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「認知症の第一人者が認知症になった」を見て

本日は、いつもの話題から離れて「認知症」を考えたことを話てみます。

先週、やっとNHKスペシャルの「認知症の第一人者が認知症になった」を視聴する機会を得ました。認知症研究の第一人者長谷川和夫さんは、認知症の人の尊厳を守るため、病名を痴呆から「認知症」へ変更することを提唱し86歳まで診療を続けていたそうです。2年前に認知症を発症しそれを公表しつつ、ご家族のサポートを受けて講演活動を続けていらっしゃいます。

↓のNHKスペシャルの記事は概要がよくレポートされています。

「確かさ」ってなんだろう?

長谷川先生の言葉で

(認知症になって)確かさ、確かさっていう生活の観念が。生きている上での確かさが少なくなってきたように思うんだよね。

ここをずっと反芻している数日です。

生きていることの確かさってなんだろう?私だって、忘れ物はよくするし、今日が何曜日だったか、何日なのかなんてするっと忘れのは日常茶飯事。とくに学校や会社といった決まって行く場所や仕事がないと、今生きているというその実感も揺らぐことはしょっちゅうおこるよ。「確かさ」なんてあるんだろうか?と実は疑っております。

認知症のそれとは違うのかもしれないけど、認知の課題は高齢者じゃなくてもあるように思います。

意思表示はなってからでは手遅れじゃないか

一昨年認知症専門のグループホームで2か月働いてたことがあって、そのときに感じたこと

・私達が知っている老人はまだ元気な状態。後期高齢者と言われ施設に入る状態の高齢者を知る機会がほとんどない。(外出してないから)

・施設は「身体が死なないため」の管理・施策は徹底して行われている(水分・排泄・食事・服薬・運動の管理など)。しかし、それが当人にとって望んだ幸せなのか?はわからない。認知症になってからでは、意思表示は困難。

今が元気であればそれが永遠に続くように感じるけど、思いがけず何らかの身体的な障害や制約が絶対やってこないとは言い難いというより、それぞれ何らかの形でやってくるでしょうよ。

で、そうなる前にちょっとでも考えておかないと、なっちゃう前に日頃から「こういうふうに暮らしたい」という意思表示はとてもとても大事だと思うのです。

認知症であっても、、精神障害であったとしても、一人ひとりに人としての尊厳があるとそれを態度と行動に現せるのか、、を自問自答する今日このごろです。

旅のことば〜パターン・ランゲージ

本棚から「旅のことば」〜認知症とともによりよく生きるためのヒントを取り出してきました。

自分が自分らしく、人が人らしく生きられるってどういうことかなとあらためてつらつら考えています。

今週の  #週1note は、いま一番気になっていたこのトピックスでした。


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