見出し画像

心理学者人物列伝その4  B.F.スキナー

スキナー

バラス・スキナーってどんな人?その出身や生涯は?豆知識やエピソードを簡単に解説!

今回は20世紀でもっとも影響力のある心理学者の1人、バラス・フレデリック・スキナー(以下スキナー)を解説します。心理学における行動分析学の第一人者であったスキナーは、同時に発明家、社会哲学者、文学者としても活躍し、彼が残した業績は人材育成やカウンセリング、動物の訓練技術など、現在もさまざまな分野に応用されています。
そんな偉大な心理学者スキナーはどのような人生を歩んだのでしょうか。今回はエピソードを交えながら、スキナーの生涯を紹介します。


バラス・スキナーの生涯


心理学における重要な実験「スキナー箱」を開発したスキナーは、幼少期から発明が好きな少年だったようです。

ハリウッド映画のような冒険少年時代!?


スキナーは1904年3月20日、弁護士だった父ウィリアム・スキナーと母グレイスのもとに、ペンシルベニア州の裕福な家庭に生まれました。幼い頃から物作りが大好きで、永久機関やエルダーベリー販売の自動選別機など、さまざまな発明を試みていました。親友のドク(父親が医者だったため”ドク”と呼んでいた)とは電信線を家と家の間に張り、メッセージのやり取りをするなど、大人顔負けな遊びも楽しんでいたようです。

また、ある夏には実際にエルダーベリーの収穫と販売事業を始め、熟した実と青い実を分ける水路式の選別機を工夫したそうです。高校時代には靴屋でバイト中に、掃除用の"緑の粉"を分配する装置を作るなど、発明のセンスに富んでいました。物心がついた頃から機械いじりが大好きだったスキナーは、のちに革命的な発明を行う素質があったのかもしれません。

著名作家への夢を捨て、心理学の道へ


ハミルトン大学に進んだスキナーは、意外にも心理学ではなく、作家を志して学んでいます。
しかし自身の才能不足を自覚し、卒業後は両親と同居しながら小説を書こうと試みるも失敗。この時期をスキナー自身が"暗黒の年月"と呼んだように、文学的な夢を諦めかけていました。

そんな矢先に出会ったのが、ジョン・B・ワトソンの行動主義でした。ワトソンの科学に心惹かれたスキナーは、文学から一転して心理学の道へ進むことを決意します。その後、ハーバード大学で博士号を取得し、スキナーは教員の道へ進みました。作家を志していた若き日の夢は諦めたものの、行動主義の分野で多大な功績を残すことになったのです。

空前の大発明!スキナー箱が生み出した革命的理論


スキナーは行動分析実験のため、「スキナー箱」という革命的な装置を発明しました。この箱の中で動物にボタンを押すと餌がもらえるような訓練をし、動物の行動を詳細に観察・分析する実験を重ねました。その結果、「強化の原理」という画期的な理論を確立するに至ります。つまり、行動の結果が良ければその行動が繰り返される一方、結果が悪ければその行動が減っていくというものです。スキナーはこの理論から、人間の自由意志は幻想にすぎないと主張し、行動主義の地位を不動のものとしました。

スキナー箱での実験

※スキナーの実験や理論ついての詳しい解説については、最後に紹介する『心理学』(医学書院)を参照してください。

思想家としての活躍と反響を呼んだベストセラー

スキナーは心理学者としてだけでなく、社会思想家としても活躍しました。1948年の理想郷小説『ウォールデン2』は大ベストセラーに。この中で行動分析理論を人間社会に応用し、強化により人々の行動を望ましい方向に導くことができると提唱しています。

また1971年の著書『自由と尊厳を超えて』では、人間の自由意志を否定し行動を制御できると主張し、大きな物議を醸しました。同著における彼の思想は周囲から反発を呼んだものの、行動主義の地位を確立する上で大きな影響を与えた重要な著作であり、現在でも世界中の諸学者によって読まれています。

また、スキナーの作家活動は生涯のライフワークとなり、晩年には3冊の自伝を執筆するなど、多作の作家でもありました。

ティーチングマシーンで教育革命、晩年も意欲的に活動を続ける


1950年代、スキナーは教育の現場に衝撃を与える発明を行います。小学校の算数の授業を見学した際、従来の一斉教育の問題点に気づき、最初の「ティーチングマシーン」を作ったのです。この機械は生徒個人に合わせて適切な問題を出題し、間違えた場合はフィードバックを与えて理解を促進するというもの。熟練の家庭教師と同様に、1人ひとりの習熟度に合わせて徐々に難しい課題に移行できるよう工夫されていました。スキナーはこの「プログラム学習」の理論と機械を精力的に推進し、教育界に大きな影響を与えました。コンピュータ時代を待たずして、個別最適化教育の先駆けとなった革新的な発明は、スキナーによって開発されたわけです。

ティーチングマシーン

またスキナーは生涯に渡り、行動主義の理論と実践を追求し続けた人物でもありました。これにより、彼の革新的な発想と業績は、現代の心理学、教育、動物訓練など多岐にわたる分野に多大な影響を与えることとなります。死の前年の1989年に白血病を患いましたが、最期の講演でも熱心に自説を説いた情熱的な研究者でした。

スキナーの理論については、当時から反発を唱える人々がいたのは事実です。しかし、行動主義の先駆者として、20世紀で最も影響力のある心理学者の一人に数えられるスキナーは、まさに驚異的な生涯を歩んだ人物だったことは間違いありません。

バラス・スキナーの豆知識やエピソードは?


スキナーのエピソードにはどのようなものがあるのでしょうか。「スキナー箱」を独自で開発したスキナーは、少年時代からアイディア満載の少年だったようです。

子供の頃から発明が得意

スキナーは子供の頃から発明が大好きで、さまざまな創造活動をしていました。友達とエルダーベリーの実を販売する際も、熟した実と熟していない実を選別する道具を自分で作っていたのだとか。また高校生の時には、掃除の「緑の粉」を分配する装置を考案していたそうです。物作りが大の得意で、そのセンスが後に博士として活躍する基礎になったのでしょう。幼少期からの発明好きが、スキナーの原点だったのかもしれません。

自分の娘をスキナー箱で育てた?

スキナーには「娘デボラをスキナー箱で育て、娘が発狂した」といううわさがあります。しかしこれは事実無根で、のちにスキナーの娘を取材したローレン・スレイターにより、この話が嘘であったことが確認されました。事実、スキナーの娘は芸術家として成功し、政治学者の方と結婚されているそうです。

ただ、スキナーが娘を「保育箱」で育てていたのは間違いないそうで、この保育箱は赤ちゃんにとって理想的な環境が整っており、温度や湿度の調節ができ、清潔で静かな空間だったのだとか。

日本の大学にもスキナー箱が送られていた

スキナーが開発した「スキナー箱」が、本人から日本の大学へ寄贈されていたことを知る人は少ないかもしれません。スキナーは自身の実験工程や方法を広めるため、アメリカ国内のいくつかの大学へ「スキナー箱」を送ったほか、日本の東京大学と慶應義塾大学にも「スキナー箱」を送っています。それぞれ東京大学にはラット用スキナー箱、慶應義塾大学にはハト用スキナー箱が送られたそうです。

しかし、送られた当時は「スキナー箱」の使用方法が十分に伝わっておらず、さらに動物を入れてもまったく反応しなかったことから「故障しているのではないか?」という問い合わせもあったとのこと。

バラス・スキナーの生涯まとめ


今回は行動分析の第一人者バラス・スキナーについて紹介しました。
スキナーの人生を振り返ると、幼少期からの発明好きな性格が、後の革新的な業績につながったことがわかりますね。そして、好奇心や物作りへの強い関心が、行動観察への探究心へとつながり、スキナーボックスの開発に結びついたのかもしれません。
 
また、作家を志していた経験から、思想を広く世に発信する重要性を認識し、多くの著作を残したのもスキナーの業績と言えるでしょう。
 
最後に、スキナーが娘へ宛てたメッセージを紹介して終わりとします。
 
「私はお前の欠点と考えられていることを少しも気にしてないし、おまえこそが私が悪い心理学者であることの証明だといわれても平気だ。自分自身の人生を生きなさい。おまえはおまえだ。私はおまえの『自我』が好きなのだ」                
                                   B.F.スキナー

今回紹介したスキナーの実験や理論については、こちらの『心理学』(カレッジ版)で詳しく解説しています。これから心理学を学びたい初心者の方はもちろん、資格試験合格のために心理学を学ぶ人にも最適の1冊です。「一生使える心理学の基礎」として、ぜひご活用ください。
アマゾンからの購入は▶️こちら!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?