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目標は、"生きる"

「生きる」と「死なない」は同義語ではないと思います。
「生きる」いう言葉には「死なない」を含めた、より大きな意味があると思うのです。

生命体として存続することも大切です。
自ら選んだ日常を送ることも含まれるでしょう。
目標に達するため、努力を楽しむこともありましょう。

とは言え。
生きることは苦痛を伴います。

わたしの知人には、今にも死にそうな人や、難病、いや、難病指定すらされていない方々がいます。
身体疾病を抱えていなくとも、精神的に追い詰められている人も少なくありません。
とても苦しい日々、いま、この瞬間、苦しんでいます。

ここで。
西行の修行をもとに、苦しみについて考えてみます。
長くなりますが、ざっくり翻訳します。最後までお付き合いのほどを。
古今著聞集に収録されている話です。

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・西行法師は吉野の大峯山に入り、是非修行したいという志を持っていました。
・とは言え、仏道での修行は「中途半端な気持ではできそうもない、自分ができるかしら?」と悩んでいました。
・これを宗南坊(山でたくさん修行を経験した偉い人)が聞いて、
「何も苦しいことなどない。 仏道に縁を結ぶ為には、いつものそのままで差し支えない」と言ったので、西行はウキウキして「何事も大目に見てくれるなら是非お供したい」と言いました。
・宗南坊は「OK、心配ないさ!」と言ったので、修行をはじめました。

ところが!

・そのような約束は全く守られず、礼法を厳しくして無理やり人よりも、とても厳しく傷めつけられました。
・西行は号泣して「私は都では結構有名でした、でもそんなことはどうでもいい......お金も欲しいとも思わない。ひたすら仏道に精進したいと思い立ったのに、先輩からのこの仕打ち......身も心も苦しむことは本当に悔しい」と言いました。

このことを聞いた宗南坊は西行を呼びつけて
「あなたが仏道を信奉する心が強く、難行苦行されていることは世間では知られています。だからこそ、人はあなたを頼って、すがってくるのです。

この山に入って先輩の命令に従って、

我が身を苦しめて、木を切って集めて、水を汲み、叱られて、杖で殴られる、これは、地獄の苦しみを償っているのです。

一日の食事が少なくて、飢えを感じているのは、餓鬼の悲しみを報いています。 

また、重い荷物を背負って、険しい山々を越えて、深い谷をも渡るのは、畜生の報いを果たすことなのです。
 
このように一日中、一晩中、心身をしぼって、
現世の罪を消滅させて、死後の善報を生じさせることを行い、
来世に極楽に生まれ変わり、来世に悟りをひらくことのために修行し、
自分に地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道の苦しみを果たすことで、
穢れのない・悩みのない極楽浄土の地へ向かう心が得られるのです。

あなたは、生死を超えて悟りの境界に入る思いがある、などと言っていますが、
この心をわきまえないで、深く考えもせず判断を謝り、先輩を批判するとは、愚かなことです」

とお話ししました。

・西行は「大変恥ずかしい」と掌を合わせてさらに号泣、「誠に愚かでした。この心を知らなかった」と悔い改めました。
・その後は人よりも一層修行に没頭しました。
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だいたいこんな感じ、かな。

わたしたちは、仏道で修行したいとは思っていないことでしょう。しかし、

生きることは、同じなのではないか、とわたしは考えます。

あらゆる苦しみ、それは西行の体感した
・我が身を苦しめて地獄の苦しみ
・飢えを感じている
・重い「何か」を背負って、這いつくばるように歩く

このような苦しみは、わたしたちも日々、多少、体感しています。
しかし、
わたしたちが苦しむことで「何処かの誰かが救われている」のかもしれません。

そういう想像力を持って「生きる」
ここには意味があると思えます。

とは言え。
植木等の歌「黙って俺についてこい」のように
具体的な「俺」になること、そのようなフィールドがあること。

来年は、これを少しずつ、創っていきたいと思います。それがわたしにとっての「生きる」だから。

ということで、今年もお世話になりました。
来年も、ご贔屓のほどを。

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