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受け取り方の相違~リアクションの乖離について~

皆さんも経験則としてあるのではないでしょうか?

自分自身への返報性を全く求めていなかったとしても、何かの行為・動作や想い(=アクション)を相手に示した時に、

相手から返ってくる反応(=リアクション : 外部からの刺激を受けた事に対応して生じる反射的な動き)の違いがあるという事に不思議だなと思った経験が。


(あれ?もしかしてピンときてない?まあピンと来ていなくても少し読み進めてみては欲しいのですが(´・ω・`)


とりあえず思う事が重なったので、自分なりにまとめてみますね✎

 
 

返報性について軽くまとめる

返報性とは…

・返報性の原理とは相手から受けた好意や敵意などのアクションに対して、「何か返したい」と感じる心理

・返報性は4つ(①好意の返報性②敵意の返報性③譲歩の返報性④自己開示の返報性)に分類することができる

上記にあるようにコミュニケーションの一端として、人は何かしらされればリアクションを起こすだろうと予測できるのですが、

認識の相違(≒捉え方の相違)によりそのリアクションを過度にしてしまったり同等量のアクションにも関わらず何も変化が起きなかったりが生じる事があるよねって事


例えば、様々な形式をとる 愛 もしくは愛情ですが、アクションとしてある程度の量を注いだとして、相手からも同量のリアクションが返ってきていると感じているでしょうか?

それが同じ位と感じるか、多すぎるよ!と感じるか、少ないのでは?と感じるか、はたまた何も感じ得ないか、もっと注ぎ込まなきゃと思うか…

 
 

 

実際どのような動きが生じているのか図示してみる

上記でも示した通り

原則として区分したイメージ

アクションに対してリアクションの実質量はA(A-1,A-2)・B・C・D辺りに区分できるのでは?と思うのですが、

【A-1】①のアクションに対して、②も同量のリアクションをするパターン
 
【A-2】①のアクションに対して、②は総合計で同量のリアクションをするパターン
 
【B】①のアクションに対して、②はそれ以上の量でリアクションするパターン
 
【C】①のアクションに対して、②はそれ以下の量でリアクションするパターン

【D】①のアクションに対して、②は何もリアクションしないパターン
(→最初から興味がないのか、反応をしたくないと思っているのか、反応するに値しないのか、そもそも刺激として届いていないのか)
 
➠このB・C・Dのパターンが起こった際に、過去事象も絡む返報なのか・特に何も考えてないか・未来への投資的な意味合いなのか…総じて捉え方の相違はどのような発生機序なのかはわからない=その個体間・時期・状況等により変化してしまうので確定は出来ない
 
※数値50や30としていますが、わかりやすくアメ5個チョコ3個とかでも良いかも知れません。ご自身がイメージしやすい数値や物に当てはめてみてほしいです

と、こんなイメージが原則としてあります。

前提としてこれらの原則をお持ちの上で、下の図を見て頂きたいのですが、

 
 

互いに同量だと捉えるパターン

※A-1のパターンがわかりやすいのでは?と思ったのでこちらを例に状況を説明していきますね

1、①の人が起こしたアクションの大きさを仮に『50』とした時に、

2、②の人がその大きさをなぜか『40』だと捉え、『②の人が思う大きさ40』でリアクションする。

3、①の人は②のリアクションに対してなぜか『大きさ50』だと捉え、

4、①も②の人も相互で同量の返報性が成り立っていると勘違いする

勘違いだとしてもそれでコミュニケーションが成り立ってしまうのであれば、それはそれで良いのではと思うのですが、


長期的なコミュニケーションとなるとやがて綻びは目立つだろうとは思うので、その辺りの共通点のズレを少しでも減らす為に、言語化などによる明確な指標は必要でしょうね。

乖離するイメージ

※イメージでいえばC2かC3のような話をしていると共通点は沢山あるのに最終的に乖離していくイメージです(この辺の話はこちらから)

 
 
 
 

同量のはずが過度もしくは不足と捉えるパターン

1、①の人が起こしたアクションの大きさを仮に『50』とした時に、

2、②の人がその大きさを『50』だと捉え、『②の人が思う大きさ50』で同量のリアクションする。

3、①の人は②のリアクションに対して『大きさ75』と捉え、

4、①の人は自分以上に②の人がリアクションしてきたんだと捉え、②の人は同量の返報性が①の人と成り立ったんだと勘違いする

いかがでしょう?
日常生活でも結構見たり感じたりする現象ではないでしょうか?

 
 

なぜ相違が起こりうるのか?

各個体の感受性(≒捉え方)による!としてしまうと些か乱暴ではあるのでもう少し綴りますが、それこそ自分の信じている認識パターンの組合せ(≒ビリーフシステム)によるものだと思います。


※ビリーフシステム(Belief System)とは…

固定的な思考・自我・概念・信念 =自分はこうゆう人間だ、〇〇というアクションがきたら●●というリアクションの量をするんだ、世界はこうなっている、世間の常識(だと自分が思っている事)はこうだ、自分の正義はこうだ 等々 ⇒ 様々な事象の判断基準

認識するという動作は、自身の世界観 = 記憶(側頭葉)+前頭前野(ビリーフシステム)で構築されますので、

各個体間での感受性の相違が生じるのは仕方のない事…むしろ当たり前の事ではあるんですよ。

 
 
 

まとめ

相違が生じてしまうのが当たり前だからこそ、見返りを求めてしまうと望んでいる結果と乖離する事が多く、往々にしてつらい結果になるので、端から殆ど望まない方が良いのではと思うし、

あくまで何かしらのアクション(行為・動作・想い等)は、【アクションしたという事に対しての自己満足感の一種】と、【アクションは全て一方向性である】という認識を持ち合わせていた方が、『全然リアクションしてくれないじゃん!!!』という余計なストレスを抱えずに済みます。


Twitterで呟いてたように

一方向性なんだと認識していたら、こちらは与える事だけに集中し、その事を考えて行動をすれば良いので、氣は楽ですよね。



いかがでしたでしょうか?

ある出来事の積み重ねにより、ふとまとめてみようかなと思ったnoteでしたが、何かのきっかけになれば嬉しいです(´・ω・`)

別noteもよろしくお願いします✎

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