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あらためて自己紹介

初めましての方にもすでにご存じの方にもリアルでお逢いして打ち解けあった方、一緒に学んだお仲間にもあらためて私という人間がどういった人間なのかを知ってもらうために。そして、私自身、自分という存在を振り返って深堀りするために。

 今年正月に静岡で母と父から聞いた話も交えて書き残しておきます。



 私は、1974(昭和49)年 7月 2日に福岡県糟屋郡志免町で生まれました。というか母の実家がそこにあったというだけで、どこの病院かまでは知りませんが💦 星座は蟹座、血液型はAB型。兄弟は4つ下に弟が一人います。
 母は5人姉弟の3女、父は一人っ子で、母の姉弟の子としては最初に生まれた男の子だったので、大変可愛がられたと聞いています(特に母のすぐ下の妹に)


 その頃なぜ福岡に住んでいたのかというと、東京の本社に勤めていた父が、転勤で仙台(東北支店)に向かうはずだったところ、転勤先が急に九州支店に変更になったそうです。そして同じ会社の九州支店に勤務していた母と出会い結婚。


 当時は知りませんでしたが、私は生まれつき脳性麻痺持ちで、運動を司る部分に麻痺の影響が出ていたらしく、人より少し動作が緩慢で、特に(?)指先を器用に動かすことができなかったようです。そして言語を司る部分にも影響があったのか、発声も少し人よりゆっくりしていました。(今でもそうですが)


 そして私が3歳くらいのときに、長野の実家で暮らしていた父の父(祖父)が体調を崩したため、父は会社を辞め長野に戻ろうとしたそうなのですが、会社のほうから『関東支店に転勤させるから辞めないでくれ』と言われて関東支店に転勤&栃木県小山市に転居し、祖父と同居開始(この時は借家でした)。それに伴い私も小山市の白鷗はくおう大学(付属)はくおう幼稚園に入ることに。
(祖父と一緒に城山公園(祇園城ぎおんじょう址)まで散歩に行く途中に架かっていた観晃橋かんこうばしの崩壊が1977年なので、その前には小山市に住んでいました)

 その後ほどなくして、現住所でもある茨城県結城市の団地の一軒家を購入し、転居。私もまた幼稚園を移ることに(はくおう幼稚園を卒園したのかどうかは不明)


 そしてこれは母から聞いた話なのですが、はくおう幼稚園を離れるときに園長(?)から、『あの子は元気で周りともすぐ打ち解け合えるけど、あの緩慢な動きと喋りでは将来苦労することにもなるかもしれない』と言われたそうです。


 それを受けてかどうかはわかりませんが、私は栃木県の自治医大(自治医科大学附属病院)で言葉(発声)のリハビリを受けていました。もっともどんなリハビリだったかは憶えてませんが。(リハビリした事自体憶えていない)

 その後無事一般の小学校に通うようになってからはリハビリには行かなくなったようです。


 小学校では4年生のときに体育の授業で担任から見学しているように言われたり、5年生のときに転校生から喋り方を揶揄されたりといろいろありましたが(この辺エピソードを後述)、なんとかそこそこの成績で小学校中学校を卒業。この頃母にはよく『俊吾は勉強頑張ってるから他の人も一目置いてくれてる』と言われていました。この頃は勉強すればすぐ成績に反映されたので、勉強は好きでした。


 その後下館第一高等学校、一浪して城西大学経済学部経営学科(埼玉県坂戸市)へ進学。この頃にはすでに勉強から興味が薄れ、大学まで通うのが面倒くさくなり(片道3時間)、週に数回途中大宮駅から川越方面に向かわずにそのまま上野駅に向かいアキバ通いしていました。多分この頃がアキバデビュー、ヲタクデビューだったと思います。
 そしてそのまま(?)大学を2年で中退し、当時上野にあった東京科学電子工業専門学校マルチメディア科へ。当時マルチメディアの定義はやや不明瞭でしたが、この頃からそこそこパソコンの操作・知識が身に着いたと思います。


 専門学校は卒業したものの就職は散々で、最初に入った会社は専門学校の紹介、2社目は企業内企業のようなところで、専門学校でHTMLやVisualBasicを学んできたのに、出向先はCOBOLを使った大型汎用機の維持メンテでした。(でもこの会社が一番居心地が良かったような) 3社目は個人でやるようなWEB結婚相談を会社でやっていました。その他にも何社か在籍しましたが、『間違えて採用通知を送ってしまった』だの何だの言われ、すべて各社半年も保たずに解雇になっています。


 それでもめげずに転職活動をしているうちに、アキバの近くにあった会社で、松葉杖をついた社長さんと面接。『君のその喋り方は障がい者手帳を取れる』と言われ、両親と相談して茨城県友部市の病院で障がい者手帳を交付してもらいました。(障害名は『脳性麻痺による両上肢機能障害』、等級は3級。一般には片腕もしくは両腕とも肘から先が無い状態といわれているようですが、私は身体に損傷はありません。むしろ氣になっていた発声が障害認定されなかったことにびっくりしました)


 ちょうどその頃、関東支店で総務をやっていた父も労働基準監督署(?)のほうから、『会社でもっと障がい者を雇ってください』と言われていたらしく、父の紹介という形で父が勤めていた今の会社に入社。入社日は2002年9月17日火曜日(16日月曜日はハッピーマンデーでした)、当時の内閣総理大臣だった小泉純一郎氏が初めて北朝鮮を訪れた日でした。


 そして勤務地は東京の市ヶ谷にある本社から埼玉の越谷に変わり、住む場所も東京都足立区西新井から埼玉県春日部市の賃貸マンション、そして同じく春日部市の分譲マンションへと変わったものの、所属部署は21年半同じ。2024年になってから初の転勤を言い渡されて、実家から関東支店に通っています。


 転勤前の事務所ではその部署で基礎的なことをやっていたため、新人や転勤してきた若手に業務内容を教えることなどもしていましたが、元来他人と話すのが苦手だった私は、鴨頭嘉人さん(鴨さん)が主催していた『話し方の学校』に通うことを決断。当時は講師など話し手になるつもりはなかったので、半年間のベーシックコースだけでしたが。(今はどうなっているかわかりません)


 そして『話し方の学校』の当時の副学長で、プロコーチカウンセラー養成スクール『UNIVER』を主催していた津田紘彰さん(ヒロさん)に、『しゅんちゃんは間違いなくこっち側の人間(コーチカウンセラー)だから早くおいでよ』と誘われてUNIVERに入学することに。


 とわいえ当初はプロコーチ・カウンセラーを目指すというよりは、コーチ・カウンセリングの技術でコミュニケーション能力を上げることに主力をおいていました。が、UNIVERや卒業後もヒロさんからいろいろ話を聞いたり学んだりしていくうちに、多くの日本人に夢や希望を贈り、ニッポンを元氣にしたいという氣持ちが大きくなってきました。


 今はまだ、会社の仕事が忙しく学びや実践実行の時間や場所(ステージ)が得られなかったり、やりたいことが多すぎて何からどう手を付ければいいのか迷ってたりしますが、2024年内にはやりたいことやるべきことをまとめ、然るべき行動を起こし活動に移していきたいです。



【幼少期・少年期のエピソード(こちら自分が知らない自分のキヲク】も参照してください。むしろ参照先のほうがちゃんとした文章になってるから(笑))】
・幼少期、寝る前によく母から絵本を読んでもらっていたが、ほとんどの物語を暗記してしまい、母が読み飛ばしたときにはそのことを指摘していた。

・日光東照宮で石段を登るときに、1から100まで英語で数えていた。(5歳位)

・体の動きを良くするためにスイミングスクールに通ったが、当時の私は水面に顔をつけることすらできなかった。プールに入ろうともしない私を背負って先生が私ごと何度も水に潜ったが、当然私はギャン泣き。その様子を会場から見ていた母が、スイミングスクールの事務に『あんな無理をさせるようだったらもう辞めさせてもらいたい』と直訴しに行ったものの、『今はツラいでしょうけど、ここで逃げたらあの子は一生泳げなくなりますよ?』と言われたらしく、そのまま見守ることに。その時私は、みんなが楽しそうに泳いでいる中、プールの浅い場所で一人、水面に顔を浸ける練習を一生懸命していたらしい。(6~7歳頃) 当然それ以降は泳げるようになっています。

 そういえばいつの間に泳げるようになってたかなんて氣にもしてなかったな……

・中学校から自転車通学になるのに、小学4年生になっても補助輪無しでは自転車に乗ることができなかった私。どうやら三半規管が弱かったらしく、バランスを取るのも少し苦手だったらしい。

 そこで近所の子達と自転車に乗る練習をしているさなか、坂の上の小高いところから上級生に背中を押され、私は自転車ごと坂を下っていき、必死にバランスを取ってそのまま自転車に乗ることに成功。

 その後も私は何度も何度もその坂の上から上級生に背中を押してもらい、バランスをとる感覚をつかめるまで何度となく練習していたとのこと。

・小学校4年生の頃、体育の授業でクラスで縄跳びをしている時になかなか跳ぶことができず、担任の先生から私だけ授業を外れて見学しているようにといわれた。当時のことは母に聴くまで、担任の名前を含め全く憶えていなかった。

・小学校五年生のときに、転校生に発声を揶揄され(仇名までつけられ)、人前で喋ることが少なくなった。多分その当時は発声を揶揄されたことはなかったので(当初茨城県結城市に引っ越してきた時、公園で『生まれつき喋るのが遅い』という自己紹介をしていたのもあるかもしれないが)、ショックは大きかったのだと思う。


 以上のエピソードや今までの経緯から、多分私は
・『本氣で成し遂げたい!』と思ったことは、できるようになるまで影で何度も挑戦する。

・相手に受け入れてもらい、完全に相手を信頼すると自分から話しかけたり、冗談を言うようになる。逆にその信頼が裏切られると最悪記憶を失うくらいショックを受ける。のわりに私自身、ナチュラルに人を切り捨てることもありますがw

・繰り返しやることでかなり記憶に残る (普通)

・石橋を叩いて叩いて、ヒビすら入っていないことを確かめてから渡るスロースターター。だけど軌道に乗るとスムーズ。もっとやりやすい方法を追求する。

・既存のアイディア同士を組み合わせて、新しいアイディアを創り出す

・一人で作業をこなすことが多いが、周りの協力を得て、さらに力を発揮するタイプ

 タイプの人間なのかもしれません。

 

質問ですが、あなたから見て、私はどのような人間でしょうか。



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