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【自己紹介】 PSNサッカー創太

はじめまして、PSN代表の創太(ソウタ)コーチです。

ここでは、簡単に自分がどういう人間かを紹介できたらと思います。

現在、僕は大学でサッカーをしながら、小中学生を相手に個人コーチ(マンツーマン)で指導しています。

現在の目標は3つあります。
1つ目が、オランダでサッカー選手になること。 
2つ目が、サッカーの個人コーチの会社を全国でつくること。
3つ目が、日本一のサッカースクールを作ること。
この目標については、この後の記事を読んでもらえれば「どういった経緯で」「どのようにして」などの疑問を解決できると思います。

さて本題に移ります。

【生い立ちと、サッカーを始めたきっかけ】(小学生低学年)
僕は大阪生まれ大阪育ちです。
(面白いことは全く言えない、、、期待しないでください笑)

そんな僕がサッカーを始めたきっかけは、小学3年の時に公園で落ちていたサッカーボールとの出会いがきっかけでした。(拾っただけ)
この出会いをきっかけに僕のサッカー人生が幕を開けました。  

この頃僕は、毎朝6時に起き公園に一人でボールを蹴りに行くようなサッカー小僧で朝から壁に向かってボールをバンバン蹴っていたため、近所中で迷惑な少年として有名でした。
最初は注意もされましたが朝練を続けていくうちに「今日もえらいね」などと以前まで注意をしてくださっていた人から声をかけてくれるようになっていきました。
ここで初めて継続する大切さをしれた気がします。

ちなみにサッカーに出会うまでの僕は継続力が全くなく「空手、ダンス、水泳、体操、お絵かき教室」などたくさんの習い事をしてきましたが、どれも一年以上続いた事がなく常にどうやって辞めれるかを考えていました。
これは、今思えば楽しくなっかたのが原因だと思います。
空手では殴られるのが嫌で走って逃げ回り、水泳では水が怖く顔を水につける事ができず、お絵かき教室では先生に決められたテーマを描かずに独自の絵を描きだすような不思議ちゃんでした。
体操とダンスは唯一得意でしたが、無理やり連れて行かれていた感が強く楽しいと思った事はありませんでした。 

少し話がズレましたが、そんな僕が両親に「サッカーチームに入りたい」と人生で2回目の自分の意思を告げました。(1回目は私立の小学校を辞めたいといった時)
ちなみに両親は、僕がやりたいといったことなどに対して否定せずに「やってみろ」と常に応援してくれるような人です。  

【下野池 入団】(小学生高学年)
すぐにサッカーチームが決まり入団することになりました。
しかしここで問題が発生、この時期に僕は小学校を私立から公立に転校し友達もおらず学校に携帯を持っていっている事が原因で上級生に虐められていたため内気な性格いわゆる「インキャ」でした。
どのくらいインキャだったかというと「常に周りから隠れて行動」「休み時間はトイレに隠れて読書」していました。(学校に携帯を持って行っていたのは私立では強制で公立でも一緒だと考えていたから)
このようにかなり人と接するのが苦手だったためいきなりチームの練習に行くのは、難関で最初はグランドに着くと隠れたりしていました。
しかし3度目の練習見学の際に勇気を振り絞り練習参加することを自らコーチに告げにいきました。
ここから僕の人生が大きく変わります。 

まず下野池のチームメイトに嫌な人は一人もおらずかなり暖かく歓迎してくれました。
そこで僕は、以前から一人でずっとボールを蹴っていたため得意だったリフティングを披露すると「お前上手いな」「リフティング教えて」など言われ実力が認められた気がしてとても嬉しかったことをはっきり覚えています。しかし試合となるとリフティングなどは使えないため中々上手くいきません、、、しかしこの時は、何の練習をすれば上手くなるのかも分かっていないためひたすらリフティングをしていました。(リフティングの回数は、チームで一番1000回は余裕でできていた。) 

こんなにもリフティングが出来ているのに試合では全然上手くいかないためこの頃の僕はかなり悩み「コーチになんの練習をしたら良いですか」と直接聞きに行くことにしました。
するとコーチからは、「マーカードリブルが良い」と言われ数種類のメニューを教えてもらいました。そこから僕は、マーカードリブルとリフティングを朝の6時からひたすら繰り返していました。
この練習のおかげでかなり足元の技術は上がり、試合でも結果を出せるようになってき一年ぐらい経った頃には大会でMVPなどももらえるようになりました。
このあたりからプロサッカー選手になりたいという気持ちがでてきはじめ中学は友達と一緒の部活ではなく、ガンバ大阪の下部組織であるガンバ大阪堺に入団することを決めました。

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人生初のMVPもらった時

【ガンバ大阪堺 入団】(中学生)
無事セレクションを合格する事ができ、ガンバ大阪堺に入る事が出来ました。最初僕が驚いたのは、ガンバ大阪堺はかなり規律が厳しく「コンビニ食禁止」「炭酸禁止」「電車では座らない」「グランドにいる人達全員に挨拶をする」など他にもたくさんの決まり事がありました。
もしルールを破ると試合に出る事ができずないため皆ルールを守って行動していました。
ここでかなり社会人として基本である礼儀などを教えてもらいプロになりたければまずは、立派な人格形成が最も大事ということを学びました。

僕らのガンバ堺の代は、かなり意識が高くみんなで高め合う事ができていたと思います。更に僕らの代はレベルもかなり高く中学3年の時には大阪府で1位、全国大会にも出場する事が出来ました。
そんな中で最初の頃は練習についていくのが精一杯でBチームからスタートし、めちゃくちゃ悔しく「何かこのチームで一番になろう」と考え練習量では一番になると決意しました。
そこから毎日学校前、練習前、練習後、オフの日も必ず自主練に励み自分の中で課題を決め取り組んでいました。(自分の課題がクリアできるまで帰らなかったので学校に遅刻や練習に遅刻したりする事もあった)

しかし、誰よりも練習をしているつもりなのに全然結果が出ず悩んでいた時に本田圭佑選手の言葉に出会います。「努力は嘘をつく」
最初この言葉を聞いた時は、全く理解が出来ずそれと同時に自分の努力と感じていた事が否定された気分で腹が立ちました。しかし、この言葉の本当の意味は「正しい努力でないと嘘をつく」という事でした。
つまり間違った練習をしていても上手くなる事はなく、実際僕の自主練はほとんどマーカードリブルとリフティングしかしておらず「チームでボールタッチが一番柔らかい」「リフティングは一番上手い」とは言われていましたが、それだけでは試合では生かせないと気付きました。

そこから僕は何が正しい練習か分からないまま、有名なチームの練習、サッカーの本などを参考に様々な自主練を試しました。
三ヶ月続け効果がないと感じたら新しいメニューに取り組み、効果があると感じたものはそのまま継続ということを続けました。
そうする内にサッカーでも結果が出始め、Aチームに入れたりするようになりました。

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サッカーノート

人生初の怪我(オスグッド)
僕は、中学2年生から3年生に上がる時にかけてオスグッドと呼ばれる怪我をします。僕はオスグッドの影響により中学3年時は、ほとんどサッカーをする事が出来ませんでした。
しかしこの時の僕は、全国大会に出られなかったのは悔しかったですが落ち込む事はなく、成長できるのではと考えていました。しかしできるメニューは限られているので、ほとんどがボールを使わず身体操作中心のメニューに取り組みました。
そこから約一年くらい経った時にようやく復帰ができ思った様にプレーをする事ができるかドキドキしていたのですが、いざ練習が始まると驚いたことに今までに感じた事がないくらい身体が動かしやすく調子が良かったことを覚えています。
それは、身体操作トレーニングにより動きの質が上がり身体を思ったところに動かせる技術が上がっていたためです。    

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中学2年の時

【FC大阪 入団】(高校生)
高校は大阪にある清明高校というところを選びました。
なぜ清明を選んだかというと、練習参加の際に推薦をもらえたのと、過去にプロ選手を輩出している、練習がゲーム中心のメニューが多く身体の使い方のトレーニングも取り組んでいる様子だったので選びました。
しかし僕は、Aチームに入ったりしていましたが半年で辞めてしまいます。いろいろ理由はありますが一番の理由は、ここではプロになれないと判断したからです。
そこでその当時誘ってくれていたJFLのFC大阪というチームに移籍しました。それと同時にFC大阪のトップチームは午前練習で、清明に通っているとトップチームには参加できないということだったので高校をやめてサッカーの専門学校に転校しました。

FC大阪に入り最初はユースの方でプレーしていて、試合に出れない日々もありましたが一年ほど経った時に結果も出せていたということもあり高校2年でトップチームの方に呼んでいただけました。
そこから僕はトップチームでプレーすることになるのですが、
その当時のFC大阪はJFLで一位、天皇杯でセレッソ大阪に勝つ、現在ベガルタ仙台でプレーしている浜崎拓磨選手、京都サンガのジュニーニョ選手、元々J1でプレーしていた選手などもいたためかなりレベルが高かったです。そのため練習について行くのが必死でした。
それでも練習になんとか食らいついて行き一年程経ち練習にも少しずつ余裕が出始めた時に悲劇が起こります。

膝の故障(靭帯損傷)
僕は高校三年の時に靭帯損傷をしサッカーできない日々が続き、復帰をしても膝が沈む様な感覚があり思った様にプレー出来ませんでした。
そんな時にFC大阪の会長から「トップチーム上がりたいんか」って聞かれた時に、僕はトップチームで試合に出れる自信がなく「大学に行きたいです」と答えました。
実際のところ僕の気持ちは、高卒でJ1かJ2に行けないならプロ選手は諦めようと考えていました。

そこでいくつか大学を探し練習参加させていただいた中で、阪南大学か桐蔭横浜大学で悩んでいました。
最初桐蔭横浜で考えていてセレクションも受け合格する段階まで行ってたのですが、阪南大学の筋トレ禁止、初動負荷トレーニングを行うと聞き興味が湧いたので最終的には阪南大学に行く事を決意しました。

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1体1のトーナメント関西8位になった時

【阪南大学 入団】(大学生)
ここで一つ問題が発生し、急に阪南大学に行きたいと言い始めたため推薦枠が空いておらず一般でのAO入試というのを受けることになったが、自己アピールの方法から何もかも分からなかったのでとても苦労しました。
なんとか合格し無事阪南大学に入学する事が決まり、サッカー部に入ることになりました。
そこで新入生大会みたいな合宿があり僕は、4試合で7得点新入生の中で一番点を決める事ができ良いスタートが切れたのですが合宿の後インフルエンザにかかってしまいカテゴリー分けをされる前の練習に一回も行けずにサボったと勘違いされ一番下のカテゴリーに落とされました。
ここで僕のプロに対する気持ちが一気に覚めてしまい、以前から指導者になりたいと考えていたその気持ちの方が強くなりました。
サッカー部では何度かカテゴリー上がる話も出ましたが、この時に僕の所属していたカテゴリーは平日は朝練のみでしたので午後は指導の勉強や新しい知識をつけるために勉強していたため断ってきました。

指導者になりたいとは、高校生の時から思っていて自分なら〈正しい練習で子供たちをサポートする事ができる〉と考えていたからです。
なぜなら僕自信が複数のチーム練習や自練習を行ってきたため理論的に正しい練習を伝えれる自信があるからです。
また他の記事で【僕の考える指導者像】に書いていこうと思います。

話が逸れましたが、僕は阪南大学で初動負荷トレーニングについて学び筋トレがダメな理由、阪南流の技術トレーニング、阪南大学卒業した選手たちがなぜ活躍できるのかについて学びました。
実際阪南大学には、成長するためにプロを断ってきている選手も多くいます。

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FC大阪トップチームvs関西学院大学Aチームとの試合(5番が僕)

【現在】(大学3年生)
現在の僕は、コロナの影響により練習もなく自粛期間が続いているのですがその際に何かできる事を考えた時に、自主練をしている様子を動画で撮りSNSを使い皆さんと成長している姿を共有できモチベーションアップにつなげていただけたら面白いと考えました。
Youtubeで【PSNサッカー個人レッスン】と調べていただければ僕のトレーニング動画が出てくるかと思います。人生で一番ボールを蹴っている気がする。(1日約4時間)      

【今後の目標】
来年の2021年にオランダにサッカー留学
理由は、2つあります。
1つ目が、自粛期間に自主練をしている内にもう一度プロになりたいという気持ちが表れ「このまま諦めたら絶対後悔する」と感じやれるところまでやり後悔しない様にしようと考えました。
2つ目が、サッカーの育成では世界一とも言われているオランダサッカーを肌で感じ将来指導者になる際に生かしたいと考えました。僕が指導者になるなら口だけの指導者にはなりたくなく、自分自身が実際に試し何が正しいかを見極め論理的に伝える事ができる指導者になりたいからです。

以上が僕の自己紹介と今後の目標でした。
ご視聴いただきありがとうございました、では。





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