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おかげさま 2024年6月23日主日礼拝説教



2024年6月23日(日)

聖書:ヨハネによる福音書4章27~42節

牧会祈祷:

 私たちの神さま。先週日曜日の午後に牧師就任式を執り行う幸いが与えられ、新潟地区内外から多くの方が出席してくださり恵みと祝福にうちにこれを終えることができました。心から感謝いたします。準備や当日の働きを担った教会員一人一人をあなたが労ってください。どうぞこれからの教会のあゆみの上にあなたの祝福、励まし、導きが豊かにありますように。また十日町幼児園、山本愛泉保育園の上にもあなたのお守りがあるよう祈ります。

 神さま、先週日曜日の礼拝から祝福のうちにそれぞれの生活の場に遣わされた私たちでしたが、あなたの御心をたずねることが少なく、祈る時には自分の願いばかりを並べており、隣人のことを思いやることの少ない私たちでした。私たちの頑なな心が打ち砕かれることを願います。あなたに立ち返り、あなたの限りない愛にお応えする者にならせてください。

 教会に関係するこどもたちから歳を重ねた全てのもののために祈ります。一人一人に必要な良い全てのものをあなたが備えてください。今日一日をあなたに対する感謝を持って過ごすことができますように。

 十日町幼児園、山本愛泉保育園のために祈ります。昨日は愛泉保育園で運動会・あいせんファミリーカーニバルが開催されました。楽しい時間をありがとうございます。少子化の中にあって子どもたち一人一人が本当に大切な存在であることを私たち社会は気付かされています。これからますます厳しくなる社会を生きていかなければいけない子どもたちですが、いつも、どんな時にも助けてくださる神さまがいるという信頼や信念を持って生き抜けるようそれぞれの園でキリスト教保育が行われています。どうか神さま、子どもたち一人一人を顧みてください。またそこで働く職員一人一人をもあなたが覚え、お支えくださいますように。やりがいだけでは到底できない大変な仕事です。子どもたちを育む中で得られる喜び、感謝をあなたがお与えください。また国や地方自治体も必要な処遇改善の取り組みが速やかに行えるよう知恵をお与えください。

 病のため、家族の介護、看病のため、仕事のため、その他様々な事情で礼拝に参加できない友をおぼえて祈ります。その場にイエスが共にいてくださり、寄り添ってくださることを私たちは信じて祈ります。これらの祈りをここにいる一人一人の心の祈りと合わせ、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

説教:


説教音源は以下のリンクをクリックして聞くことができます。


イエスと弟子たちとの関わりから学ぶこと

 イエスがサマリア人女性と井戸で出会う先週の物語の続きの箇所です。2人が会話をしていると、町に食べ物を買いに行っていたイエスの弟子たちが帰ってきました。道端で男性と女性が話をするという文化は当時ありませんでしたから、彼らはイエスが女の人と話をしているのに驚きます。しかしさすが弟子、と言えるのでしょうか。イエスが女性と何を話しているのかを詮索しません。弟子たちは何か訳ありだったからイエスが女性と話しているのだということを察しています。これは弟子たちを見習うべきところです。私たちはつい興味と関心が先行して「さっき話していたの誰ですか?どんな話をしていたんです?」と尋ねたいという欲求に駆られることがあります。しかし私たちはある意味で一線を引いて自分がすべてを知る必要はないということを弁える必要があります。私も牧師という仕事をしていると様々な人と出会いお話する機会がありますが、牧師としてお話を聞く場合は守秘義務が生じますので皆さんにお尋ねされてもほとんど答えられません。そこはご理解いただきたいと思います。

出会いは力

 弟子たちが帰ってきたので女性はその場を去っていきます。彼女は喉が渇いたイエスのために水がめを置いて自分の町に帰り、人々にイエスのことを伝えたといいます。この部分は何気ない記述ですが私たちは先週、この女性がわざわざ誰もいない正午に井戸に水を汲みにくる訳ありの女性であって、いまは町の誰とも会いたくない、交流したくないと思っている人であることを知りました。そんな人が町に帰り、人々にイエスのことを伝えたというのですからこの女性に驚くべき変化が起こったことを知る必要があります。何が町の人と関わりたくないと思っていた女性を変えたのか。それは出会いです。出会いには力があります。それが良い方向にも悪い方向にも働くことがあって、例えばあの人に出会ったばかりに悪い道に走ってしまったということもありますが、私たちはイエスとの出会いには人を良い方向へと向かわせる力、人を回復される力があることを信じています。だからこそ十日町幼児園、山本愛泉保育園ではキリスト教保育を掲げてこどもたちに神さまの愛、イエスの愛を注いで子どもたちを育むということを大切にしています。子どもたちの人生には様々な出会いがありそれがいつも良いものであるとは限らないけれど、イエスと出会った経験が人生の要所要所で力となって支えられたり癒やされたり回復させられたりするということを信じてキリスト教保育を行うのです。

イエスさま、どういうことですか?

 女性が去ると次にイエスと弟子たちとの会話が始まります。弟子たちはそもそも町に食べ物の買い出しに行っていましたから「先生、召し上がってください」と食事を勧めます。しかしイエスは「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」と奇妙な返答をしています。弟子たちはイエスの言っている意味がわかりません。「誰かが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合っているとイエスは言います。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(繰り返す)。どういう意味なのでしょう。「私の食べ物とは…神の業を成し遂げること」。日本語としておかしいんじゃないか、どういう意味なのかと私も疑問に思い様々な解説書を調べました。結論としては真ん中に一文省略されているから分からなくなっているということです。ではここには何が省略されているのでしょうか。

人はパンだけで生きるものではない

 イエスは荒れ野で空腹を感じた際に悪魔から誘惑を受けた際にこういうことを言っています。「人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。これは旧約聖書・申命記8章3節後半に記された言葉の引用です。申命記8章2節から3節までお読みしますのでお聞きください。神の預言者モーセが神の言葉に従って民を率いてエジプトから脱出し、いよいよ神が約束した地に到着する直前でモーセが語った遺言です。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。」モーセに率いられてエジプトから脱出した民はすぐに目的地に到着したのではなくて40年間も砂漠のような荒れ野を旅したというのですね。続きです。「こうして主はあなたを苦しめて試し(寒河江注:目的にまで40年も着かなかったということですね)、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

タイ国青少年ワークキャンプに参加して

 苦しめて試し、あなたの心にあること、本当に神さまの教えを守って生きようとするか知ろうとされたってなかなか神さまは厳しいお方だなと思いますね。この言葉を読んで私は学生時代に参加したタイ国青少年ワークキャンプのことを思い出しました。このキャンプではタイの農村部(それこそ雨水をシャワーとして使う村)で思い切り体を使って働きます。「ワークハード」を標語にして朝から夕方までみっちりと肉体労働をするため日本から参加した青年たちは最初は元気でもどんどん疲れが蓄積していきます。するとどうなるでしょう。最初は和気あいあい、仲良し集団だった日本人キャンパーの仲がギスギスしてくるんですね。ちょっとしたこと、例えばシャワーを浴びた後に床に溜まった髪の毛や石鹸の泡を洗い流さずに出て来て次に入った人が嫌な思いをしたとか、携帯電話の充電に必要なコンセントをいつも1人の人が独占して他の人が使えなくなっているとか、ワークの際に1人だけゆっくりの人がいてそこだけペースが乱れるとか。心と体が元気な時にはそうしたことは許容できたり、相手に伝えるにしても言い方を考えてきつくならないように言えるんですが疲れてくると「何考えてんねん。人のこと考えろよ。」という思いが溜まって来てある時に爆発するんですね。そうなると非常にギスギスしてしまう。

人の心には汚い、醜いものがあることを自覚する

 でも、これがキャンプを主催するキリスト教慈善団体・好善社の狙いの一つでもあるんです。ギスギスが一定程度を超えたところで主催者側が言います。「皆さん、今いろいろな思いを抱えていますね。日本にいるときは仲が良いと思っていた人とも長期間一緒に過ごすと普段見えていなかった一面を見ることがあり、相手のことを思いやることが普段はできていたとしてもいまはできなくなっている、別の思いで心が満たされているかもしれません。自分が苦しい時、余裕がない時に自分の心にあることをしっかりと見つめてください。綺麗なものだけでなく汚いもの、醜いものもあるでしょう。それが人間です。キリスト教では人は完璧ではなく欠けのある弱い存在だと考えていますが、そのようないわゆる罪人を神さまが愛し、助け、神さまの力で持ってなお私たちが互いに愛し合えるよう導いてくださるんです。そのことのありがたさを本当にわかるためにはまず自分の限界を知る必要がある。だからこのキャンプでは「ワークハード」を標語にしています。」

 少なくとも私はこれを聞いた時にハッとさせられました。日本にいるときは教会で罪人という言葉を聞いても実感を持って理解していませんでしたが、異国の地タイで疲労が溜まり余裕がなくなってくると自分の心を満たしている思いが他者への非難や裁きであったからです。私たちは誰しも欠けや弱さを持っていて、それが普段の生活では表面上現れなかったとしても非日常的な何かが起きて余裕を失う時にそれが表面に出てくるということを体験をして知ることができました。

人はパンだけでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる

 私たちは苦しい時に試され、自分の心に何があるのかを自覚します。そこにあるのは綺麗なものではなく汚いもの、醜いものです。他者を慮る心ではなく他者を非難し裁く心で占めている事実に気付かされます。そんな私たちだからこそパン/食べ物だけではなく神の口から出る一つ一つの言葉が必要なのです。神の言葉というパンによって心に栄養をいただかないと私たちは他者を裁き、自分中心に生きてしまう危険を持っています。ですからイエスが34節で語った「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」という言葉の間にある一文とは「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる」という言葉です。イエスはただ食べ物を食べ体に栄養をいただいて生きるだけでは不十分であり、私たちは神の言葉を聞いて心に栄養を蓄え、神の思いを実践して生きることを通して本当に充実した人生を歩めるのだと告げています。

種を蒔く人と刈り入れる人は違う

 35節以下は刈り入れの話です。特に37節以下「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」という言葉は先週就任式を迎えた私自身が痛感している事柄です。十日町に来て2ヶ月半が経ちました。少しずつ生活にも慣れ、地域の皆さんとも交流の輪が広がって来ました。「十日町どうですか。慣れましたか」という温かい言葉がけを皆さんから頂き、十日町の皆さんの人柄の良さを感じています。私が着任して2ヶ月半の中で痛感するのは歴代牧師たちの築いてきたこの町での信頼です。私は松井先生、新井先生、久保田先生たちがこの地で一所懸命に蒔いてくださった種から刈り取らせていただいていることを肌身で感じており、感謝に堪えません。同時に私自身も次の世代のために一所懸命に種を蒔こうという思いが与えられています。

大きな視点で物事を見つめ、次世代のために種を蒔く

 種を蒔いたのにそれを収穫できないというのはそこだけを見ると、短期的な視点で考えると骨折り損のくたびれもうけのように思えます。しかし私たちは神さまの計画という大きな、長期的視点で物事を見つめる必要があり、神さまの思いを知るためにパンだけでなく神の口から出る一つ一つの言葉を聞きます。私がこの世の生を終えてもこの町は、この教会は残ります。その人たちが豊かに収穫できるように私たちは種を蒔き続けるのです。自分で努力して種を蒔きその収穫に与るのではなく、誰かのおかげさまで収穫に与っていることを自覚し、これに感謝して次世代のために、特にいまを生きる子どもたちのために種を蒔き続けて参りましょう。

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