとこやってなかったですけど💦


 『本能寺の変』とは、1582年6月2日(旧暦)、中国攻めを行っている羽柴秀吉の許に援軍に向かうはずだった明智光秀が、急遽進路を変更し、京都・本能寺に宿泊している主君・織田信長を襲撃し自刃に追い込んだとされる歴史上の出来事です。


 ちなみに『変』とは成功したクーデター、『乱』とは失敗したクーデターのこと。


 このとき信長が僅かな手勢のみで本能寺に宿泊していたのは、6月2日に本能寺に徳川家康を迎え、茶会を開くためであり、明智光秀は実はこの徳川家康を討ち取る手筈になっていたようです。


 明智光秀は、これを逆手に取って主君・織田信長を自害に追い込み、その息子・織田信忠をも敗死させています。


 ではなぜ、明智光秀は主君・織田信長を裏切ったのか。


 その理由は怨恨説、野望説、将軍黒幕説、公家黒幕説、イエズス会黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説など諸説ありますが、近年では四国・長宗我部元親との関係が背後にあるという説も浮上しています。


 当時中国・毛利攻めに奔走していた織田信長は、四国・長宗我部元親と同盟を組み、長宗我部元親に「四国切り取り次第」(=自力で土地を奪い取り、所領としてよい)という内容の朱印状を与えていました。そして1580年頃には明智光秀が織田信長と長宗我部元親の交渉窓口となっています。


 しかし翌1581年に織田信長はこの「切り取り次第」という方針を撤回し、長宗我部元親に阿波の占領地半分を変換するように迫ります。


 当然長宗我部元親はこれを不服とし、これをきっかけとして織田信長は四国征伐を考えるようになります。


 この四国征伐の命に慌てたのが明智光秀。四国には光秀の重臣・斎藤利三の実兄・石谷いしがい頼辰よりときの義父・石谷光政の次女が長宗我部元親の正室というつながりがあり、明智家・斎藤家・石谷家は土岐源氏の流れを汲む家系。すなわち元親の嫡男信親には土岐氏の血が流れているということになります。


 おそらく明智光秀・斎藤利三は長宗我部信親を救いたかったのではないか。


 まあ事情はもっと複雑なんでしょうけど。なんせ織田信長を討ち取ったところで、織田軍すべてを敵に回すことになりかねないのだから。


 ちなみに四国征伐の総大将である織田信孝が四国へ進行する予定だった日は、本能寺の変が起こった1582年6月2日(か3日)だったようです。


 それにしても1582年だからっていちぱんはないでしょう……💦





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