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2022年9月18日(日)の四街道教会における礼拝メッセージを公開します。

聖書箇所は以下の3ヶ所です。
旧約聖書:詩編130編
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1〜10節
福音書:マルコによる福音書12章35〜44節

本文:

ガラテヤの信徒に送られた手紙は著者のパウロにとってキリストの福音から離れてしまったように見える教会の人々に当てられた手紙です。すごい内容です。書き出しこそガラテヤの信徒の方々に祝福を祈っていますが、6節以下ではどストレートに「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、他の福音に」移って行こうとしていると断言します。さらにキリストの福音をゆがめて告げ知らせた人は呪われるべきとも語っています。よく手紙を受け取った人たちに破り捨てられないで残ったなと感心しますがその理由は10節に記されており、この手紙は人間に気に入られようと思って書いたのではなくただ神を思って書かれたものだからです。それしか理由は見つけられません。旧約聖書のイザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とある通りです。パウロはあなたたちに紛れ込んでいる悪いパン種、他の福音を直ちに取り除くように願っています。この手紙はガラテヤの人たちだけでなく私たちにも神の前に正しく歩めているのか点検するよう迫っています。

今年から教会で購読し始めた「キリスト新聞」では昨今の旧統一協会問題を受けて旧統一「協会の実相と(キリスト)教会の課題」という連載をおこなっています。先日届いた『キリスト新聞』の見出しには日本聖公会の司祭である卓志雄(たく・じうん)さんが、統一協会に対する批判活動を行ったためにテロによって父親を殺害された非常に悲しく辛い経験を記すと共に、現代のキリスト教会の課題を次のように指摘しています。キリスト「教会は長い間、カルト団体に対して線を引いてきた。『当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)との関わりはありません』………もちろんカルトとは違う『教会』であり、カルトが主張している『家庭』『平和』は間違っていると弁証していく必要がある。しかし………救いを求めた結果、カルト集団に誘惑されてしまった『線の外側』にいる人々を私たちキリスト者は覚えたい。」(卓志雄「【検証 〝協会〟の実相と教会の課題】 カルト教団に命奪われた父 日本聖公会管区事務所宣教主事・司祭 卓 志雄さん」『キリスト新聞』2022年9月11日)

「『線の外側』にいる人々を私たちキリスト者は覚えたい」とはどういうことでしょうか。長くカルト救援活動に従事しているある牧師さんからこういうことを聞きました。「カルト教団の信者になった人たちはとても真面目で、素直で、真剣に平和や家族のことを考えている人たちである。問題は平和や家族のことを思い救いを求めて来た人たちを騙して洗脳し、金づるとして搾り取ろうとするカルト教団の教祖、上層部にある」。カルト教団の手法は悪ですが、その信者の多くは被害者なのです。しかしキリスト教会はどちらかというとカルトを排除することに夢中になり、カルトと自分達の間に線引きをしてカルト被害に遭い苦しんでいる人、その家族すら排除していなかったか。そのことを「当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、統一協会(世界基督教統一神霊協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)との関わりはありません」との文言を掲げたことのある教会は問われていると記事は語っているのだと思います。

キリスト教会がガラテヤの信徒への手紙1章4節に記されていた「この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」イエスへの応答としてふさわしく歩めていたかが問われています。イエスはご自身とこの世の悪とを区別しましたが、悪を排除したわけではなくむしろ罪人の頭と人から呼ばれるほど悪の世に自ら進んで行って私たちを救い出してくださり、御自身を私たちの罪のために献げてくださいました。これが私たち教会の信仰です。私たちは車とか家とかパソコンなどと同じように定期的な点検を必要としています。点検をして悪いところが見つかってもそれを治せば何の問題も起こらないので点検を必要とすることは決して悪いことではありません。神さまが私たちに求めているのは点検やメンテナンス不要でいつも正しく生きられるということではありません。神さまが私たちに求めているのは定期的に点検をして悪いところがあった時にふさわしいメンテナンスを行い、正しく歩めるよう軌道修正しながら生きていくことです。キリスト教ではそれが「罪の告白」や「悔い改め」という仰々しい語を用いるので外からキリスト教の世界に飛び込んでくる人を身構えさせる原因となっていますが、要するにキリスト者の生き方とは神の前に正しく歩めているか日々点検して悪いところが見つかったらそれを治して歩むということです。神さまは悪や罪の一つ一つを見逃さず裁く方ではなく悪いところに気づき直そうとする人間を赦して応援してくれる方です。

「神の前に一つの過ちも犯さない正しい人はいない。だけど神は私たちの罪や過ちをすべて包むほど慈しみにあふれている方である。私たちの背きを贖う神の恵みが尽きることはない。」これはこの後に歌う賛美歌22番「深き悩みより」5節で歌われている内容です。作詞は宗教改革者マルティン・ルターであり、詩編130編が基になっています。ルターは民衆のために賛美歌をたくさん作りました。気取った宮廷の言葉ではなく民衆の言葉、飾らない率直な言葉で真実を歌うことによって民衆の心に聖書の言葉を刻み込むという願いを持っていました。

聖書の言葉を心に刻むとは聖書の言葉をすべて均一に扱い一言一句覚えるということではなく、聖書の中で特に大切な部分、神さまの心と思いがよく表されている部分を知ることです。苦難を経験する時や悲しい思いをしている時に心に刻まれた神の言葉が私たちの生きる拠り所となります。ルターは非常に真面目な人で、自分がどれだけ励んでも過ちを一つも犯さず悪い考えを一切持たないという正しい人にはなれないということを知っていました。同じように真面目で誠実な人ほど自分の中にある醜い部分や悪の部分、弱い部分を見つめ、どうやってもそれを解決することができないという深い悩みを持つのではないでしょうか。宗教改革者ルターも同じように深い苦悩を経験しました。そして彼はついに発見するのです。神の前に一つの過ちも犯さない正しい人はいないけれど、神は私たちの罪や過ちをすべて赦してくださる方であると。ルターはそのことを聖書の中心的なメッセージであると確信して自分が作った賛美歌の歌詞に載せ、これを歌う民衆の心に刻まれることを願いました。

私たちは絶えず悪からの誘惑に遭います。悪いことも悪い考えも一つも起こさないなんて不可能です。でも神さまも私たちに一つの過ちも犯さないことは求めていません。定期的に点検をして、悪い部分を治していくことを願っています。神は私たちの悪や罪の一つ一つを裁く方ではなく点検をして直そうとする私たちを赦し、再び神の前に正しく生きられるよう祝福してくださる方です。そのために私たちの救い主イエス・キリストは「この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださ」いました。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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