宗教とドーパミン ー 宗教探訪(5)

NHKスペシャルの「ヒューマンエイジ」というシリーズで、人間の欲望とドーパミンの話をやっていた。

ドーパミンというのは喜びを感じていることを示す脳内物質、厳密には神経伝達物質ということなのだけど、これは動物に共通している。食べ物を得たり、何か欲望を達成すると脳内に大量に分泌される。

ただし、人間だけは問題を解決したときにも分泌されるという。

課題を解決することの喜び。解決すれば、欲望を実現できる。

科学技術を使って、人類の難局を乗り切る。それがある意味、生物的に肯定されているということである。

悪いことではない。番組ではハーバーボッシュ法による化学肥料の発明を例に挙げていた。第二次世界大戦後、食糧危機が危惧されていたが、化学肥料によって食糧の飛躍的な増産が達成される。

「空気からパンをつくる」と言われたそうだ。

しかし、その後、際限なく科学技術を用いることで、公害問題が起こり、その反省から「エコロジー・ブーム」というようなものがのが1980年代前半あたりから始まる。

昨今のSDGs運動はその流れの中にある。意地の悪い見方をすれば、「エコロジー・ブーム」からおよそ40年の努力はあまり実っていないとも言えるが、問題を解決しようとする「欲望」は衰えていないと見ることもできる。

消費への欲求と抑制への欲求、ドーパミンはいずれにしても分泌される。

さて

欲望と科学技術の発展が生物的に結びついているという話は興味深い。

ここでは宗教の話をしている。「経験的に」宗教について探訪することになっている(当初の計画はほぼ頓挫しているが)。

人間個人は宗教なしに生きていけないことはないが、人間の社会は宗教を必要としている。宗教を含まない社会はないと言われ、将来においても宗教がなくなることはおそらくない。

宗教をもつのは生物では人間だけである。

なぜなのか。

この問いとドーパミンの話が結びつく。

欲望を肯定するドーパミンの分泌は少なくとも霊長類には共有されているが、人間は欲望を抑えることを知っている。

欲望をコントロールできる動物は人間の他にもいるとは思うが、それは個体レベルにとどまるだろう。

人間は集団レベルで欲望をコントロールしようとすることがある。

最も基本的なレベルで行われる場合、それは生存戦略、つまり社会を維持しようとする意図が考えられる。

その生存戦略が宗教の原型を形作ったのではないか。欲望の抑制を達成することで喜びが得られる。

宗教の感覚的な発生は驚異的な現象に対する「畏れ」であるとしても、社会的には「欲望の抑制」からの要請であったのではないか。

西洋文明における科学の発展は宗教を退潮させた。それは宗教によって抑制されていた欲望の解放にも繋がっていく。

ドーパミンの話は生物的には「欲望の解放」が科学技術によって問題を解決したいという気持ちと一致することを示唆している。

そして、その進展がもたらした科学技術への過信には、科学技術による問題解決という「欲望」を抑えようとする別の力、その過信を解決しようとする力が作用するようになる。その役目を果たすのはかつては宗教であったかもしれないが、今はSDGs であったりする。

ここで、話の中心は宗教の社会的な機能にならざるを得ない。

宗教のそもそもの発生の要因を社会の維持という社会的な要請とする見解には否定的な立場をとっているが、宗教が社会の維持という機能を早い段階からもっていたことを否定するのは難しい。

社会維持の機能ということになれば、道徳がまず第一に挙げられるが、道徳は本来、宗教に備わっていたものではないとする考え方は重要だ。宗教がもつ不合理、超越存在と道徳は相容れない。これを指摘したのはアンリ・ベルクソン。

宗教と道徳の関係についても整理しておかなくてはならない。日本語の道徳と西洋におけるモラルには微妙な違い、道徳と一般倫理の違いも含め、道徳という何気なく使っている言葉についてもよく確認しておかなければならないのではないか。

その整理を助けてくれそうなのは儒教思想だろう。儒教は宗教ではないという意見が大勢を占めているけれども、こういう宗教的な視点から見ていくと、儒教思想は非常に興味深い。

話が逸れた。

宗教の発生という問題に解決の糸口が見えたような気がして、ドーパミンが少し出かけていたのだけど、考えていくとまだまだ大量分泌にはおぼつかない。




儒教といえば、最近ではこの三冊を見る。新刊ではないですが。

中島 隆博 『中国哲学史  諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中更新書)

小島 毅『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)

加地 伸行『儒教とは何か 増補版』 (中公新書)


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